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内部生命論(ないぶせいめいろん)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-31 10:59:20 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


 人性に上下なく、人情に古今なし、とは「観察論」の著者の名言なり。実にや詩人哲学者の言ふところは、人情が自ら筆を執つて万人の心に描きたるものに外ならざるなり。善と言ひ、悪と言ふも元より道徳学上の製作物にあらざること明らかなり。究竟するに善悪正邪の区別は人間の内部の生命を離れて立つこと能はず、内部の自覚と言ひ、内部の経験と言ひ、一々其名を異にすと雖、要するに根本の生命を指して言ふに外ならざるなり。詩人哲学者の高上なる事業は、実に此の内部の生命をセイるより外に、出づること能はざるなり。内部の生命は千古一様にして、神の外は之を動かすこと能はざるなり、詩人哲学者の為すところ豈に神の業を奪ふものならんや、彼等は内部の生命を観察する者にあらずして何ぞや(国民之友「観察論」参照)、然れども彼等が内部の生命を観察するは、沈静不動なる内部の生命を観るにあらざるなり、内部の生命の百般の表顕を観るの外に彼等が観るべき事は之なきなり、即ち人性人情の Various Manifestations を観るの外には、観るべき事は之なきなり。は何処までもなり、然れども此の塲合に於てはの中にの意味あるなり、即ち、の終はに落つるなり、而しての始も亦たに出るなり、人間の内部の生命を観ずるは、其の百般の表顕を観ずる所以ゆゑんにして、霊知霊覚と観察との相離れざるは、之を以てなり。霊知霊覚なきの観察が真正の観察にあらざること、之を以てなり。
 夫れヒユーマニチー(人性、人情)とは、人間の特有性の義なり。詩人哲学者は無論ヒユーマニチーの観察者ならずんばあらず、然れども吾人は恐る、民友子の「観察論」の読者には、或は詩人哲学者を以て単に人性人情の観察者なりと、誤解する者あらんことを。民友子の「観察論」を読みたる人は必らず又た民友子の「インスピレーシヨン」を読まざるべからず。然らずんば吾人民友子に対する誤解の生ぜんことを危ぶむなり。詩人哲学者は到底人間の内部の生命を解釈ソルヴするものたるに外ならざるなり、而して人間の内部の生命なるものは、吾人之れを如何に考ふるとも、人間の自造的のものならざることを信ぜずんばあらざるなり、人間のヒユーマニチー即ち人性人情なるものが、他の動物の固有性と異なる所以の源は、即ちこゝに存するものなるを信ぜずんばあらざるなり。生命! 此語の中にいかばかり深奥なる意味を含むよ。宗教の泉源は爰にあり、之なくして教あるはなし、之なくして道あるはなし。之なくして法あるはなし。真理! 世上所謂真理なるもの、果して何事をか意味する。ソクラテスも霊魂不朽を説かざれば、一個の功利論家を出る能はざるなり、孔子も道はちかきにありと説かざれば、一個の藪医者たるに過ぎざりしなり。道は邇きにありと言ひたるもの、即ち、人間の秘奥ひあうの心宮を認めたるものなり。霊魂不朽を説きたるもの、即ち生命の泉源は人間の自造的にあらざるを認めたるものなり。内部の生命あらずして、天下豈、人性人情なる者あらんや。インスピレーシヨンを信ずるものにあらずして、真正の人性人情を知るものあらんや。五十年の人生を以て人性人情を解釈すべき唯一の舞台とする論者の誤謬は、多言をもちひずして明白なるべし。
 文芸上にて之を論ずれば、所謂写実派なるものは、客観的に内部の生命を観察すべきものなり。客観的に内部の生命の百般の顕象を観察する者なり。此目的の外に嘉讃すべき写実派の目的はあらざるなり。世道人心を益するといふ一派の写実論も、此目的をはづれたらば何等の功益もあらざるなり。勧善懲悪を目的とする写実派も、此目的を外れたらば何の勧懲もあらざるなり。為すあるが為と言ひ、世を益するが為と言ふも、真正に此の目的にかなはするより外なきなり。所謂理想派なるものは、主観的に内部の生命を観察すべきものなり。主観的に内部の生命の百般の顕象を観察すべき者なり。いかに高大なる極致を唱ふるとも、いかに美妙なる理想を歌ふとも、この目的の外に理想派の嘉讃すべき目的はあらざるなり。
 理想とは何ぞや。理想派とは何ぞや。吾人は此小論文に於て、理想とは何ぞやを説かざるべし。然れども爰に一言せざるべからざることは、文芸の上にて言ふところのアイデアなる者は、形而上学に於て言ふところのアイデアとは、名を同うして物を異にする者なること之なり。形而上学にてアイデアリスト(唯心論者)といふものは、文芸上にてアイデアリスト(理想家)といふところの者とは全く別物なり。
 文芸上にて理想派と謂ふところのものは、人間の内部の生命を観察するの途に於て、極致を事実リアリチーの上に具躰の形となすものなり。絶対的にアイデアなるものを研究するは形而上学の唯心論なれども、そのアイデアを事実リアリチーの上に加ふるものは文芸上の理想派なり。ゆゑに文芸上にては殆どアイデアと称すべきものはあらざるなり、其の之あるは、理想家が暫らく人生と人生の事実的顕象を離れて、何物にか冥契めいけいする時に於てあるなり、然れども其は瞬間の冥契なり、若しこの瞬間にして連続したる瞬間ならしめば、詩人は既に詩人たらざるなり、必らず組織的学問を以て研究する哲学者になるなり。詩人豈に斯の如き者ならんや。
 瞬間の冥契とは何ぞ、インスピレーシヨン是なり、この瞬間の冥契ある者をインスパイアドされたる詩人とは云ふなり、而して吾人は、真正なる理想家なる者はこのインスパイアドされたる詩人の外には、之なきを信ぜんとする者なり。インスピレーシヨンを知らざる理想家もあらん、宗教の何たるを確認せざる理想家もあらん、然れども吾人は各種の理想家の中に就きて、斯の如きインスピレーシヨンを受けたる者を以て最醇最粋のものと信ぜんとするなり。インスピレーシヨンとは何ぞ、必らずしも宗教上の意味にて之を言ふにあらざるなり、一の宗教(組織として)あらざるもインスピレーシヨンは之あるなり。一の哲学なきもインスピレーシヨンは之あるなり、畢竟ひつきやうするにインスピレーシヨンとは宇宙の精神即ち神なるものよりして、人間の精神即ち内部の生命なるものに対する一種の感応に過ぎざるなり。吾人の之を感ずるは、電気の感応を感ずるが如きなり、斯の感応あらずして、いづくんぞ純聖なる理想家あらんや。
 この感応は人間の内部の生命を再造する者なり、この感応は人間の内部の経験と内部の自覚とを再造する者なり。この感応によりて瞬時の間、人間の眼光はセンシユアル・ウオルドを離るゝなり、吾人が肉を離れ、実を忘れ、と言ひたるもの之に外ならざるなり、然れども夜遊病患者の如く「我」を忘れて立出たちいづるものにはあらざるなり、何処までも生命の眼を以て、超自然のものを観るなり。再造せられたる生命の眼を以て。
 再造せられたる生命の眼を以て観る時に、造化万物いづれか極致なきものあらんや。然れども其極致は絶対的のアイデアにあらざるなり、何物にか具躰的の形を顕はしたるもの即ち其極致なり、万有的眼光には万有の中に其極致を見るなり、心理的眼光には人心の上に其極致を見るなり。

(明治二十六年五月)




 



底本:「現代日本文學大系 6 北村透谷・山路愛山集」筑摩書房
   1969(昭和44)年6月5日初版第1刷発行
   1985(昭和60)年11月10日初版第15刷発行
初出:「文學界 五號」文學界雜誌社
   1893(明治26)年5月31日
入力:kamille
校正:鈴木厚司
2004年10月31日作成
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