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戯曲二十五篇を読まされた話(ぎきょくにじゅうごへんをよまされたはなし)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-30 13:39:49 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


 里見※(「弓+享」、第3水準1-84-22)氏は「女性」に「白扇の下に」を書き、「改造」に「たのむ」を書いてゐる。里見氏の戯曲を読むと、何よりも、里見氏から芝居の話を聞いてゐるやうな気がする。手に取るやうに舞台を見せてくれる。読者は少しの想像力をも働かせる余地がない。といふことは、結局戯曲の読者に取つては少々有難迷惑ではあるが、戯曲の読めない読者に取つてはこの上もない幸ひであらう。「白扇の下に」は思ひつきだけの面白さだが、「たのむ」の方は、それ以上に、ふんゐ気から来る面白さがある。どちらも、短いものでありながら、準備説明が長すぎるが、その説明の終るところから、急に、場面が緊張しはじめる。登場人物は、何れも型通りのせりふをしやべりつゝ、それが活々と動いてゐるのはどうしたわけか。表現の確かさはこの作者の強味である。せめてこの描写力に、応はしい心理解剖の鋭さがあればと思ふ。会話の「いき」は流石手にいつたものだが、それだけでは戯曲の文体として上乗なものだとはいへないやうに思ふ。なぜなら、その言葉には陰影が乏しい。従つて暗示力が希薄である。読者をひきずつては行くが、読者の眼は、作者の忙しい指先を追つて、次から次へと物の象を見るばかりである。あれも見た、これも見た、あれも面白かつた、これも面白かつた、そして、……? それだけだ――といふ旅をしたやうである。一体どこへ行つた? ――あ、それや、気がつかなかつた――といふ旅である。熱い国か寒い国か? ――忘れたといふ旅である。一寸変つた旅ではあるが、なんと話にならぬ旅ではないか。夢なら夢でまた話のしやうもあるものを……。
「助次郎、すぐ身を起し、流しもとから、菜切ばう丁をぬき持たうとするが、刑事に、ぐいと腰なはを引かれて取り落す。」あたり、思はず読者の方で浮腰になる。しかし、この時、作者の眼が、割合に物を言つてゐない。それがさびしい。これに反して、為吉が徳利の酒を湯のみに注いで、助次郎の方に差だすあたりから、今度は、作者が、のそ/\と出しや張つて来るのが眼ざはりだ。要するに、名小説家里見※(「弓+享」、第3水準1-84-22)氏は、主人公助次郎の如く、舞台という腰なはをつけられて、足は動いても手がだせない状態である。それにつけても、同氏の小説を読んで御覧なさい。僅五六行の会話の一節でさへ陰影と暗示に富む好個の劇的場面を見せてゐるではないか。あれがあのまゝ、なぜ戯曲にならないものか。
「改造」は新進池谷信三郎氏の「帰りを待つ人々」を紹介した。相当の期待をもつて読んだが、果してコンポジシヨンの上に大胆な新味を見せてゐる。と、思ひながら読んでゐるうちに、部分部分の技巧は寧ろ一種のマンネリズムに堕してゐるのに気がついた。各種の人物を対立させて、断片的な幻象イメージの交錯を企図し、そこからコンチエルトに見る効果を心理的に誘致しようとした作者の野心は、僕の尊敬おく能はざるところであるが、その幻象の、その心理的ノートの不統一と不確かさとが、惜むらくは、全篇の印象を支離滅裂なものにしてゐるやうである。僕の見るところでは、作者は、第一に言葉の選択を誤つてゐる。その言ひ方がわるければ、言葉そのものの好悪にとらはれ過ぎて魂の声に耳を傾けることを忘れたらしい。それがために、人物それ/″\の色彩から「絵画的リズム」をさへ引だすことができなかつた。この種の舞台に、それを欠くことは致命的な痛手である。作者は、恐らく、人物の幾人かをしてことさらに空虚な、大げさな言葉を語らせて、その言葉の裏から、間から「あるもの」を感じさせようとしたのだらう。その「あるもの」を、作者は、一体、はつきり見てゐるのだらうか。僕の疑問はそこにある。芸術的危機に立つこの作者の再考を求めたい。

 色調と時代的意識の差こそあれ、つとに「帰りを待つ人々」の手法をさりげなく取りいれて、見事成功してゐる作家に久保田万太郎氏がある。曾て「月夜」を書き、今また「通り雨」を書いていつもながらの腕のさえを示してゐる。久保田氏は、何よりも「あいさつの詩人」である。

……(急に)おさきへ失礼いたします。――(不意を食つたかたちに)おかへりですか? ――へえ。――いゝぢやありませんか、まア。――もう少し……。――へえ、有難うございます。――一寸これから、わきへ一けん寄つてまゐりますから……。――さうですか。――どうも有難うございました。――いづれ改めてうかゞひます。――どうぞお宅へよろしく被仰つて下さい。――おそれ入ります。――いえ、もう、子供のことでございますから、……。――(しみじみ)さぞ、しかし、お内儀さんがお力落しでせう。――……。――ちやうど、いま、可愛さざかりで……。――(しみじみ)全く死ぬ子眉目よしだ。(間)――では、御免下さいまし。(榎本と岩井屋に)どうぞごゆつくり……。――どうもこれは……。――そのうち、また、御邪魔に出ます。――どうぞ……。ぢやア御免なさい。――御免を……。

 これが、――もちろんこれだけ読んだのではわかるまいが――決してあいさつのためのあいさつではないのである。今頃、こんなことに感心してゐると、作者に叱られるかも知れないが、久保田氏でなければ弾けない一種のハルプを、僕は昔から聴くのが好きだ。同じものばかり弾いてゐるといふ非難は非難にならない。同じハルプでも弾くたびに曲が違ふ。たゞ久保田氏は、三味線で「汽笛一声」を弾く芸者ではないのである。まして、大正琴で……おつと、これは余計なことである。
 なるほど、久保田氏の好んで取扱ふ主題は、滅び行く世紀のすがたと、それにまつはる特殊な文化の名残である。その態度が勢ひ懐古的になるのは当然である。さういふ作家もあつていゝではないか。しかも、あわたゞしい流行の推移をよそに静かな(少くとも表面は)過去のロマンスを歌ひ続けてゐるかのやうに見える作者――この作者こそ、現代日本の劇作家中、もつとも、歌舞伎劇の伝統から離れて本質的に西欧の戯曲美を摂取した劇作家の一人であることは、寧ろ皮肉といふべきではないか。
 佐藤春夫氏の発表される戯曲を、僕は待ちわびてゐるものゝ一人である。今日まで、特に佐藤氏が優れた戯曲作家であることを証明した作品は一二に過ぎないけれど、僕は早晩同氏の手から、現代日本のもつとも光輝ある劇的作品が生れるであらうことを期待してゐる。「中央公論」の「巣父こうしみづかふ」は、遺憾ながら、戯曲としては未完成作品である。殊に作者が若しこれをもつて、東洋流の隠とん的哲学を賛美するものと解するならば、僕は、青年作家佐藤氏のために、やゝ心暗きを覚える。しかしながら、これは、あくまでも絶対的見地からである。「巣父犢に飲ふ」の一幕は、片々たる世上の商品的小説戯曲の類と同列に置くべきものではない。創作の動機は、よし、多少楽屋落的であらうとも。

 さて、これくらゐでやめて置かうと思ふが、たま/\眼に触れた一篇の作品を基礎にしてものを言ふのであるから、日頃その作家に対して抱いてゐる敬意をさへ十分にのべ得なかつた憾みがある。が、これは果して次の機会に埋合せができるかどうか。

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