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鵞湖仙人(がこせんにん)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-9-2 7:21:40 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


     二

 これでは水を泳ぐのではない。水の上を辷っているのだ。
 スーッと行ってはクルリと振返り、スーッと行ってはクルリと振返る。
 侍は腕を組んで考え込んだ。
「む――」と侍は唸り出して了った。だが軈て呟いた。「南宗流乾術なんそうりゅうけんじゅつだいまき重天ちょうてん左行篇さぎょうへんだ! あの老人こそ鵞湖仙人だ! ……今に消えるに相違無い!」
 はたしてパッと水煙が上った。同時に湖上の老人の姿が、煙のように消えて了った。
 見抜いた武士も只者では無い。
 むべなる哉この侍は、由井民部介橘正雪。

 南宗流乾術第一巻九重天の左行篇に就いて、説明の筆を揮うことにする。
 これは妖術の流儀なのである。
 日本の古代の文明が、大方支那から来たように、この妖術も支那が本家だ。南宗画は本来禅から出たもので、形式よりも精神を主とし、慧能流派の称である。ところが妖術の南宗派は、禅から出ずに道教から出た。即ち老子が祖師なのである。道教の根本の目的といえば、長寿と幸福の二つである。この二つを得るためには、代々の道教家が苦心したものだ。或者は神丹を製造して、それを飲んで長命せんとし、或者は陰陽の調和を計り、矢張り寿命を延ばそうとした。幸福を得るには黄金が必要だ。それで或者は練金術[#「練金術」はママ]をやって、うんと黄金を儲けようとした。
 神仙説を産んだのも、矢張り長寿と幸福との為めだ。
 だが、併し、妖術の元は、幸福を得るというよりも、長寿を得ると云う方に、重きを置いていたらしい。ところで妖術の著書はと云えば、枹木子を以て根元とする。そこで筆は必然的に、枹木子に就いて揮わなければならない。
 ところが洵に残念なことには、枹木子の著者は不明なのである。これほど素晴らしい本の著者が、不明というのは不思議であるが、しかし一方から見る時は、不明の方が本当かもしれない。屹度神仙が作ったんだろう、と云ってた方が勿体が付いて、却って有難くもなるのだから、尤も一説による時は、葛洪かっこうという人の著書だそうだ。
 ところで枹木子は内篇二十篇外篇五十二篇という大部の本だ。詳しい紹介は他日を待ってすることにしよう。
 枹木子は妖術の根本書で、非常に非常に可い本である! ただ是だけでいいでは無いか。
 だが、本当を云う時は、この枹木子は妖術書では無くて、仙術の本という可きである。
 で、真実の妖術書といえば、その枹木子の精粋を取り、更に他方面の説術を加味した「南宗派乾流」という本なのである。

     三

 その有名な妖術書の「南宗派乾流」は足利時代に、第一巻九重天だけ、日本へ渡って来たのである。第一巻九重篇だけでも、どうしてどうして素晴らしいもので、それを体得しさえしたら、どんな事でも出来るのだそうだ。
 それを何うして手に入れたものか、鵞湖仙人という老人が、何時の間にか手に入れて、ちゃんと蔵っているのであった。
 それを何うして嗅ぎ付けたものか、由井正雪が嗅ぎ付けて、それを仙人から奪い取ろうと、遙々江戸から来たのであった。

 物語は三日経過する。
 此処は天竜の上流である。
 一宇の宏大な屋敷がある。
 薬草の匂いがプンプンする。花が爛漫と咲いている。
 鵞湖仙人の屋敷である。
 その仙人の屋敷の附近へ、一人の侍がやって来た。他ならぬ由井正雪である。
 先ず立って見廻わした。
「ううむ、流石は鵞湖仙人、屋敷の構えに隙が無い。……戌亥にあたって丘があり、辰巳に向かって池がある。それが屋敷を夾んでいる。福徳遠方より来たるの相だ。即ち東南には運気を起し、西北には黄金のいしずえを据える。……真南に流水真西に砂道。……高名栄誉に達するの姿だ。……ひつじさるたつみに竹林家を守り、いぬいうしとらに岡山屋敷に備う。これ陰陽和合の証だ。……ひとつ間取りを見てやろう」
 で、正雪は丘へ上った。
「ははあ、八九の間取りだな。……財集まり福来たり、一族和合延命という図だ。……ええと此方が八一の間取り。……土金相兼という吉相だ。……さて此方は一七の間取り。僧道ならば僧正まで進む。……それから此方が八九の間取り。……仁義を弁え忠孝をつくす。子孫永久繁昌と来たな。……それから此方は七九の間取り。……うん、そうか、あの下に、金銀が蓄えてあると見える。金気が欝々と立っている。……さて、あいつが九六の間取りで庭に明水の井戸がある。薬を製する霊水でもあろう。六四の間取りがあそこにある。……公事訴訟の憂いが無い。……戌亥に二棟の土蔵がある。……即ち万代不易の相だ。……戌にもう一つの井戸がある。……一家無病息災と来たな。……グルリと土塀で囲まれている。……うまやが二棟立っている。……母屋の庭は薬草園だ。……」
 由井正雪は感心した。
 正雪は一代の反抗児、十能六芸武芸十八番、天文地文人相家相、あらゆる知識に達していたので、曾て驚いたことが無い。
 それが驚いたというのだから、よくよくのことに相違無い。
「さて、これから何うしたものだ」
 彼は思案に打ち沈んだ。
「路に迷った旅人だと、嘘を云って乗り込もうか。いやいや看破かれるに違いない。では正直に打ち明けて「術書」の譲りを受けようか。なかなか譲ってはくれないだろう。……うん、そうだ。忍び込んでやろう。俺は忍術葉迦流では、これでも一流のいきにある。目付けられたら夫れまでだ。叩っ切って了えばいい。旨く術書が探ぐりあたれば、そのまま持って逃げる迄だ。よし、今夜忍び込んでやろう」

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