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徳川氏時代の平民的理想(とくがわしじだいのへいみんてきりそう)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-31 10:58:16 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


     (第三)

 徳川氏の時代に於て其遊戯、其会話、其趣味を探らんもの、文士の著作にくはなし。而して文士の著作を翫味ぐわんみするもの、武士と平民との間にすべての現象を通じて顕著なる相違あることを、研究せざるべからず。琴のを知り、琵琶の調てうを知るものは、之を三絃の調に比較せよ、一方はいかに荘重に、いかに高韻なるに引きかへて、他はいかに軽韻卑調なるに注意するなるべし、かくの如きは武士と平民との趣味の相違なり。謡曲を聴きたる人は浄瑠璃を聴かん時に、この両者に相容れざる特性ある事に注意するならむ。かくの如く、其能楽に於て、河原演劇に於て、又は其遊芸に於て、もしくは其会話の語調に於て、極めて明晰なる区別あることを知らむ。
 けだ我邦わがくには極めて完成せる族制々度を今日まで持ち続けたるものなるからに、吾人の思想も亦た自から単純なりし事は、争ふ可からざる事実なり。而して其単純なる思想は階級に応じて、武士は武士の思想を継ぎ、平民は平民の思想を受けて、甲乙相共に異色をもつて生長し来りぬ。今日の我が語学に志ざすところのものが、我が言語に甚だしき階級語に富めることを言ふも、元より此原因あるによればなり。ヲノリフ※(小書き片仮名ヒ、1-6-84)ック(敬礼語)に富めるも亦た、この族制々度の完熟せるにれること多し、是れ我国言語の特色にして、この特色は以て我邦に於ける貴族(徳川時代にありては武士をも含む)、平民の区界を判ずるに足るべし。
 貴族平民の両階級は、徳川氏の時代に入りし時大に乱れたり、徳川氏は三河武士を以て天下を制したるものなれば、従来の階級はおほむね壊裂したり、くはふるに長年の乱世に人民の位地もおほいに前とは異なりて、従来貴族たりし者の落ちて平民の籍に投ぜし者、従来平民たりし者の登りて貴族の位地を占めし者、少数にてはあらざりしならむ。かくして徳川氏初代の平民は、従前の平民よりは多少の活気を帯びたりし事疑ひなし。故に彼等の思想もおのづから一種の特色を具備し得て、隠然武門の思想と対峙せんとするが如き傾きを生じたり。むべなるかな。我邦に於て始めて、平民社界の胸奥より自然的育生の声を、この時代に於て聞きたるや。
 人は元禄文学を卑下して、日本文学の恥辱是よりはなはだしきはなしと言ふもの多し。われも亦た元禄文学に対して常に遺憾を抱く者なれど、彼をもつて始めて我邦に挙げられたる平民の声なりと観ずる時に、余は無量の悦喜をもつて、彼等に対するの情あり。然り、俳諧の尤も熟したるもこの時代にて、戯曲の行はれしも、戯作の出でしも、実に此時代にして、而して此等これらの物皆な平民社界の心骨より出でたるものなることを知らば、余は寧ろ我邦の如き貴族的制度の国に於て、平民社界の初声はつごゑとしては彼等を厚遇するの至当なるを認むるなり。
 我国平民の歴史は、始めより終りまで極めて悽惻せいそく暗澹あんたんたる現象を録せり。而して徳川氏以前にありては、彼等の思想として余に存するもの甚だ微々たり、徳川氏以後世運のやうやく熟し来りたるを以て、こゝに漸く、多数の預言者を得て孚化ふかしたる彼等の思想は、漸く一種の趣味を発育し来れり。然れども彼等の境遇は、功名心も冒険心も想像も希望も或る線までは許されて、其線を越ゆることかなはず、何事にも遮断せらるゝ武権の塀墻へいしやうありて、彼等は声こそは挙げたれ、あはれむべき卑調の趣味に甘んぜざるを得ざりしは、亦た是非もなき事共なり。
 幕府は学芸の士を網羅するに油断なかりき。幕府のみ然るにあらず、その高等種族(武士)は、文芸を容れておほいに品性を発揚したり、当時非凡なる学士の、彼等の社界に厚遇せられたる事実は、少しく徳川時代を知るものゝ共に認むるところなり。しかるに是等学芸の士は、平民に対してちとの同情ありしにあらず、平民の為に吟哦ぎんがせし事あるものにあらず、平民の為に嚮導きやうだうせし事あるものにあらず、かるが故に既に初声を挙るの時機に達したる平民の思想は、別に大に俳道に於て其気焔を吐けり。幕府は盛に能楽と謡曲とを奮興して、代々だい/\の世主厚く能楽の大夫を遇し、而して諸藩の君主も彼等を養ひて、武門の士のく謡曲をうたふこと能はざるは恥辱の如き隆運に向へり。学芸にれず、奥妙なる宗教に養はれざる平民の趣味には、謡曲は到底応ずることを得ざるなり。故に彼等の中におのづから新戯曲の発生熟爛するありて、巣林子の時代に於て其盛運を極めたり。物語の類、たとへば太平記、平家物語、などは高等民種のうちに歓迎せられたりといへども、平民社界に迎へらるべき様なし、かるが故に彼等の内には自ら、彼等の思想に相応なる物語、小説の類生れ出でたり、加ふるに三絃の発明ありてより、すべての趣味の調ふに於て大に平民社界をたすけ、種々の俗曲なるもの発達し来れり。斯くの如く諸般の差別より観察し来れば、平民は実に徳川氏の時代に於て大に其思想を煥発くわんぱつしたるものにして、族制的大隔離のを受けて、或意味に於ては高等民種に対して競争の傾きを成し来れるなり。
 まことや平民と雖、もとより劣等の種類なるにあらず、社界の大傾向なる共和的思想は斯かる抑圧の間にも自然に発達し来りて、彼等の思想には高等民種に拮抗すべきものはなくとも、自ら不覊磊落ふきらいらくなる調子を具有し、一転しては虚無的の放縦なるものとなりて、以てあんに武門の威権を嘲笑せり。故に彼等は自然に政権を軽視して、幕府の紀律に繋がれざる豪放の素性を養ひ、社界全躰より視る時は一種の破壊的原素を其中に発生せしめて、大に幕府を苦しめたり。制禁に遭ひたる戯作の類、遠島に処せられたる画家の事、是が現象の一として挙ぐるに足るべし。漸く閭巷りよかうの侠客なるもの起り来りて、幕政を軽侮し、平民社界の保護者となり、圧抑者に対する破壊的手腕(天知子の語を借用す)となりたるも、是が一現象なりけり。
 自然の傾向は人力の争ふこと能はざるものなり、従来文学なるものは独り高等民種の境内にとゞまりて、平民は一切思想上の自由を持たざりし如くなりしものが、にはかに元禄以降の盛運に際会して、其思想界に多数の預言者を生みて、自から一貫の理想をかたちづくりたれば、其理想する紳士も、其理想する美人も、其理想する英雄も、有り/\と文学上に映現し出でたり。
 こゝに注意をがすべからざる一大現象は、遊廓なるものゝ大にこの時代に栄えたることなり、難波或は西京には古くよりこの組織ありしと雖、江戸にてこの現象の大にあらはれたるは慶長の頃かとぞ聞く(慶長見聞記にる)。蓋し乱世の後、人心漸く泰平の娯楽をうつたへ、の芒々たる葦原よしはら(今日の吉原)に歌舞妓、見世物など、各種の遊観の供給起り、これに次いで遊女の歴史に一大進歩を成し、高厦巨屋いらかを并べて此の葦原に築かれ、都には月花共に此里にあらねばならぬ様になれり。およそ女性の及ぼす勢力はいつの時代にも侮るべからざるものなり、別して所謂紳士風ゼントルマンシップなる者を形成するには、偉大なる勢力ある事うたがふべからず。故に平民の中にありし紳士の理想は、この遊廓の勢力によりて軽からぬ変化を経たり、読者もし難波及び京都に出でし著作に就きて、彼等の紳士なるものを尋ね見ば、思ひ半ばに過ぐることあらむ。必らずしも巣林子以下の諸輩を引照するに及ばざるべし。遊廓は一個の別天地にして、其特有の粋美をもつて、其境内きやうないに特種の理想を発達し来れり、而して煩悩ぼんなうの衆生が帰依するに躊躇ちうちよせざるは、この別天地内の理想にして、一度ひとたび脚を此境に投じたるものは、必らずこの特種の忌はしき理想の奴隷となるなり。斯の理想は世上に満布したり、この理想は平民社界に拡がれり、むしろ高等民種の過半をも呑みたり、或時は通と言ひ、或時は粋といふもの、此理想にほかならざるなり。而して此理想なるものは即ち平民社界の紳士を作りし潜勢力にして、平民紳士の服装、挙動、会話、趣味この理想に基づかざる事甚だ稀なり。
 まなこを転じて巣林子に次ぎて起れる戯曲界の相続者を見れば、題目として取るところ、平民社界の或一種の馳求ちきうを充たすものあるを見るべし。之を聞く、河原乞児かはらこじきの尤も幼稚なりし時に、其好趣かうしゆは戦国的の勇壮なるローマンス風のものにて、例せば盗賊を取りて主人公となし、之れに慈憐の志を深うせしめ、きやうしぎ、弱を助くる義気に富ましめ、以て戦国に遠からぬ時代の人心にうつたへたる如き、概して言へば不自然アンナチユラリズム過激ヱンサシアズムとは、この時代の演劇にく可からざる要素なりしとぞ。のちに発達したる戯曲(巣林子以後の)に到りても、この不自然と過激とは抜くべからざる特性となりて、「菅原伝授手習鑑」に於て、「蝶花形てふはながた」に於て、其他幾多の戯曲に於て、八九歳の少童が割腹したり、孝死するなどの事、戯曲に特有なるヱンサシアズムにてはあるまじき程の過激に流れたり。こゝに一言すべきは、平民に特種の思想生じたりとはいへど、思想は時代の児にてある事勿論なれば、彼等の思想もおのづから封建的武勇、別して忠孝の大道を武士の影より鞠養きくやうし得たりし事を思はざるべからず。故に彼等のうちに起りし預言者も、一は彼等の趣味に投じ、一は己れの所見に従ひて、自から忠孝即ち武士の理想をもつて平民に及ぼす事なき能はず、これ即ち封建制度に普通なる現象にてあるなり。ほ言を換へて曰へば、封建制度は独り武士にのみ其精華なるシバルリーを備へたるにあらず、平民も亦た之を模擬せり、然り、平民の内にもシバルリーは具はりたり、少なくとも侠勇の理想彼等の中に浸潤して、武士の間に降りし雨は平民までをも湿うるほしたること、疑ふべからざるの事実とす。
 かく説き来らば平民社界には「粋」といふものゝ外に、強大なる活気、むしろ理想の侠勇と号するものあることを知らむ。而して我徳川時代に於ける平民の位地を観察すること前陳の如くなりとせば、彼等は其「粋」をも、其「侠」をも偏固なる、矮少わいせうなる、むしろ卑下なる理想となしたることも亦、明らかならむ。
 英国のチヨーサーは同国に於て始めてシバルリイの光芒を放ちたる詩人なり、然して其吟詠に上りたるシバルリイは武門の内にあるシバルリイにして、平民の内に其筆鋒を向けざりし、蓋しの歴史は我歴史にあらず、彼の貴族は我の貴族の如くに平民と離れたるにあらず、彼の平民は我平民の如くに、貴族に遠き者にあらず、加ふるに彼には平民と貴族とを繋げる宗教の威霊ありて、教堂に集まる時に貴族平民の区劃をみしたり。而して我にはこの大勢力あらず、宗教にもおのづからなる階級ありて、印度の古時をうつし出しければ、これも我が平民を貴族より遠ざくるの助けをなせし事明らかなり。かのシバルリイは朝廷との関係浅からずして、其華奢きやしや麗沢も自からに王気を含みたり、而して我平民社界には之に反して、政権に抗し、威武に敵する気禀きひんあるシバルリイを成せり。彼のシバルリイには恋愛の価値高められて、侠は愛と其わだちならべつゝ、自から優美高讃なる趣致を呈せり、我が平民社界に起りしシバルリイは、其ゼントルマンシップに於て既に女性を遊戯的玩弄物ぐわんろうぶつになし了りたれば、恋愛なるもの甚だ価直かちなく、女性のレデイシップをゼントルマンシップの裡面に涵養するかはりに、かへつて女性をして男性の為すところを学ばしめて、一種の女侠なるものを重んずるに至れり、この点に於て我がシバルリイは、彼のシバルリイの如く重味あること能はず、我が紳士風は、彼の紳士風の如く優美の気韻をくること能はず、女性の天真を殺して、自らの天真をも自損せり。彼のシバルリイは「エゴー」を重んじて、軽々しく死し軽々しく生きず、我がシバルリイは生命を先づ献じて、然る後にシバルリイを成さんとするものゝ如かりし、己れの品性はみがくこと多からずして、他の儀式礼法多き武門に対敵して、反動的に放縦素朴に走りたり。宗教及び道徳は彼のシバルリイに欠くべからざる要素なりしに、我が平民のシバルリイは寧ろ当時の道徳組織をしりぞけ、宗教にはちなみ薄きものにてありし。要するにチヨーサーのシバルリイ(即ち英国の)は我がシバルリイの如く暗憺たる時代にうまれたるにあらず、我がシバルリイのごとく圧抑の反動として、兇暴に対する非常的手腕として発したるものにはあらで、燦然さんぜんたる光輝を放ち、英国今日の気風、英国今日の紳士紳女を彼の如くになしたるも、実にこのシバルリイの余光にてありしことを知るべし。
 侠といふ文字、英語にては甚だ訳し難かるべし、訳し難き程に我が歴史上の侠は、欧洲諸国のシバルリイとは異なれるところあるなり。※(「にんべん+淌のつくり」、第3水準1-14-30)ひてシバルリイを我が平民界の理想に応用せんとせば、侠と粋(侠客の恋愛に限りて)とを合せ含ましめざる可からず、侠客のさいを取りて研究せば、得るところあらむ。

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