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武者小路氏のルナアル観(むしゃのこうじしのルナアルかん)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-31 7:32:10 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

底本: 岸田國士全集19
出版社: 岩波書店
初版発行日: 1989(平成元)年12月8日
入力に使用: 1989(平成元)年12月8日
校正に使用: 1989(平成元)年12月8日

底本の親本: 演劇新潮 第一年第八号
出版社:  
初版発行日: 1924(大正13)年8月1日

 

本誌七月号に「読んだ戯曲六篇について」批評の筆を取られた武者小路氏は、たまたま、拙訳になるルナアルの「日々の麺麭」に言及されてゐる。
 先づ、訳者としてあれを読んで下さつたことを感謝する。そしてそれについていつもながらの直截な議論に接したことを幸せに思ふ。
 あの訳文を、あれだけに買つて頂けば、訳者として瞑すべきである。たゞ、ルナアルに親炙する僕として、武者小路氏のルナアル観には、一応註釈を附けて置きたい気持がする。
 武者小路氏とルナアル――かう並べて見たゞけでもなかなか興味があるではないか。
 武者小路氏は尊敬すべき楽天主義者である。人類を愛すること神に近き人である。――ルナアルは聡明なペシミストである。「自分も人間でありながら、その人間が自分を人間嫌ひにする」といふ人間である。――武者小路氏は人間の偉大さを信ずる人である。その弱さのうちにさへ美しさを求める人である。――ルナアルは人間の愚さを嗤ふ人である。真実らしさのうちに醜さを見出す人である。――武者小路氏は、相手がわかるまで言ふ人である。――ルナアルは同じことを二度言ふのをうるさがる人である。半分だけ云つて、あとはわかつたらうと云ひ兼ねない人である。――芸術家としての武者小路氏は自然を矯めようとする人である。此の意味で理想主義者である。――ルナアルは「自然によらなければ書かない」人である。この意味で現実主義者である。――武者小路氏は「高遠な問題」に興味を有つ人である。――ルナアルは「機微な問題」に眼を向ける人である。――武者小路氏は、ものを大きく抱き込まうとする人である。――ルナアルは、ものゝ急所を掴まうとする人である。
 扨て武者小路氏は、ルナアルの「日々の麺麭」は、「頭から感心すべきものでない」と云はれる。――勿論、さうなければならぬ。若し、武者小路氏が、頭から之に感心されたら、折角の武者小路氏が武者小路氏でなくなるわけである。
 処で、その頭から感心すべからざる理由として、此の作に、享楽気分の多いこと、人生に触れ方の足らないことを挙げてをられる。
 享楽気分とはなんですか。何を享楽してゐるのですか。人生をですか、芸術をですか。――もつと厳粛であればいゝのですか。どう厳粛であればいゝのですか。あの「微笑」がお気に召さないのですか、聡明なるペシミストの微笑が。――それはよくわかります。
 人生に触れ方が足りないとは、どう触れ方が足りないのですか。ルナアルの人生観が浅薄だとおつしやるのですか。それとも、誤つてゐるとおつしやるのですか。人生の観方は一つでなければならないのですか。人生は必ず、武者小路氏の観られる如く観なければならないのですか。ルナアルの芸術は、常に、一種の禁欲主義的思想に彩られてゐます。武者小路氏は、そこを不満に思はれるのでせう。――それならよくわかります。
 以上が、武者小路氏のルナアル観に対する註釈である。
 つぎに、武者小路氏は、西洋の作家は「言葉を活かす」ことに於て傑れ、日本の作家は「沈黙の価値」を識ることに於て一日の長があると云はれる。
 西洋の作家の一例として、勿論ルナアルが引合ひに出されてゐるわけである。
 第一、「言葉を活かす」ことゝ、「沈黙を利用する」ことゝ、それほど違ひがあるであらうか。「言葉の活かし方」が、暗示的であればあるほど、「沈黙が利用され」たことになるのではあるまいか。そして、この点が、近代文芸の特質を形る重要な傾向ではあるまいか。
 マラルメとマアテルランクは、此の意味で、最も「言葉を活かし」、最も「沈黙の利用」を識つてゐる作家であつた。そして、彼等象徴派の詩人と並んで、昨日までは一個の自然主義者と目されてゐたジュウル・ルナアルが、今日、最も新しき芸術の開拓者として、世人の注目を惹き出したことは決して偶然ではないのである。
「沈黙と闕語とに生彩あるイメージを与へ」簡素にして含蓄多き文体を渾然たるリリスムの域に押し進めた彼れは、如何に「沈黙の価値」を識る日本の作家中にも、稀に見るべき「沈黙の利用」者であると云ひたい。
 殊に、問題の作品は心理解剖の喜劇である。作中の人物をして比較的「多く語らしめる」ことは理の当然である。「多く語る」こと、「寡く語ること」が直ちに「沈黙の価値」に関係はない筈である。此の意味で、日本の劇作家は、その作品中に、あまり「多く語る」人物を使つてゐない。それは事実である。寧ろ、日本の作家がその作中に描く人物は「別に何も言ふことがない」のかも知れない。これまた、「沈黙の価値」と少しも関係はない、若し多くの日本の劇作家が、その作品中に、「沈黙を利用」するとしたら――恐らく無意識に――その沈黙は、その言葉の死せる如く、「活きてゐない沈黙」である。「価値なき沈黙」である。――それでも、「死の如き沈黙」といふではないか。――さうですね、然し、その「死」が活きてゐなければなりません。――夜食を終つて寝につくまで、たつた一時間、髪薄き老妻の繰言は途切れ途切れ、汚点しみだらけの襖の影に巣喰ふいら立たしき沈黙こそ、此の世の不幸である。





底本:「岸田國士全集19」岩波書店
   1989(平成元)年12月8日発行
底本の親本:「演劇新潮 第一年第八号」
   1924(大正13)年8月1日発行
初出:「演劇新潮 第一年第八号」
   1924(大正13)年8月1日発行
入力:tatsuki
校正:Juki
2006年2月20日作成
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