岸田國士全集20 |
岩波書店 |
1990(平成2)年3月8日 |
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1990(平成2)年3月8日 |
日本がだんだん欧米化しつゝあるといふ見方は、或る意味で肯首できるけれども、それを悦ぶものも、それを嘆くものも、もう一段高い処から見て、総ての民族が世界化しつゝあるのだと思へば、人類の超国境的進化を認めないものゝ外は、さまで、日本のみが特殊な境遇に置かれてあると信じる必要はあるまい。 事実、現代の日本人は「多少とも」英吉利人であり、独逸人であり、露西亜人であり、仏蘭西人であり、亜米利加人であるのだ。然し、それがために、だんだん日本人でなくなると思つてはいけない。 現に、「多少とも」東洋人に、乃至は日本人になりつゝある欧米人もあるやうに見受けられる。 各国の文学が、その特色よりも、共通な或る標準によつて批判され、翫味されようとする時代が来てゐる。 然しながら、まだ、それぞれの国は、その文学に、他国人の味ひ得ぬ味を保有してゐるやうである。殊に、欧米と東洋、殊に日本との間には、文学的審美観念の隔りが可なり大きい。それでも、われわれ日本人は、五十年前から較べれば、「多少とも」欧米の文学を、その国の人の如く味ひ得るやうになつてゐる。それは、前に述べたやうに、われわれ日本人が、多少とも欧米化してゐるからであらう。 近藤経一氏であつたか、ラ・デユウゼの演じた「幽霊」を観て感想を述べられてゐる中に、外国の作品はどうしてもその国の人と同じやうに味へる筈はないのだから、われわれ日本人は、日本人としての解り方でそれを味へばいゝ。外国劇の演出なども、強ひて、外国人の演出法に範を取る必要はない。といふやうな意味の事を述べてをられた。之に対し、正宗白鳥氏も賛同の意を表してをられる。 僕は、この説に全然同感はしながら、自分の経験から、一応、之に註釈をつけて置きたく思つた。余計なことだつたかも知れない。然し、丁度日本現代劇に対する不満が、此の機会に、具体的に説明できると思つたので、「横槍を一本」入れて見たのである。 現代日本文学は外国文学の影響を非常に受けてゐるが、わけても戯曲は、日本古来の伝統から離れて、欧米の近代劇とその流れを倶にしようとさへしてゐる有様であるが、それにしては、日本現代劇は、まだまだ西洋劇に学ぶべきところが多いやうに思ふ。外国劇の研究から出発して、自ら劇作乃至劇評に筆を染めようとするほどのものは、従来、「日本人には味はへない味」と思はれてゐるやうな「味」までも充分に味はつて行く必要がある。それでないと、遂に、戯曲の本質に触れない、云はゞ形骸のみの模倣に陥り易い。外国の優れた戯曲が、その「劇的文体」に於て、その「言葉の妙味」に於て、如何に本質的価値を発揮してゐるか、その点にもつと理解があつて欲しい。「日本人には味はへない味」だなどと頭から棄てゝかゝるのはよくない。と、まあざつとこんなことを云つたつもりである。 正宗白鳥氏は、すると、先日、日々紙上で、大に皮肉のつもりでか、外国文学の標準で日本文学を律する必要はないと云ひ、僕に仏蘭西劇はわかつても現代日本の劇作家はわからないのではないかと云ひ、剰へ、僕を仏蘭西学者と揶揄し、遠廻はしに、模倣癖の強い人間殊に西洋へでも行つたやうな男は、兎角西洋人の真似をして自分が人よりも進んだつもりでゐると、甚だ穏やかならぬ罵倒のし方をされた。 そこで、正宗白鳥氏に申上げる。 第一、現在、外国文学の標準と日本文学の標準とどう違ふのですか。僕は僕の標準で物を云ひ、作品を批判してゐるのです。あなたと僕と文学上の立場が違つても、それは僕が外国文学の標準を標準としてゐる証拠にはならないでせう。よしまた、外国文学の標準といふやうなものが、今頃あつたにしろ、その立場から、日本文学を律することも亦面白いではありませんか。外国文学の標準で律し得るやうな作品、そして、新しい魅力をもつた作品が日本に生れゝば、それだけ、日本文学が豊富になるわけではありませんか。日本人の書いた外国文学なんていふものはありませんからね。 第二に、僕が仏蘭西劇はわかつても現代日本劇作家の作品がわからないのではないかといふお疑ひに対しては、何も云ひますまい。たゞ、正宗白鳥氏の戯曲は、同氏の明言せられる如く、必ずしも戯曲の名を冠する必要はないといふならば、僕は、氏の小説と同様、興味を以て読み、相当感服し、われわれの遠く及ぶところでないと思つてゐることを附け加へて置きます。氏は、それでも、まさか、だからお前は日本文学がわからないのだとは云はれますまい。 第三に、僕は仏蘭西学者でもなんでもありません。それこそ、少し外国語が読め、外国の小説を少し翻訳し、外国の雑誌の受売りを少しすれば、それで外国文学者にされてしまふ国も有難い国ですが、人が何か云へば、すぐに「えらさうに」と僻む国民性にも困つたものです。 僕が模倣癖の強い男かどうか、西洋人の真似をして人より進んだつもりでゐるかどうか、正宗氏にわかる筈はないと思ふのである。 「僕は西洋へ行つたことがある」と云ふと、「西洋へ行つたらどこがえらい」とやり返す。 人が西洋料理の食ひ方を心得てゐる。それを見て癪に触る。従つて、自分は、フオークで肉を刺すぐらゐのことは心得てゐながら、わざわざ手づかみで食ひ、それが却つて、「えらい」と思ふ、さういふ手合が、まだその辺にゐるやうですが、さういふ気もちもわかるにはわかるが、あまり大人げない。正宗氏には、ちつとさういふところがありはしませんか。 洋行した男が、二口目には「あちらでは」を振り廻す、たしかに聞きづらい。しかし、これは、洋行したといふことが「得意らしく」見えた時代の遺伝的感情である。西洋に行つた人間が、だんだん得意であり得なくなると、その「あちらでは」が、そんなに聞きづらくなくなるだらう。 西洋へ行つたから「人より進んでゐる」と思ふ人間も馬鹿の骨頂ながら、西洋へ行つた人間の云ふことでさへあれば、「西洋人の真似をしてゐる」と思ふ人も、凡そ量見が狭いではないか。 心外の余り、先輩に対する礼を忘れて、やゝ語調が矯激に失した恐れがあるが、これは正宗氏だけに云ふのではないと思つて頂きたい。 更めて云つて置く。僕は、今後も文学上の意見を発表するつもりである。それが若し、「仏蘭西文学の標準」によつてゐるらしく思はれても、僕は、日本文学を仏蘭西文学にしようなどゝいふ野心は毛頭ないのである。 僕はあくまでも、日本人である「僕の標準」を有つてゐる。
●表記について
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