現代日本文學大系 6 北村透谷・山路愛山集 |
筑摩書房 |
1974(昭和44)年6月5日 |
1985(昭和60)年11月10日初版第15刷 |
1977(昭和52)年4月20日初版第7刷 |
過ぬる明治二十二年の秋、少数の有志相会して平和会なる者を組織せり。爾来同志を糾合し、相共に此問題を研究し来りしが、時機稍到来し、茲に一小雑誌を刊行して我が同胞に見ゆるの栄を得たるを謝す。 平和の文字甚だ新なり、基督教以外に対しては更に斬新なり。加ふるに世の視聴を聳かすに便ならぬ道徳上の問題なり。然れども凡そ宗教の世にあらん限り、人の正心の世界を離れぬ限り、吾人は「平和」なる者の必須にして遠大なる問題なるを信ず。吾人は苟くも基督の立教の下にあつて四海皆兄弟の真理を奉じ、斯の大理を破り邦々相傷ふを以て、人類の恥辱之より甚しきはなしと信ず。吾人は言ふ、基督の立教の下にありと。然れども吾人、豈偏狭自ら甘んぜんや、凡そ道義を唱へ、正心を尊ぶもの、釈にも儒にもあれ、吾人焉んぞ喜んで袂を連ねざらんや。吾人は政論家として若くは経世家として、是問題を唱道する者にあらず、尤も濃厚なる、尤も着実なる宗旨家として、善く世の道理力と人の正心とを対手として、以て吾人の天職を尽さんとするにあり。 抑、平和は吾人最後の理想なり。墳墓の外吾人に休神せしむる者終に之なからんか、吾人即ち止まむ。然れども苟くも円満なる終極の天地を念々して吾人の理想となし得る限りは、「平和」の揺籠遂に再び吾人を閑眠せしむる事ある可きを信ず。人と人との間、邦と邦との間に猜疑騙瞞若し今日の如くにして終るとせば、宗教の目的何所にかあらむ。強は弱の肉を啖ひ、弱は遂に滅びざるを得ざるの理、転々して長く人間界を制せば、人間の霊長なるところ何所にか求めむ。基督、仏陀、孔聖、誰れか人類の相闘ひ、相傷ふを禁ぜざる者あらむ。 且つ夫れ兇器の横威、人倫を泯し、天地を冥うする事久し。特に欧洲に於て然りとなす。甘妙なる宗教の光明も暗憺たる黒雲に蔽はれて、天魔幕上に哄笑するかとぞ思はる。今や往年の拿翁なしと雖、武器の進歩日々に新にして、他の拿翁指呼の中に作り得べし、以て全欧を猛炎に委する事、易々たり。是よりの戦争は人種の戦争尤も多かるべく、塵戦又た塵戦、都市を荒野に変ずるまでは止まじと某政治家は言へり。吾人の、平和の君を世に紹介する、豈偶然ならんや。 今や「平和」なる一孩子、世に出づ。知悉す、前途茫々、行路峭※[#「山+角」、72-上-23]たるを。大喝迷霧を排ふは吾人の願ふ所にあらず、一点の導火となりて世の識者を動かさん事こそ、吾人が切に自ら任むところなれ。更に言ふ、吾人は宗教と併行し、道心と相聯り、以て吾人の希望を達せんと期す。戦争は政治家の罪にあらずして、人類の正心の曇れるに因つてなることを記憶せられよ。幸に江湖の識者来つて、吾人に教へよ、吾人をして通津を言ふの人たらしむる勿れ。吾人は漁郎を求めつゝあり、吾人をして空言の徒とならしむる勿れ。天下誰れか隣人を愛するを願はざる者あらむ。
(明治二十五年三月)
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