二
これでは水を泳ぐのではない。水の上を辷っているのだ。 スーッと行ってはクルリと振返り、スーッと行ってはクルリと振返る。 侍は腕を組んで考え込んだ。 「む――」と侍は唸り出して了った。だが軈て呟いた。「南宗流乾術第一巻九重天の左行篇だ! あの老人こそ鵞湖仙人だ! ……今に消えるに相違無い!」 はたしてパッと水煙が上った。同時に湖上の老人の姿が、煙のように消えて了った。 見抜いた武士も只者では無い。 むべなる哉この侍は、由井民部介橘正雪。
南宗流乾術第一巻九重天の左行篇に就いて、説明の筆を揮うことにする。 これは妖術の流儀なのである。 日本の古代の文明が、大方支那から来たように、この妖術も支那が本家だ。南宗画は本来禅から出たもので、形式よりも精神を主とし、慧能流派の称である。ところが妖術の南宗派は、禅から出ずに道教から出た。即ち老子が祖師なのである。道教の根本の目的といえば、長寿と幸福の二つである。この二つを得るためには、代々の道教家が苦心したものだ。或者は神丹を製造して、それを飲んで長命せんとし、或者は陰陽の調和を計り、矢張り寿命を延ばそうとした。幸福を得るには黄金が必要だ。それで或者は練金術[#「練金術」はママ]をやって、うんと黄金を儲けようとした。 神仙説を産んだのも、矢張り長寿と幸福との為めだ。 だが、併し、妖術の元は、幸福を得るというよりも、長寿を得ると云う方に、重きを置いていたらしい。ところで妖術の著書はと云えば、枹木子を以て根元とする。そこで筆は必然的に、枹木子に就いて揮わなければならない。 ところが洵に残念なことには、枹木子の著者は不明なのである。これほど素晴らしい本の著者が、不明というのは不思議であるが、しかし一方から見る時は、不明の方が本当かもしれない。屹度神仙が作ったんだろう、と云ってた方が勿体が付いて、却って有難くもなるのだから、尤も一説による時は、葛洪という人の著書だそうだ。 ところで枹木子は内篇二十篇外篇五十二篇という大部の本だ。詳しい紹介は他日を待ってすることにしよう。 枹木子は妖術の根本書で、非常に非常に可い本である! ただ是だけでいいでは無いか。 だが、本当を云う時は、この枹木子は妖術書では無くて、仙術の本という可きである。 で、真実の妖術書といえば、その枹木子の精粋を取り、更に他方面の説術を加味した「南宗派乾流」という本なのである。
三
その有名な妖術書の「南宗派乾流」は足利時代に、第一巻九重天だけ、日本へ渡って来たのである。第一巻九重篇だけでも、どうしてどうして素晴らしいもので、それを体得しさえしたら、どんな事でも出来るのだそうだ。 それを何うして手に入れたものか、鵞湖仙人という老人が、何時の間にか手に入れて、ちゃんと蔵っているのであった。 それを何うして嗅ぎ付けたものか、由井正雪が嗅ぎ付けて、それを仙人から奪い取ろうと、遙々江戸から来たのであった。
物語は三日経過する。 此処は天竜の上流である。 一宇の宏大な屋敷がある。 薬草の匂いがプンプンする。花が爛漫と咲いている。 鵞湖仙人の屋敷である。 その仙人の屋敷の附近へ、一人の侍がやって来た。他ならぬ由井正雪である。 先ず立って見廻わした。 「ううむ、流石は鵞湖仙人、屋敷の構えに隙が無い。……戌亥にあたって丘があり、辰巳に向かって池がある。それが屋敷を夾んでいる。福徳遠方より来たるの相だ。即ち東南には運気を起し、西北には黄金の礎を据える。……真南に流水真西に砂道。……高名栄誉に達するの姿だ。……坤巽に竹林家を守り、乾艮に岡山屋敷に備う。これ陰陽和合の証だ。……ひとつ間取りを見てやろう」 で、正雪は丘へ上った。 「ははあ、八九の間取りだな。……財集まり福来たり、一族和合延命という図だ。……ええと此方が八一の間取り。……土金相兼という吉相だ。……さて此方は一七の間取り。僧道ならば僧正まで進む。……それから此方が八九の間取り。……仁義を弁え忠孝を竭す。子孫永久繁昌と来たな。……それから此方は七九の間取り。……うん、そうか、あの下に、金銀が蓄えてあると見える。金気が欝々と立っている。……さて、あいつが九六の間取りで庭に明水の井戸がある。薬を製する霊水でもあろう。六四の間取りがあそこにある。……公事訴訟の憂いが無い。……戌亥に二棟の土蔵がある。……即ち万代不易の相だ。……戌にもう一つの井戸がある。……一家無病息災と来たな。……グルリと土塀で囲まれている。……厩が二棟立っている。……母屋の庭は薬草園だ。……」 由井正雪は感心した。 正雪は一代の反抗児、十能六芸武芸十八番、天文地文人相家相、あらゆる知識に達していたので、曾て驚いたことが無い。 それが驚いたというのだから、よくよくのことに相違無い。 「さて、これから何うしたものだ」 彼は思案に打ち沈んだ。 「路に迷った旅人だと、嘘を云って乗り込もうか。いやいや看破かれるに違いない。では正直に打ち明けて「術書」の譲りを受けようか。なかなか譲ってはくれないだろう。……うん、そうだ。忍び込んでやろう。俺は忍術葉迦流では、これでも一流の境にある。目付けられたら夫れまでだ。叩っ切って了えばいい。旨く術書が探ぐりあたれば、そのまま持って逃げる迄だ。よし、今夜忍び込んでやろう」
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