二 河童使ひ
河童が、なぜ人に駆役せられる様になつたか。此には、日本国中大抵、其悪行の結果だとしてゐる。人畜を水に曳きこんだ、又、ひきこまうとしたのが、捉まつた為とするのである。 最初に結論から言はう。呪術者に役せられる精霊は、常に隙を覗うてゐる。遂に役者の油断を見て、自由な野・山・川・海に還るのである。河童の贄を持つて来なくなつたのも、長者の富みを亡くしたのも、皆此考へに基いて居る。 役者は、役霊を駆使して、呪禁・医療の不思議を示した。ある家の主に伝はる秘法に、河童から教へられたものとするのが多い訣である。河童の場合は、接骨の法を授けたと言ふ形が、多様に岐れたらしい。金創の妙薬に、河童の伝法を説くものが多いが、古くはやはり、手脚の骨つぎを説いたものらしい。馬術の家には、落馬したものゝ為の秘法の手術が行はれた。その本縁を説明する唱言も、共に伝つた。恐らく、相撲の家にあつたものを移して、馬との関係を深めたものと思はれる。河童に結びついた因縁は、後廻しにする。 人に捉へられた河童は、其村の人をとらぬと言ふ誓文を立てる。或は其誓文は、ひき抜かれた腕を返して貰ふ為にする様になつてゐる。腕の脱け易い事も、河童からひき放されぬ、重要な条件となつてゐた時代があつたに違ひない。其が後には、妖怪の腕を切り落す形になつて行く。柳田先生は、此を河童考の力点として居られる。羅城門で切つた鬼の腕も、其変形で、河童から鬼に移つたのだと説かれた。此鬼と同様、高い処から、地上の人をとり去らうとする火車なる飛行する妖怪と、古猫の化けたのとの関係をも説かれた。
其後、南方熊楠翁は、紀州日高で、河童をかしやんぼと言ふ理由を、火車の聯想だ、と決定せられた。思ふに、生人・死人をとり喰はうとする者を、すべてくわしやと称へた事があつたらしい。火車の姿を、猫の様に描いた本もある訣である。人を殺し、墓を掘り起す狼の如きも、火車一類として、猫化け同様の話を伝へてゐる。老女に化けて、留守を家に籠る子どもをおびき出して喰ふ話は、日本にもある。又、今昔物語以来、幾変形を経た弥三郎といふ猟師の母が、狼の心になつて、息子を出先の山で待ち伏せて喰はうとして、却て切られた越後の話などが其である。さう言ふ人喰ひの妖怪の災ひを除く必要は、特に、葬式・墓掘りの際にあつた。坊さんの知識から、火車なる語の出た順序は考へられる。江戸中期までの色町に行はれたくわしやなる語は、用法がいろ/\ある。よび茶屋の女房を言ふ事もあり、おき屋の廻しの女を斥しても居る。くわしやを遣り手とも言うてゐるが、後にはくわしやよりも、やりてが行はれた。さうして、中年女を聯想したくわしやも、やりてと替ると、婆と合点する程になつた。くわしやの字は、花車を宛てゝゐるが、実は火車であらう。人を捉へて、引きこむ様からの名であらう。おき屋から出て、よび屋を構へたのをも、やはりくわしやと呼んだのであらう。芝居に入つて「花車形」といはれたのは、唯の女形のふけ役の総名であつた。
手の抜ける水妖は、あいぬの間にもあつた。みんつちと言ふ。形は違ふが、河童に当るものである。金田一京助先生は、手の抜け易い事を、草人形の変化であるからだ、と説明して居られた。藁人形などの手は、皆心は、竹や木である。草を絡んだ一本の棒を両手としてゐる。其で引けば、両方一時に抜けて来るとも言はれた。みんつちの語自身が和人のものである様に、恐らくは此信仰にも、和人の民俗を含んで居ると思ふ。 草人形が、河童になつた話は、壱岐にもある。あまんしやぐめは、人の村の幸福を呪うて、善神と争うて居た。土木に関しての伝への多い、此島の善神の名は、忘れられたのであらう。九州本土の左甚五郎とも言ふべき、竹田の番匠の名を誤用してゐる。ばんじようとあまんしやぐめが約束した。入り江を横ぎつて、対岸へ橋を架けるのに、若し一番鶏の鳴くまでに出来たら、島人を皆喰うてもよい、と言ふのである。三千体の藁人形を作つて、此に呪法をかけて、人として、工事にかゝつた。鶏も鳴かぬ中に、出来あがりさうになつたのを見たばんじようは、鶏のときをつくる真似を、陰に居てした。あまんしやぐめは、工事を止めて「掻曲放擲け」と叫んだ。其跡が「げいまぎ崎」と言はれてゐる。又三千の人形に、千体は海へ、千体は川へ、千体は山へ行け、と言うて放した。此が皆、があたろになつた。だから、海・川・山に行き亘つて、馬の足形ほどの水があれば、其処にがあたろが居る。若し人の方の力が強ければ、相撲とりながら、其手を引き抜く事も出来る。藁人形の変化だからと言ふのである。 両手が一時に抜けたとは言はぬが、あいぬのみんつちに似過ぎる程似てゐる。夏祓へに、人間の邪悪を負はせて流した人形が、水界に生を受けて居るとの考へである。中にも、田の祓へには、草人形を送つて、海・川へ流す。夏の祓へ祭りと、河童と草人形との間に、通じるものゝあるのは、尤である。而も、河童に関係浅からぬ相撲に、骨を脱して負ける者の多い処から、愈河童と草人形との聯想が深まつて来た、と思はれる。
古代の相撲は、腕を挫き、肋骨[#「肋骨」は底本では「助骨」]や腰骨を蹶折る、と言つた方法さへあつた様である。中古以後、秋の相撲節に、左方の力士は葵花、右方は瓠花を頭へ挿して出た。瓠は水に縁ある物だから、水の神所属の標らしく、さうして見ると、葵は其に対立する神の一類を示すものであらう。必しも加茂とも考へられぬが、威力ある神なのであらう。瓠花も、瓢も、他の瓜で代用が出来た。 だが、なぜ後世渡来の胡瓜をば、水の精霊の好むものと考へたのだらう。恰好は、稍瓠の小形なものに似て、横に割つた截り口が、丸紋らしい形を顕してゐる。祇園守りの紋所だと言ふ地方が広い。瓜の中に神紋らしいものゝ現れて居り、ひねるとなかごが脱けて了ふ。「祇園祭り過ぎて胡瓜を喰ふな。中に蛇がゐる」との言ひ習しも、いまだに、各地に残つてゐる。祇園は異風を好んだ神である。此神の為にはかうした新渡の瓜を択ぶ風が起つた為とも考へられる。瓜に顔を書いて流す風もあつた。胡瓜に目鼻を書くと、いぼ/\の出た恐しい顔になる。この怖い顔した異国の瓜を、他界から邪悪を携へて来た神の形代として流し送る。かうした考へから、夏祓への川祭りに、胡瓜が交渉を持つ様になつたのであらう。其が次第に、水の神への供養と言ふ様に、思はれて行つたのではないか。其で、河童の好物を胡瓜とする考へが、導かれて来たと思はれる。
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