檸檬・ある心の風景 |
旺文社文庫、旺文社 |
1972(昭和47)年12月10日 |
1974(昭和49)年第4刷 |
1974(昭和49)年第4刷 |
一
行一が大学へ残るべきか、それとも就職すべきか迷っていたとき、彼に研究を続けてゆく願いと、生活の保証と、その二つが不充分ながら叶えられる位置を与えてくれたのは、彼の師事していた教授であった。その教授は自分の主裁している研究所の一隅に彼のための椅子を設けてくれた。そして彼は地味な研究の生活に入った。それと同時に信子との結婚生活が始まった。その結婚は行一の親や親族の意志が阻んでいたものだった。しかし結局、彼はそんな人びとから我が儘だ剛情だと言われる以外のやり方で、物事を振舞うすべを知らなかったのだ。 彼らは東京の郊外につつましい生活をはじめた。櫟林や麦畠や街道や菜園や、地形の変化に富んだその郊外は静かで清すがしかった。乳牛のいる牧場は信子の好きなものだった。どっしりした百姓家を彼は愛した。 「あれに出喰わしたら、こう手綱を持っているだろう、それのこちら側へ避けないと危いよ」 行一は妻に教える。春埃の路は、時どき調馬師に牽かれた馬が閑雅な歩みを運んでいた。 彼らの借りている家の大家というのは、この土地に住みついた農夫の一人だった。夫婦はこの大家から親しまれた。時どき彼らは日向や土の匂いのするようなそこの子を連れて来て家で遊ばせた。彼も家の出入には、苗床が囲ってあったりする大家の前庭を近道した。 ――コツコツ、コツコツ―― 「なんだい、あの音は」食事の箸を止めながら、耳に注意をあつめる科で、行一は妻にせする。クックッと含み笑いをしていたが、 「雀よ。パンの屑を屋根へ蒔いといたんですの」 その音がし始めると、信子は仕事の手を止めて二階へ上り、抜き足差し足で明り障子へ嵌めた硝子に近づいて行った。歩くのじゃなしに、揃えた趾で跳ねながら、四五匹の雀が餌を啄いていた。こちらが動きもしないのに、チラと信子に気づいたのか、ビュビュと飛んでしまった。――信子はそんな話をした。 「もう大慌てで逃げるんですもの。しとの顔も見ないで……」 しとの顔で行一は笑った。信子はよくそういった話で単調な生活を飾った。行一はそんな信子を、貧乏する資格があると思った。信子は身籠った。
二
青空が広く、葉は落ち尽くし、鈴懸が木に褐色の実を乾かした。冬。凩が吹いて、人が殺された。泥棒の噂や火事が起こった。短い日に戸をたてる信子は舞いこむ木の葉にも慴えるのだった。 ある朝トタン屋根に足跡が印されてあった。 行一も水道や瓦斯のない不便さに身重の妻を痛ましく思っていた矢先で、市内に家を捜し始めた。 「大家さんが交番へ行ってくださったら、俺の管轄内に事故のあったことがないって。いつでもそんなことを言って、巡回しないらしいのよ」 大家の主婦に留守を頼んで信子も市中を歩いた。
三
ある日、空は早春を告げ知らせるような大雪を降らした。 朝、寝床のなかで行一は雪解の滴がトタン屋根を忙しくたたくのを聞いた。 窓の戸を繰ると、あらたかな日の光が部屋一杯に射し込んだ。まぶしい世界だ。厚く雪を被った百姓家の茅屋根からは蒸気が濛々とあがっていた。生まれたばかりの仔雲! 深い青空に鮮かに白く、それは美しい運動を起こしていた。彼はそれを見ていた。 「どっこいしょ、どっこいしょ」 お早うを言いにあがって来た信子は 「まあ、温かね」と言いながら、蒲団を手摺りにかけた。と、それはすぐ日向の匂いをたてはじめるのであった。 「ホーホケキョ」 「あ、鶯かしら」 雀が二羽檜葉を揺すって、転がるように青木の蔭へかくれた。 「ホーホケキョ」 口笛だ。小鳥を飼っている近くの散髪屋の小僧だと思う。行一はそれに軽い好意を感じた。 「まあほんとに口笛だわ。憎らしいのね」 朝夕朗々とした声で祈祷をあげる、そして原っぱへ出ては号令と共に体操をする、御嶽教会の老人が大きな雪達磨を作った。傍に立札が立ててある。 「御嶽教会×××作之」と。 茅屋根の雪は鹿子斑になった。立ちのぼる蒸気は毎日弱ってゆく。 月がいいのである晩行一は戸外を歩いた。地形がいい工合に傾斜を作っている原っぱで、スキー装束をした男が二人、月光を浴びながらかわるがわる滑走しては跳躍した。 昼間、子供達が板を尻に当てて棒で揖をとりながら、行列して滑る有様を信子が話していたが、その切り通し坂はその傾斜の地続きになっていた。そこは滑石を塗ったように気味悪く光っていた。 バサバサと凍った雪を踏んで、月光のなかを、彼は美しい想念に涵りながら歩いた。その晩行一は細君にロシアの短篇作家の書いた話をしてやった。―― 「乗せてあげよう」 少年が少女を橇に誘う。二人は汗を出して長い傾斜を牽いてあがった。そこから滑り降りるのだ。――橇はだんだん速力を増す。首巻がハタハタはためきはじめる。風がビュビュと耳を過ぎる。 「ぼくはおまえを愛している」 ふと少女はそんな囁きを風のなかに聞いた。胸がドキドキした。しかし速力が緩み、風の唸りが消え、なだらかに橇が止まる頃には、それが空耳だったという疑惑が立罩める。 「どうだったい」 晴ばれとした少年の顔からは、彼女はいずれとも決めかねた。 「もう一度」 少女は確かめたいばかりに、また汗を流して傾斜をのぼる。――首巻がはためき出した。ビュビュ、風が唸って過ぎた。胸がドキドキする。 「ぼくはおまえを愛している」 少女は溜息をついた。 「どうだったい」 「もう一度! もう一度よ」と少女は悲しい声を出した。今度こそ。今度こそ。 しかし何度試みても同じことだった。泣きそうになって少女は別れた。そして永遠に。 ――二人は離ればなれの町に住むようになり、離ればなれに結婚した。――年老いても二人はその日の雪滑りを忘れなかった。―― それは行一が文学をやっている友人から聞いた話だった。 「まあいいわね」 「間違ってるかも知れないぜ」 大変なことが起こった。ある日信子は例の切り通しの坂で顛倒した。心弱さから彼女はそれを夫に秘していた。産婆の診察日に彼女は顫えた。しかし胎児には異状はなかったらしかった。そのあとで信子は夫に事のありようを話した。行一はまだ妻の知らなかったような怒り方をした。 「どんなに叱られてもいいわ」と言って信子は泣いた。 しかし安心は続かなかった。信子はしばらくして寝ついた。彼女の母が呼ばれた。医者は腎臓の故障だと診て帰った。 行一は不眠症になった。それが研究所での実験の一頓挫と同時に来た。まだ若く研究に劫の経ない行一は、その性質にも似ず、首尾不首尾の波に支配されるのだ。夜、寝つけない頭のなかで、信子がきっと取返しがつかなくなる思いに苦しんだ。それに屈服する。それが行一にはもう取返しのつかぬことに思えた。 「バッタバッタバッタ」鼓翼の風を感じる。「コケコッコウ」 遠くに競争者が現われる。こちらはいかにも疲れている。あちらの方がピッチが出ている。 「……」とうとう止してしまった。 「コケコッコウ」 一声――二声――三声――もう鳴かない。ゴールへ入ったんだ。行一はいつか競漕に結びつけてそれを聞くのに慣れてしまった。
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