最古日本の女性生活の根柢(さいこにほんのじょせいせいかつのこんてい)
三 女軍 万葉および万葉以前の女性とさえ言えば、すぐれて早く恋を知り、口迅(くちど)に秀歌を詠んだもののように考えられてきている。しかしこれとてもやはり、伝説化せられたものに過ぎなかったのである。佳人才女の事蹟を伝えたのは、その女性自身の作と伝えながら、実は語部の叙事詩それ自身が、生み出した性格でもあり、作物でもあった。つまりは物語や、それから游離した歌謡の上にのみ、情知り訣(わけ)知りらしく伝わったので、後世から憧れるほどのものでなかったのである。ただ、ことの神事に関する限り、著しく女性としての権威を顕し、社会的にも活動したのは事実である。神の意思を宣伝し、神の力を負うて号令する巫女の勢力が、極度に発揮せられるのである。 近江・藤原の宮のころから禁じられだしたが、なお、その行きわたらなかった地方には、存していたろうと思われるのは、女子の従軍である。昔から学者は軍旅の慰めに、家妻を伴うたものと解している。もっとも、この法令の出たころは、女と戦争との交渉について、記憶が薄らいでいたものであろう。戦争における巫女の位置というようなことを考えると、巫女にして豪族の妻なる者の従軍は、巫女であるがためといふ中心点より、妻なるがためという方へ、移っていっていたのである。 日本武尊(やまとたけるのみこと)の軍におられた橘媛(たちばなひめ)などは、妻としての従軍と考えられなくもない。崇神天皇の時に叛(そむ)いた建埴安彦(タケハニヤスヒコ)の妻安田(アダ)媛は、夫を助けて、一方の軍勢を指揮した。名高い上毛野形名(かみつけぬのかたな)の妻も、その働きぶりを見ると、単に「堀川夜討」の際の静御前と一つには見られない、やはり女軍の将であったらしい。調伊企儺(ツキノイキナ)の妻大葉子(オホバコ)も神憑りする女として、部将として従軍して、俘(とりこ)になったものと考えられる。神功皇后などは明らかに、高級巫女なるがゆえに、君主とも、総大将ともなられたのである。 女が軍隊に号令するのに、二つの形がある。全軍の将としての場合と、一部隊の頭目としての時とがそれである。巫女にして君主といった場合は、もちろん前の場合であろうが、軍将の妻なる巫女の場合には、後の形をとったことと思われる。 神武天皇の大和の宇陀(うだ)を伐(う)たれた際には、敵の兄磯城(エシキ)・弟磯城(オトシキ)の側にも、天皇の方にも、男軍(ヲイクサ)・女軍(メイクサ)が編成せられていた。「いくさ」という語の古い用語例は軍人・軍隊という意である。軍勢に硬軟の区別を立てて、軍備えをするわけもないから、優形(やさがた)の軍隊といったふうの譬喩表現と見る説はわるい。やはり素朴に、女軍人の部隊と説く考えが、ほんとうである。巫女の従軍した事実は際限なくあることで、皆戦場において、神の意思を問うためである。それとともに、女軍を指揮するのだから、真の戦闘力よりも、信仰の上から薄気味のわるい感じを持っていたのであろう。一方からは、他の種族の祀る異教神の呪力を、物ともせない勇者にとっては、きわめて脆(もろ)い相手であったのである。神武天皇なども、女軍を破って、敵を窮地に陥れていられる。 黄泉醜女(ヨモツシコメ)の黄泉軍衆(イクサ)というのも、死の国の獰猛(どうもう)な女の編成した、死の国の軍隊ということである。いざなぎの命が、あれほどに困らされた伝えのあるのも、祖先の久しい戦争生活から来た印象である。 沖縄の記録を見ると、三百年前までは、巫女従軍の事実はしばしば見えている。離島方面では、島々の小ぜり合いに、こうした神意の戦争が、近年までくり返されていたことと思われる。
上一页 [1] [2] [3] [4] [5] 下一页 尾页