七
私は実に此時まで、刀は抜かなかったのでござります。刀には刀の気息があって俗に刀気と申しますが、殺気と申しても宜敷でしょう。 でその刀気はある場合には、相手を威嚇する武器として非常に役立つのでございますが、又反対に或場合には身の禍ともなるのでした。即ち、抜身を持っているが為めに、刀気走って身を隠すことが出来ず、闇討の憂目に逢うのです。 私は、そうやって戸の面へ、ピッタリ体を食付けたまま静かに暗中を隙かして見ました。 果然、相手の居所が、抜身を握って居たが為に、自と私に解って参りました。私の立っている戸口から、斜めに当たる室の隅に、刀気が仄かに白々と走っているではござりませぬか。 「よし。勝利は此方のものだ!」私は思わず心の中で斯う呟いたものでした。 そうして本当に其決闘は私の勝に帰しました。――ハッと私が気息を弛める。そこを狙って突いて来た。と直ぐ除けて入身になる。一髪の間に束を廻わし、「カーッ」と一声掛けると同時に胴切にしたのでござります。 ばったり床へ仆れる音。ムーと呻く苦しそうな声。そして静かになりました。 「しまった」と、其時、思わず私は、大声を上げて了いました。深手を負わせるという約束に背いて時の逸みとは云い乍ら、切り殺したように思われたからです。 扉が開かれ、松火が点され、神々しい威厳を体に持たせた二人の男女を中にして、覆面の水夫達数十人が、室の中へ這入って参りました時、松火の光に照らされて、一人の大男が血に染みながら床の上に斃れて居りますのを、私は明瞭り[#「明瞭り」はママ]認めましたが、それこそ決闘の相手でした。 「イルマ将軍とも云われた者が、いかに悪行の酬いとは云え[#「云え」は底本では「云へ」]、この死態は何事じゃ! ……おお天晴れな日本の勇士! よくぞお援助下された。柬埔寨国の国王アラカンが厚くお礼を申しますぞ」 「や!」と思わず此の私は、神々しい迄に威厳のある、其人の姿を見詰めましたが「それでは貴郎様は柬埔寨国のアラカン王陛下でござりましたか?」――「左様」と其人は頷きましたが「そして此処に居る此婦人は、朕が連れ合い、即ち、王妃!」 「王陛下と王妃陛下! ホホウ、左様にござりましたか。さりとも存ぜず意外の失礼、何卒お許し下さりますよう。偖、王陛下と承まわり、お尋ね致し度き一義ござります。……今より大略五年以前に、皇太子におわすカンボ・コマ殿下、悪人共の毒手に渡り、お行方不明になられませなんだかな?」 「おお如何にも其通り、行方解らずなり申した。……そして其行方を突き止めて、コマの安否を知りたいばかりに叛将イルマを捉えながら[#「捉えながら」は底本では「捉へながら」]、早速に誅罰を加えようともせず、却って彼の申し出に従い其方を加えて十人の勇士を、憎む可き彼の毒刃の前に、おめおめ晒した次第でござるよ。と申すのは彼の口から皇子の成行を聞きたかったからじゃ……が其希望も今は絶えて、イルマは此通り死んで了った! 語る可き口も閉じられて了った!」 「あいや其儀でござりましたら、必ずご心配はご無用でござります」 私は思わず大声で、斯う叫んだのでござりました。驚き審かる両陛下の前で、それから私は細々とカンボ・コマ皇子をお救助け致した、五年以前の出来事を、申し上げたのでござります――。
此処まで九郎右衛門は語って来ると、感慨深そうに[#「感慨深そうに」は底本では「感概深そうに」]瞑目した。そうして暫く黙っていた。一座の者も押し黙って咳一つ為る者も無い。――軈て、忠清は斯う云って訊いた。―― 「……フウム、左様か、五年以前に、柬埔寨国の皇太子、カンボ・コマ皇子を其方が、お救助け致したと申すのじゃな? 面白そうな話じゃの。それを詳細く聞かしてくれい」 「かしこまりましてござります」 其処で九郎右衛門は改めて、その事件に就いて物語った。 その物語は既に以前に、九郎右衛門に代って此作者が、大略書き綴った筈である。…… 兎に角、斯うして九郎右衛門は、王ご夫婦と皇子とを、お救助けすることが出来たのであった。親子の対面が行われた時、どんなに皆が歓喜したか? 説明にも及ぶまい。 間も無く王朝は恢復された。そうして日本と柬埔寨国との通商貿易も行われるようになった。 「しかし、どうして王、王妃は、叛軍共の目を眩まして、牢獄から出ることが出来たのであろう?」 ――審かしそうに忠清は訊いた……。 「忠義の臣下が、隙を伺い、盗み出したのだそうでござります。……覆面をした水夫の群こそ、その臣下達でござりました」 「浮沈自由の奇怪の船、その後何んと致したな?」 「撃沈めましてござります」 「それは又何故に沈めたか?」「兵器は兇器でござります故……」 「如何にも左様じゃの」と、酒井忠清は、呟き乍ら頷いた。 「左様な兇器の働かぬ世が、どうぞ何時迄も続くように」 「御世は万歳でござります!」赤格子九郎右衛門は老いても鋭い、その両眼を輝かせ乍ら斯う磊落に叫んだが、その声の中、風貌の中には、壮者を凌ぐ勇猛心が、尚鮮かに見えていて一座の名賢奇才達をして、却って顔色無からしめたのである。
●表記について
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