現代日本文學大系 6 北村透谷・山路愛山集 |
筑摩書房 |
1974(昭和44)年6月5日 |
1985(昭和60)年11月10日初版第15刷 |
1988(昭和63)年7月25日初版第15刷 |
「汝ら只ヱホバをかしこみ心をつくして誠にこれにつかへよ」 (撒母耳前書第十二章二十四節)(七月分日課)
この月の日課なる馬太伝の中には神の王国に就きて重要なる教へ多くあり。主のつとめは実に栄あるものにして、之を守るものは、尤も福にして尤も恩あるものとす。主のつとめには種々の類あり、或は難く或は易し、或は己れの利益に適ひ、或は然らず、基督我等に語りて曰く、「凡て労たる者また重を負る者は我に来れ我なんぢらを息ません、我は心柔和にして謙遜者なれば我軛を負て我に学なんぢら心に平安を獲べし、蓋わが軛は易わが荷は軽ければ也」(馬太伝十一章、二十八節より三十節)。 主は爰に、難くして且つ酷き多くの他の主に就けるものを招き玉ふ。彼等は重きを負ふて長途を行きたれば痛く疲れてあり。我儕の主は、わが軛は易くわが荷は軽しと宣ひて、そのつとめの易く、その荷の軽く、その我儕に為さしむるところの極めて簡易なるを示したまへり。 人の世に処する、必らず何事の職司を有せずんばあらず、或は命を官に受け、或は業に民に就く。その或る者は労少なくして酬多く、而して其の功も亦た多し、斯の如きものに対しては、志願者の数も自ら多からざるを得ず。然るにその或るものは、労多くして得少なく、之に加ふるに社会に対するの名もあることなし。斯の如き職業に就くものは、他の優等の職業に従ふこと能はざるが故に、止むなく之れを守るものなり。或る職業には、すべてのものに於て欠乏を見ることなし、出るに車あり、入るに家あり、衣食亦た自ら適するに足るものあり、旅するに費あり、病むときに医あり、何不自由もなく世を渡り、而して又た日暮れ途尽くるに及びては年金なるものありて以て晩年を閑遊するに足る。然るに他の職業にては、辛ふじて自ら給するに足るものあるのみ、而して適ま病魔に犯さるゝ事あらば、誰ありて之を看護するものもなし。斯の如きものは即ちイスラヱルの子孫が埃及にありてなしたる主に対するつとめなり、この事に就きては吾人之を出埃及記に録さるゝを読めり。彼等は実に奴隷の悲境に沈みて、殆ど堪ふべからざる程の過度の労力を負はせられたるなり。罪の奴隷なるものあり、蓋しイスラヱル人の埃及にありて受けたる苦痛に過ぐるものは、この罪の奴隷なるべし、羅馬書六章二十三節に曰く、「罪の価は死なり」と。 イスラヱルの子供等が斯の悲境に沈淪してありし時、神はモーセを遣はして彼等を囚禁より放ちて、カナンの陸に至らしめたり。これと同じく我等が罪の奴隷となりて悲しむべき境遇に陥る時に、神は其の独子イエス・キリストを遣はして我等を罪の囚禁より救ひ出して、永生をもつべきこのつとめに導きたまふなり。「また受造者みづから敗壊の奴たることを脱れ神の諸子の栄なる自由に入んことを許れんとの望を有されたり」(羅馬書第八章二十一節)とあるは即ち是なり。職司の種類の中には、主につけるものにあらずして、その表面は極めて格好に且つ怡楽きものなるに似たれど、終りには、死を意味するものあり。険を冒し奇を競ふ世の中には、利益と名誉とを修むるの途甚だ多し、而して尤も利益あり、尤も成功ありと見ゆるものは人を害し人を傷ふ的の物品の製造なり。斯の如く一時の利益の為に労役する人々は遂には、肉と、霊とを合せて之を死に付すものと言はざる可からず。 彼等は実に彼等自身を賈に売り付すものなり、その最後に得るところは悉く空なり、ひとり空なるのみならず、罪の重荷あり、罪の終なる死あり、豈に悲まざるべけんや。 主のつとめは何事にも自由に従事するを許せり、その生命の為なり、永久の為なり、而してこのつとめに入るものゝ為にはすべて必要なるものは自からに備へられてあるなり、食物も、衣服も、家屋も、是等の必要品に於て必らず自ら給せらるゝところあるべし、之に加ふるに、主は常に彼と共にありて、勇気を与へ、力を与へ、而して最後には渠と共に永遠の栄に入らしめたるなり。然れども我儕は主のつとめを為すに於て、主に対する愛と、我等の心の真とを以てせざるべからず。然らざればすべての事、何の益もあるべからず。
諸君の事ふるところ如何 「汝らの事ふべき者を今日選べ」(約書亜記二十四、十五)
(明治二十六年七月)
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