打印本文 打印本文 关闭窗口 关闭窗口

築地小劇場の旗挙(つきじしょうげきじょうのはたあげ)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-30 19:24:55 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


 只、翻訳上の欠点は、或る程度まで演出によつて救はれたかも知れない。然し之も、結局同じ道理に帰着する訳である。あの演出を、少し言葉のわかる、そして原作を読むなり見るなりしてゐる仏蘭西人が見たら何と言ふだらう。
 然し、何と云つても、此の最後の出し物は、前の二つほど退屈はしない。もう一息と云ふところまで行つてゐるやうに思ふ。その一と息がなかなか問題ではあるが……。
 手許に訳文がないから、一々比較は出来ないが、たしかに誤訳だと思はれる箇所が可なりあつたやうに思ふ。そして、それは疑ひもなく、英訳の誤訳を伝へたものである。
 かういふ社会の、かういふ境遇にある人物が、好んで、或はわれ知らず使ふ言葉や文句のうちには、甚だ難解なものがあることは云ふまでもない。その意味は伝へ得るにせよ、この調子は、そのニュアンスは捕へ難い。而も、此の『休みの日』は、その調子とニュアンスの興味によつて心を惹き、さては動かすものである事を知らねばならぬ。それを除いての興味は薄つぺらなものになる。それを除くと「あら」が目立つ。眼ざはり、耳ざはりになる箇所ができて来る。同じ仏蘭西人の生活でも、もう少し、吾々の生活に近い生活がある。さういふ生活に材を取つた優れた脚本がざらにある。ほんたうに、そして有効に仏蘭西劇を紹介するなら、さういふ種類のものを演つて欲しい。

 築地小劇場第一回の公演は、かくて、僕を全然失望させないまでも、いさゝか期待を裏切つた感がある。然し此の点は、第二回、第三回と漸次に償はるべきことを祈つてゐる。
 僕は何等の判決も下さなかつたつもりである。さういふ気持ちにさせない何ものかゞ、築地小劇場の中にはある。それはこの劇場の生命である。

 これは、余計なことかも知れない。が、批評をするものゝ立場から、それが許されることであらうと思ふから、言つてしまふ。それは、聞くところによると、向う二年間、此の劇場では外国劇以外には演らないといふことである。これが事実だとすれば、僕は甚だ不満である。結果に於て、上演目録が外国劇ばかりで満たされることは止むを得まい。然し、最初から、さういふ計画で、さういふ覚悟で、一つの劇場を経営する(営利的でないだけそれだけ)といふことに、どれだけの意義があるだらう。
 勿論それは、日本に、外国劇の優れたものに匹敵する作品がないといふ理由であらう。或はまた、優れた外国劇の紹介によつてのみ、我が国の新劇運動を誘導刺戟し得るといふ考へからであらうが、それなら、若し明日にも、日本の作家中から、ゲエリングに対し、チェホフに対し、マゾオに対し、毫も遜色のない作品を発表するものが出たらどうするのだらう。そんな筈はないと云ふやうな乱暴なことは誰も云ふことはできない。
 僕は万一、二年以内に、我が日本にもイプセン、モリエール、シェクスピイヤが出て来た時に、築地小劇場は、真先にその作品を上演して、演劇革新運動の先駆たる名を恥かしめないやうにして貰ひたいのである。若しも、無名の才能を萌芽のうちに見出して、その成長を助けることが出来なければ。なほ、もう一つの註文は、翻訳劇の模範的演出によつて、二年間を有効に使はうとするならば、少くとも、翻訳劇のあらゆる困難と不備とを研究して、われわれの不満を満たすやうに心がけてほしい。それは、第一に、翻訳の厳正な吟味である。定評なき外国翻訳の重訳を絶対に慎むことである。俳優の演伎中、特に外国人の談話の呼吸、動作、ヂェスチュア、その他、感情意志の間接表示、その細密な研究を積むことである。日本語を話しつゝ、外国人の手真似身振りを、そのまゝ模倣することは、固より愚である。而し、その日本語が既に、日本人の話す日本語そのまゝではないのである。露西亜人には露西亜人の、仏蘭西人には仏蘭西人の「考へ方」「感じ方」「話し方」がある。それまで、適当な翻訳のし方をしなければうそである。僕は、劇作家が、「対話に伴ふ動作」を勘定に入れないで舞台のイメージを創造することはないと思つてゐる。背景、道具、衣裳の或る程度までの「それらしさ」を尊重することである。所謂地方色は芸術美の本質ではない。然し、それを全然無視し、様式化することは別として、それを「知らずして誤る」ことは、芸術美を傷つけることになる。少くとも、芸術美鑑賞の妨害になる。その例はいくらもある。実際を知らない観衆に対して、さういふ努力を費すのは無駄な気がするが、それは如何ともしかたがない。これは、外国劇及び時代劇演出者の当然払ふべき犠牲である。報いられない犠牲である。
 僕は翻訳劇演出について、一つの理論をもつてゐるが、それは更めて発表の機会があるだらうと思ふ。僕は、殊に誰にでも自分の理論を強ひて首肯させようとするものではない。殊に理論は理論である。総ての理論の実行に対して、先づ自分の理論そのものに対する以上の敬意を表する。

 これで、言ひたいことはほゞ云ひ尽したつもりである。これからも、築地小劇場に対して、僕は言ひたいことを悉く言ふつもりである。言ひたいことが無くなることは、果して僕にとつて幸福だらうか。





底本:「岸田國士全集19」岩波書店
   1989(平成元)年12月8日発行
底本の親本:「我等の劇場」新潮社
   1926(大正15)年4月24日発行
初出:「新演芸 第九巻第七号」
   1924(大正13)年7月1日発行
入力:tatsuki
校正:Juki
2006年2月20日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について
  • このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。

上一页  [1] [2]  尾页




打印本文 打印本文 关闭窗口 关闭窗口