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『ハイカラ』といふこと(『ハイカラ』ということ)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-30 19:30:07 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

底本: 岸田國士全集20
出版社: 岩波書店
初版発行日: 1990(平成2)年3月8日
入力に使用: 1990(平成2)年3月8日
校正に使用: 1990(平成2)年3月8日

底本の親本: 時・処・人
出版社: 人文書院
初版発行日: 1936(昭和11)年11月15日

 

近頃の若い人達は、もうこんな言葉は使はないかもしれないが、それでも、言葉そのものは、まだなくなつてはゐない。
「あの男はハイカラだ」といへば、その男がどういふ風な男であるかは問題ではなく、寧ろ、さういふことをいふ人間が、どんな人間であるかを知りたいほどの時代になつてゐるのかもしれない。
 一体、この「ハイカラ」といふ言葉は、だれがどういふ機会に作りだし、いつ頃世間でもつとも流行したのであるか、私は記憶しないのであるが、なんでもその当時、洋服に「高いカラアをつけてゐる男」は、一般に「低いカラアをつけてゐる男」よりも、「ハイカラ」であつたに違ひない。これは、西洋でもさうなのであるか、私の観察するところでは、必ずしもさうだとは思へないが、洋服を着ることだけでもまだ珍しかつた時代の日本では、たしかに「高いカラア」をつけることが、いはゆる「ハイカラ」であつたに違ひない。
 そこで、その「ハイカラ」は、「高いカラア」をつけることばかりを意味しないのはもちろんであつて、好んで「高いカラア」をつけるやうな男は、好んで派手なネクタイを結び、好んで素透しの眼鏡をかけ、好んでまた、先のとがつた靴を穿いたに違ひない。かくの如き男はまた、好んで英語を操り、好んで淑女たちの御機嫌をとつたに違ひない。
 ここに於いて、「ハイカラ」なる言葉は、単に服装の上ばかりでなく、その態度の上に、その趣味の上に、そのテンペラメントの上に加へられる言葉となり、しかも、幾分、軽蔑、揶揄の意味を含む言葉とさへなつたやうである。なんとなれば、この「ハイカラ」なる言葉は、少くとも、自ら「ハイカラ」をもつて任ずる人間が口にする言葉ではないからである。
 また、この言葉は、単に男性のみに限らず、一方、女性の上にも加へられる言葉となつた。「ハイカラな女」は、ただ、その頭髪を、いはゆる「ハイカラ」に結ふばかりでなく、これまた眼鏡をかけ、時計を持ち、オペラバツグを提げ……などするを常とした。殊に男性の前では、黙つてうつむいてばかりゐることなく、一寸首をかしげて、「まあ、素敵!」といふやうなことをいつて見なければならなかつた。彼女らはまた、男ばかりが散歩に行くことを不平に思ひ、女ばかりが子供を生むことを少し残念がりはしなかつたか。
 かう云つてくると、「ハイカラ」なる言葉は、思想に触れてくる。そして、生活そのものに触れて来る。
 さて、上に述べたやうな意味に解すると、「ハイカラ」といふ言葉は、「西洋風を真似ることによつて、しやれ、かつ気取る」意味であり、いはゆる「当世風」とか、「現代式」とかいふ言葉と、一脈相通ずる意味さへ含むことになるが、私はこの「ハイカラ」といふ言葉を必ずしも「気障きざな当世風」、乃至「軽薄な西洋かぶれ」とのみ解しないで、かの「粋」といふ言葉の如く、今日、われわれの生活、われわれの趣味、われわれの文学中に見る一つの「美」の要素として考へて見たいのである。
 実際、今日、われわれは、よき意味に於ける「ハイカラな男女」「ハイカラな生活」を知つてゐる。われわれはまた、よき意味に於ける「ハイカラな趣味」を感じ、「ハイカラな文学」を見てゐる。この場合「ハイカラ」とは、そもそも、何を指すのであるか。私はそれが必ずしも「西洋風」に関係があるとは思はない。なぜなら、西洋にだつて、「ハイカラな西洋人」がゐる。ましてそれがいはゆる「当世風」であることも必要ではないと思ふ。なぜなら、昔、日本がまだ西洋と交通をしない前に、今日から見て「ハイカラ」な男や女がゐた。
 近頃は、「当世風」といふ言葉の代りに「新時代」、「現代式」の代りに「近代的」とか「モダアン」とかいふ言葉が使はれてゐるが、これも「ハイカラ」といふ言葉を定義するには役立たないと思ふ。なぜなら、「新しい」といふことは、「ハイカラ」の主要な点ではないのである。なぜなら、あるコンミユニストよりハイカラなインペリアリストがゐるから。また、その辺のいはゆる「モダアン・ボオイ」や「モダアン・ガアル」たちよりハイカラな、一見「普通」の青年男女がまだいくらもゐるから。私はここでこの言葉の言語学的穿鑿を企ててゐるのではない。いろいろに使はれてゐる意味をいちいち列挙する暇はないが、少くとも、「ハイカラ」といふ言葉に、気障の意を含めて、すぐに反感を抱く連中を除いては、私の今云はうとすることはわかつてもらへるだらうと思ふ。便宜上、「蛮カラ」といふ言葉をもつて来よう。この言葉は、たしかに、「ハイカラ」の正反対を指すものである。よい意味にも、悪い意味にも、――いや、この言葉は、それほど悪い意味に使はれてゐない。寧ろ、「ハイカラ」を軽蔑する場合に、「蛮カラ」がいかに昂然とその「美風」を誇つてゐることであらう。素朴、恬淡、磊落、質実、剛健、超俗……等々の美点にさへ似たものであるとされてゐる。
 それはそれでいい。「蛮カラ」とは、何れにしても、細節に拘泥せず、我武者羅であり、悪くいへば「野暮」であり「殺風景」であるが、時として、それを知りながら、わざとさうであることを努める。弊衣破帽、辺幅を飾らざる東洋豪傑趣味である。
「ハイカラ」なるが故に、華美を好むとはいへない。まして、贅沢は「ハイカラ」の別名ではない。否、寧ろ、かのケバケバしいブウルジユワ成金趣味は、凡て「ハイカラ」とは縁の遠いものである。
「ハイカラ」に似て、実は全く異つたものに、かの「粋」がある。これは、「ハイカラ」の幾分超国境的なるに対し、純粋に民族的なるところ、局地的なるところ、一つの著しい特長であるが、従つて、一方の進歩的、個性的なるに対し、これは保守的で、しかも常に伝統的である。故に言葉は変であるが、「日本風なハイカラ」と「西洋風な粋」があり得ることを知らなければならぬ。言ひ換へれば、ハイカラな日本趣味、粋な西洋趣味が同時に存在するのである。もう一歩進めていへば、ハイカラな西洋趣味と粋な西洋趣味とは違ふのである。ハイカラなある西洋人が好んで東洋風の趣味を漁るなどといへば、一寸をかしいが、さういふこともいへないことはない。
 ハイカラな家庭といへば、必ずしも、夫婦が一緒に手をつないで散歩し、子供に、「パパ」「ママ」と呼ばせ、……などする家庭のことをいふのではなからう。
 ハイカラな文章といへば、必ずしも片仮名の英語が交り、何々するところのそれは……といふやうな翻訳臭があり、などする文体を指してはゐまい。
「ハイカラ」とは、気がきいてをり、あかぬけがしてをり、軽快であるばかりではない。それは常にもつとも「理知的な眼」を意味する。そこでは、常に、「溌剌たる才気」がもつとも「つゝましい姿」を見せてゐる。
「ハイカラ」とは、また、自由な均整であり、聡明な型破りであり、節度あるフアンテジイであり、要するに、一つのもつとも洗煉された反逆的精神である。「ハイカラ」が模倣と流行を敵とする所以はここにある。
「粋」が陰性なるに付し、「ハイカラ」はあくまで陽性なることも注意すべきであらう。一口に「さばけて」ゐるといふが、粋な「さばけ方」とハイカラな「さばけ方」とでは、格段の差がある。
 私はここで、「ハイカラな文学」について語りたい。
 日本文学に於いて、ハイカラな作品といへば、私はまづ、指を「枕草紙」に屈することを躊躇しない。「源氏物語」にも、多分の「ハイカラ」性を発見するが、恐らくあの時代の女性中でも、わが清少納言の如きハイカラは少なかつたに違ひない。彼女の生活はあまり多く知られてゐないが、その芸術を通じて観た「ハイカラさ」のみについて考へても、現代の作家たちさへ、なかなか及び難いものを感じさせられる。
 私はまた、源実朝をハイカラな詩人だと思つてゐる。それは、武将にして歌詠みであるといふやうな事実からではない。その歌風についていふのである。
 徳川期の文学はさすがに、「ハイカラさ」に乏しいやうである。ここでは寧ろ、「粋な文学」の代表的なものが多く生れたとでもいふのであらうか。
 明治以後、かの当時ハイカラとされたに違ひない新体詩の如きは、ハイカラならざるものの骨頂である。
 明治時代の小説家を、私は殆ど読んでゐないから、うつかりしたことはいへないが、なんとなく、山田美妙斎といふ人はハイカラではなかつたかといふ気がする。
 ハイカラ詩人として、私は与謝野晶子夫人、並びに初期の北原白秋氏を挙げたい。
 現代作家中では、芥川竜之介氏、佐藤春夫氏、室生犀星氏、などは、多くの「ハイカラさ」をもつた作家であらうと思ふ。新進作家のうちで、稲垣足穂氏、川端康成氏、横光利一氏、林房雄氏などの文章はハイカラな方であらう。
 かういつたからとて、何も、私は、ハイカラなるが故に傑れた芸術作家だとは思つてゐない。そんなことは断るまでもないが、とかくさういふ勘違ひをされがちであるから、念のためにつけ加へておく。
 しかしながら、私は、自分一個の趣味からいつて、上に述べたやうな意味の「ハイカラな文学」が、もう少し盛んになつてもよくはないかと思つてゐる。それについては、世間にもう少しよい意味の「ハイカラ好み」が殖えてくれればいいがと思つてゐる。一見ハイカラさうに見えて、その実、ちつともハイカラでない青年男女、さういふ青年男女を見るにつけて、私なんか、ちつともハイカラでもなんでもないが、少くとも、ほんとにハイカラな人々に取巻かれてゐる快感を空想したくなる。
 殊に、芝居などといふものは、もつとハイカラにならなければいかん。第一、見物が窮屈で困る。舞台もさうだが、劇場内の空気がもつとハイカラにならなければ駄目だ。この空気は、もちろん、見物が作り出すものであると思ふが、変にどんよりとしてゐて、こはばつてゐてやりきれない。舞台が面白くないんだから、せめて見物の方で面白さうな顔をしてゐてくれなければ、実際、芝居なんていふものを見に行く気になれない。ハイカラな見物は舞台に退屈しても、廊下では愉快に話をするものである。
 話がわき道にそれたが、私の知つてゐる一人の青年美学者は、たしか、大学の卒業論文に「粋について」といふやうな題目を選んだと聞いてゐるが、不幸にして私は、まだその論文を読んでゐない。いつか会つたら、今度の博士論文に、「ハイカラについて」といふ題目を選ぶやうに勧めて見るつもりである。それとも、彼は、既に、「蛮カラについて」といふ論文を起草してゐるかしら。いや、そんなはずはない。わがK君は、たしかに、私の見るところ、極めてハイカラな紳士であつたから。嘗て彼が、もつとも「粋な学生」であつたであらうやうに。(一九二六、三)





底本:「岸田國士全集20」岩波書店
   1990(平成2)年3月8日発行
底本の親本:「時・処・人」人文書院
   1936(昭和11)年11月15日発行
初出:「東京朝日新聞」
   1927(昭和2)年4月3、4、5日発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年10月6日作成
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