それから私は、チエホフ、ストリンドベリイ、ゴオルキイなどを仏訳で読み始めた。悲しいかな、仏訳とても既に翻訳である以上、原作の妙味はどれだけ失はれてゐるかわからない。さう思ふと、露西亜語もやりたくなる。スカンヂナヴィヤの言葉も覚えたくなる。私にはそれだけの根気はなかつたが、兎に角、日本語に訳された欧羅巴の戯曲は、同じ訳語でも、欧羅巴の一国語に翻訳されたものに比べて見ると、雲泥の差がその間に、また在ることを発見して驚いた次第である。私はイプセン及びストリンドベリイの仏訳だけは、世界的に名訳と認められてゐることを知つたので、まあ、安心ができると思つた。殊にイプセンの翻訳者ブロゾオル伯は諾威人ださうで、私はすつかりよろこんだ。そして、殆ど原作を読むやうな信頼と親しみとをもつて、一作一作と読んで行つた。邦訳では、それほどイプセンが詩人であるとは思はれなかつたが、こんどはまた、作品の思想の深刻味や、結構の手堅さなどよりも、時代時代に応じてイプセンが、それぞれの意味の優れた詩人であり、殊に、象徴的傾向が鮮やかになるにつれて、近代的な、含蓄の多い対話の、巧妙な駆使者であることを知るに至つた。それと同時に、邦訳を読んだ時には、あんまり気づかなかつたそれぞれの作品の「喜劇味」――思想的にも、また文体の上からも――さういふものを仏訳の中にまざまざと見出して、こいつは面白いぞと思つたのである。 更に自分の恥さらしをすれば、仏蘭西の戯曲ならば、原作が読めると思つて、いろいろ読み漁つたものを、これはここが面白い、あれはあそこが面白いと独りぎめをして悦んでゐた五六年前は、今から考へると、全く戯曲の文体といふものについては盲目であつた。例へば、ポルト・リシュのものなどを読んで、なるほどこれは恐ろしい心理解剖家だ、鋭いものだ、細かいものだ、さう思つて頭を下げてゐた。ところがその後、巴里で暫らく暮して見て、日常の会話にいろいろな疑問が起つたり、あんな言葉をあんな場合に使ふのかといふことを知つたり、あの文句をああいふ風に云ふのかといふことを覚えたり、ああいふ人間が、ああいふ手真似をするんだなといふことを気づいたりしてゐるうちに、ポルト・リシュをもう一度読み直して見てびつくりした。やれやれ、白を云ふ人物の姿、顔、表情、身振、手真似が悉く眼に浮ぶではないか。コメディイ・フランセエズに行つて、『過去』や『ふかなさけ』の舞台を観て、更に面喰つた。やれやれ、あの文句は、ああいふ調子で云つた方がよいのか。あの女は、あれくらゐに泣いておけばいいのか。あの男の、あの長台詞は、ああ云へば、なるほど退屈はさせない。私は、しかもこの舞台の上で、ほんたうに、ポルト・リシュの戯曲がわかつたのである。ポルト・リシュの文体がわかつたのである。ポルト・リシュの芸術が解つたのである。私は、それ以来、芝居を観に行くことが怖くなつた。今まで読んだ脚本が、自分にどれほど解つてゐないかといふ試験をされに行くやうなものであつたから。 私は、抑も戯曲とは……と考へた。抑も戯曲とは、なるほどこれかなあ、と朧ろげながら感じた。その感じを強ひて云へば、結局、何かにも書いたことがあるが、「人間の魂の最も韻律的な響き(或は動き)を伝へるもの」に外ならない。これは、云ふまでもなく、「語られる言葉の、あらゆる意味に於ける魅力」の表現である。 外国の戯曲は、一体どの程度まで翻訳によつて、その魅力を失はずにすむか、かう考へたならば、翻訳者の責任は、それが戯曲であるために、殊に重大さを増すわけである。私は戯曲だけは、少くとも戯曲を書き得るものの手によつて翻訳せらるべきだと思ふ。それでさへ、十分とは云へない。翻訳者の語学力は、例へ小説は訳し得ても、戯曲は待つて呉れと云ひたいのが普通である。 くどいやうであるが、この問題についてもう少し述べておかう。今、ある戯曲が二通り翻訳されてあるとする。どちらも意味から云へば正確であり、文章も読みづらくなく、日本語として、別に不都合のないやうなものだとする。而もその文体に於て、言葉の調子に於て、場面の動きに於て、つまり全体の「命」と「閃き」に於て、両者に格段の差があるとする。それは翻訳者が如何に翻訳が巧みであるかといふ前に、如何に原作が解つてゐるかといふ問題になるのである。一節だけを示したのでは、絶対的の価値批評はできないが、試みに仏蘭西語で次の句が、幾通りの日本語になり得るかを考へてみるがいい。而も、それが実際の場合にはただ一つの訳し方しかない。 Tu as raison.
お前の考へは正しい。 お前の言ふことは尤もだ。 お前の云ふ通りさ。 お説御尤も。 それはさうだ。 それはさうだね。 それもさうだ。 さうだつたね。 いや、まつたくだ。 それを云ふのさ。 それや、さうさ。 さうともさ。 さう、その通り。 さうだとも。 さう、さう。 それ、それ。 それさ。 なるほどね。 なるほど、さうだつた。 そいつはいい。 うまいことを云ふぞ。 それがいいや。 それに限る。 それにしよう。 それもよからう。 さうしよう。 その方がいい。 さう云へば、さうだ。 ほんとにさうだ。 それや、まあ、さうさ。 ほんとだ。 それが、ほんとなんだ。 お前は話せる。 ほんとにさ。 お前の話はよくわかる。 そいつは、尤もな話だ。 それがあたり前さ。 違ひない。 おほきに。
一寸思ひつくだけでこの通り(対手との関係を問題外としても)前後の関係で、はつきり、どれを選ぶべきか、自らきまるのであるが、どつちでも意味は取れるし、間違ひでもない。が、その場合はどつちでなければ面白くないといふのがある筈である。これ原文のわかり方によるものである。もつと適切に云へば、原文の調子、味がわかつてゐなければならないのである。 この上に誤訳といふやつが必ずある。仏蘭西語で、一寸間違はれ易い例を挙げてみても、こんなのがある。 「あなたはほんとにいつまでもお若いですね」 「御戯談でせう」――これを「さうお思ひになりますか」 「年のせゐだね、どうも近頃、足が利かなくなつたよ」 「まさか、それほどでもなからう」――これを「あんまり遠くへ行くからさ」 「どうか僕にかまはないで……」 「ぢや、一寸、行つて来ら」――それを「ぢや、さよなら」 この調子で全篇を訳されてはたまらないが、少しづつの食ひ違ひが、どれほど原文の妙味を傷つけてゐるか、それをまた読者なり、演出者なり、見物なりが知らずにゐるか。さうして、外国劇は面白いとか面白くないとか、わかつたやうなことを云つてゐるが、それを考へると、全くやりきれない。 さて、こんなことを云ひ出したのは、何も今更翻訳の杜撰さを攻撃するためではなく、かういふ翻訳を通して、西洋の戯曲がわかつたとか、わからないとか云つて、納まつてゐるのは間違ひだといふ一点を指摘したいのである。 重ねて云ふ、外国の戯曲からはまだ学ぶべきものが多々ある。それは、翻訳を通しては殆ど味はれない「味」である。そして、日本の現代劇に、この「味」が足らないのは、翻訳劇、殊に、最も乱暴な翻訳劇の罪半分と、西洋劇を直接原文で読み得る当今の若い劇作家が、まだ、その西洋劇のもつ「味」――これは各作者の持ち味でもなく、また西洋各国の文学の特色でもなく、更に所謂、西洋劇独特の色彩、西洋人特有の感情、そんなものを指すのでもなく、真に優れた戯曲が、常にそれによつて魅力を放つところの、「語られる言葉の幻象が、われわれ人間の魂に触れる彼の韻律的効果」に外ならない――その「味」を自国語によつて表はし得ずにゐる、その罪半分であると云ひ得よう。
●表記について
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