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人生に相渉るとは何の謂ぞ(じんせいにあいわたるとはなんのいいぞ)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-31 10:50:28 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

底本: 現代日本文學大系 6 北村透谷・山路愛山集
出版社: 筑摩書房
初版発行日: 1974(昭和44)年6月5日
入力に使用: 1985(昭和60)年11月10日初版第15刷
校正に使用: 1977(昭和52)年4月20日初版第7刷

 

繊巧細弱なる文学は端なく江湖の嫌厭を招きて、あやしきまでに反動の勢力を現はし来りぬ。愛山生が徳川時代の文豪の遺風を襲ひて、「史論」となづくる鉄槌をふるふことになりたるも、其の一現象と見るべし。民友社をして愛山生を起たしめたるも、江湖をして愛山生を迎へしめたるも、この反動の勢力の欝悖うつぼつしたる余りなるべし。
 反動は愛山生を載せて走れり。而して今や愛山生は反動を載せて走らんとす。彼は「史論」と名くる鉄槌を以て撃砕すべき目的を拡めて、しきりに純文学の領地を襲はんとす。反動をして反動の勢をほしいまゝにせしむるは余も異存なし、唯だ反動を載せて、他の反動を起さしむるまで遠く走らんとするを見る時に、反動より反動に漂ふの運命を我が文学に与ふるを悲しまざる能はず。愛山生は、文章即ち事業なる事を認めて、「頼襄論」の冒頭に宣言せり。何が故に事業なりや。愛山生は之を解いて曰く、 第一 為す所あるが為なり。 第二 世を益するが故なり。 第三 人世に相渉るが故なりと。
 而して彼は又た文章の事業たるを得ざる条件を挙げて曰く、 第一 くうを撃つ剣の如きもの。 第二 空の空なるもの。 第三 華辞妙文の人生に相渉らざるもの。而して彼は此冒頭を結びて曰く「文章は事業なるが故にあがむべし、吾人が頼襄を論ずる、即ちかれの事業を論ずるなり」と。
 大丈夫の一世に立つや、必らず一の抱く所なくんばあらず、然れども抱く所のもの、必らずしも見るべきの功蹟を建立こんりふするにはあらず。建築家の役々として其業に従ふや、幾多の歳月を費して後、確かに巍乎ぎこたる楼閣を起すの算あり。然れども人間の霊魂を建築せんとするの技師に至りては、其費やすところの労力はたゞちに有形の楼閣となりて、ニコライの高塔の如く衆目を引くべきにあらず。衆目衆耳の聳動しようどうすることなき事業にして、或は大に世界を震ふことあるなり。
 天下に極めて無言なる者あり、山岳之なり、然れども彼は絶大の雄弁家なり、し言の有無を以て弁の有無を争はゞ、すべての自然は極めてあはれむべき唖児あじなるべし。然れども常に無言にして常に雄弁なるは、自然に加ふるものなきなり。人間に若し自然の如く無言なるものあらば、愛山生一派の論士は其の傍に来りて、なんぢ何ぞ能く言はざると嘲らんか。
 人間の為すところも亦かくの如し。極めて拙劣なる生涯の中に、尤も高大なる事業を含むことあり。極めて高大なる事業の中に、尤も拙劣なる生涯を抱くことあり。見ることを得る外部は、見ることを得ざる内部を語り難し。盲目なる世眼を盲目なる儘ににらましめて、真贄しんしなる霊剣を空際くうさいに撃つ雄士ますらをは、人間が感謝を払はずして恩沢をかうむる神の如し。天下斯の如き英雄あり、為す所なくして終り、事業らしき事業を遺すことなくして去り、しかして自ら能く甘んじ、自ら能く信じて、他界にうつるもの、吾人が尤も能く同情を表せざるを得ざるところなり。
 吾人は記憶す、人間は戦ふ為に生れたるを。戦ふは戦ふ為に戦ふにあらずして、戦ふべきものあるが故に戦ふものなるを。戦ふに剣を以てするあり、筆を以てするあり、戦ふ時は必らず敵を認めて戦ふなり、筆を以てすると剣を以てすると、戦ふに於ては相異なるところなし、然れども敵とするものゝ種類によつて、戦ふものゝ戦を異にするは其当なり。戦ふものゝ戦の異なるによつて、勝利の趣も亦た異ならざるを得ず。戦士陣に臨みて敵に勝ち、凱歌を唱へて家に帰る時、朋友は祝して勝利と言ひ、批評家は評して事業といふ、事業は尊ぶべし、勝利は尊ぶべし、然れども高大なる戦士は、斯の如く勝利を携へて帰らざることあるなり、彼の一生は勝利を目的として戦はず、別に大に企図するところあり、空を撃ち虚を狙ひ、空の空なる事業をなして、戦争の中途に何れへか去ることを常とするものあるなり。
 斯の如き戦は、文士の好んで戦ふところのものなり。斯の如き文士は斯の如き戦に運命をゆだねてあるなり。文士の前にある戦塲は、一局部の原野にあらず、広大なる原野なり、彼は事業をもたらし帰らんとして戦塲に赴かず、必死を期し、原頭の露となるを覚悟して家をいづるなり。斯の如き戦塲に出で、斯の如き戦争を為すは、文士をして兵馬の英雄に異ならしむる所以ゆゑんにして、事業の結果に於て、大に相異なりたる現象を表はすも之を以てなり。
 愛山生が、文章即ち事業なりと宣言したるは善し、然れども文章と事業とを都会の家屋の如く、相接近したるものゝ如く言ひたるは、不可なり。敢て不可といふ。何となれば、聖浄にして犯すべからざる文学の威厳は、「事業」といふ俗界の「神」に近づけられたるを以て損ずべければなり、八百万やほよろづの神々の中に、事業といふ神の位地は甚だ高からず。文学といふ女神は、或は老嬢ヲールド・ミツスにて世を送ることあるも、卑野なる神に配することをがへんぜざるべければなり。
 京山、種彦、馬琴の三文士をあげつらひて、京山を賞揚せられたるは愛山生なり。其故いかにといふに、馬琴は己れの理想を歌ひて馬琴の文学をてらひたるに過ぎず、種彦は人品高尚にして俗情にうときところあり、馬琴によりては当時の社会を知るには役に立たず、種彦は平民に縁遠きが故に不可なり、独り京山に到りては、番頭小僧までも写実して残すところなきが故に重んずべきなりと、斯く愛山生は説けり。天下の衆生をしてこと/″\く愛山生の如き史論家ならしめば、当時の社会を知るの要を重んじて、京山をも、西鶴をも、最上乗の作家として畏敬するなるべし。天下の衆生をして悉く愛山生の如き平民論者ならしめば、山東家の小説はすべての他の小説をしのぐことを得べきこと必せり。
 然れども文学は事業を目的とせざるなり、文学は人生に相渉ること、京山の写実主義ほどになるを必須とせざるなり、文学は敵を目掛けて撃ちかゝること、山陽の勤王論の如くなるを必須とせざるなり、最後に文学は必らずしも一人若しくは数百人の敵、見るべきの敵を目掛けて撃つを要せざるなり、といふ字は山陽一流の文士にこそ用あれ、愛山の所謂いはゆる空の空を目掛けておほいに撃つ文士に、何の用かあらむ。山陽も撃てり、山陽の撃ちたる戦は、今日に於て人に記憶せらるゝなり、然れども其の撃ちたるところは、愛山生の言ふ如く直接に人生に相渉れり、人生に相渉るが故に人生を離るゝ事も亦たすみやかならんとす。源頼朝は能く撃てり、然れども其の撃ちたるところは速かに去れり、彼は一個の大戦士なれども、彼の戦塲は実に限ある戦塲にてありし、西行も能く撃てり、シヱクスピーアも能く撃てり、ウオーヅオルスも能く撃てり、曲亭馬琴も能く撃てり、是等の諸輩も大戦士なり、而して前者と相異なる所以は前者の如く直接の敵を目掛けて限ある戦塲に戦はず、換言すれば天地の限なきミステリーを目掛けて撃ちたるが故に、愛山生には空の空を撃ちたりと言はれんも、空の空の空を撃ちて、星にまで達せんとせしにあるのみ。いて頼朝の墓を鎌倉山に開きて見よ、彼が言はんと欲するところ何事ぞ。来りて西行の姿を「山家集さんかしふ」の上に見よ。いづれか能く言ひ、執れか能く言はざる。
 然れども、文士は世を益せざるべからず、西行馬琴の徒が益したるところ何物ぞと、斯く愛山生は問はむか。
 文学のユチリチー論、今日に始まりたるにあらず、吾等の先祖に勧善懲悪説あり、吾等の同時代に平民的批評家としての活用論者を、愛山生に得たるも故なきにあらず、硝子ガラスは水晶に比して活用の便あり、以て※(「窗/心」、第3水準1-89-54)戸を装ふべし、以て洋燈のホヤとなすべし、天下あまねく其の活用の便を認むるを得るなり。然れども天下の愚人が水晶といふ活用の便に乏しきものに向つて、高価を払ふは何ぞや。水晶を買ふものをして、数十金を出して露店の硝子玉を買はしめんとする神学を創見するものあらば、余は疑はず、水天宮に参詣する衆生は争ひ来りて其説法を聴聞するなるべし。京山をして、山陽をしてこのテンプルの偶像たらしめば、カーライルをして「英雄崇拝論」に一題を欠きたりしを、地下に後悔せしむることあるべし。
 吉野山に遊覧して、歎息するものあり、曰く、何ぞ桜樹をりて梅樹を植ゑざる、花王樹は何の活用に適するところあらむ、梅樹の以て千金の利を果実によつて得るにかんやと、一人ありて傍より容喙ようかいして曰へらく、梅樹は得るところの利に於て甘藷かんしよを作るに如かず、他の一人は又た曰く、甘藷は市場に出ての相塲極めて廉なり、亜米利加アメリカ種の林檎りんごを植ゆるに如かずと。われは是等の論者が利を算するの速なるを喜び、真理を認むるの確なるを謝するにやぶさかならざらんと欲す、然れども吉野山を以て活用論者の手に委ぬるは、福沢先生を同志社の総理に推すことを好まざると同じく好まざるなり。
 肉の力は肉の力を撃つに足るべし、死したるものゝ死したるものを葬むるを得るといふ真理は、ナザレの人の子も之れを説けり。然れども死したるものゝ葬むることを得ざるものあるは、肉の力の撃砕することを得ざるものあると共に、他の一側に横はれる真理なり。一人の敵を学ぶの非なるは、万人の敵を学びてもほ失敗したる項羽すら、之を発見せり。万人の敵を学ぶは百万人の敵を学ぶに如かざればならむ。百万人の敵を学びたる(仮定して)漢王も、亦た「死朽」といふ不可算の敵の前には、無言にしてたふれたり。「死朽」といふ敵に対して、吾人は吾人の刀剣をふるふこと、愛山生の所謂英雄剣を揮ふ如くするも、成敗の数は始めより定まりてある如く、吾人は自然(力としての)の前に立ちて脆弱ぜいじやくなる勇士にてあるなり。
フオース」としての自然は、眼に見えざる、他の言葉にて言へば空の空なる銃鎗を以て、時々刻々「肉」としての人間に迫り来るなり。草薙くさなぎつるぎは能く見ゆる野火を薙ぎ尽したりといへども、見えざる銃鎗は、よもや薙ぎ尽せまじ。英雄をして剣を揮はしむるは、見る可き敵に当ればなり、文章をして京山もしくは山陽の如く世を益するが為めと、人世に相渉らしむるが為に戦はしむるは、見るべき実(即ち敵)に当らしむるが為なり。然れども空の空なる銃鎗を迎へて戦ふには、空の空なる銃鎗を以てせざるべからず、こゝに於て霊の剣を鋳るの必要あるなり。
 自然は吾人に服従を命ずるものなり、「力」としての自然は、吾人を暴圧することをはゞからざるものなり、「誘惑」を向け、「慾情」を向け、「空想」を向け、吾人をして殆ど孤城落日の地位に立たしむるを好むものなり、而して吾人は或る度までは必らず服従せざるべからざる「運命」、然り、悲しき「運命」に包まれてあるなり。項羽は能く虞美人ぐびじんに別るゝことを得たれども、吾人は此の悲しき「運命」と一刻も相別るゝを得ざるものなり。然れども自然は吾人をして「失望落魄」の極、遂に甘んじて自然の力に服従し了するまでに、吾人を困窘こんきんせしめざるなり。こゝに活路あり、活路は必らずしも活用と趣を一にせず、吾人をして空虚なる英雄を気取りて、力としての自然の前に、大言壮語せしむるものは我が言ふ活路にあらず、吾人は吾人の霊魂をして、肉として吾人の失ひたる自由を、他の大自在の霊世界に向つてほしいまゝに握らしむる事を得るなり。自然は暴虐を専一とする兵馬の英雄の如きにあらず、一方に於て風雨雷電を駆つて吾人をくるしましむると同時に、他方に於ては、美妙なる絶対的のものをあらはして吾人を楽しましむるなり。風に対しては戸を造り、雨に対しては屋根をき、雷に対しては避雷柱を造る、くして人間は出来得る丈は物質的のちからを以て自然の力に当るべしと雖、かくするは限ある権をもて限なき力を撃つの業にして、到底限ある権を投げやりて、自然といふものゝ懐裡に躍り入るの妙なるには如かざるなり。爰に於て吉野山は、活用論者の睹易みやすからざる活機を吾人に教ふるなり。「願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ」と歌ひたる詩人が、活用論者の知ること能はざる大活機を看破したるは、即ち爰にあるなり。
 宗教なし、サブライムなしと嘲けられたる芭蕉は、振り向きて嘲りたる者を見もせまじ、然れども斯く嘲りたる平民的短歌の史論家(同じく愛山生)と時をおなじうして立つの悲しさは、無言勤行ごんぎやうの芭蕉より其詞句の一を仮り来つて、わが論陣を固むるの非礼を行はざるを得ず。古池の句は世に定説ありと聞けば之を引かず、一層簡明なる一句、余が浅学に該当するものあれば、暫らく之を論ぜんと欲す。其は、

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