三 餓鬼つき
正本自体、火葬土葬を問題にしてゐるから、此事も言ひ添へて置きたい。所謂蚩尤伝説は、巨人の遺骸を分割して、復活を防ぐ型のものである。日本では古く、捕鳥部ノ万が屍を分割して梟せられてゐる。平将門は、此までから既に、此型に入るものと見られて来てゐる。此と樹精伝説と謂はれてゐるものとは、一つの原因から出たとは言はれないまでも、考への基礎になつたものは同じである。霊魂或は精霊の拠つて復活すべき身がらを、一つは分けて揃はない様にし、一つは焼いて根だやしにして了ふのである。日本の風葬も奈良以前のものは、必しも火葬の後、灰を撒いたともきまらぬ様である。「まく」と言ふ語は、灰を撒く事に聯想が傾くが、恐らく葬送して罷らせる意であつたものが(任くの一分化)骨を散葬した事実と結びついて、撒くの義をも含む事になつたのであらう。
秋津野を人のかくれば、朝蒔君が思ほえて、歎きはやまず(万葉巻七) たまづさの妹は珠かも。あしびきの清き山辺に 蒔散染(?)
などは、風葬とも限られない。
鏡なすわが見し君を。あばの野の花橘の珠に、拾ひつ(万葉巻七)
なども、火葬の骨あげとはきまらない。「ひろふ」と言ふ語に、解体して更に其骨を集める事を含んで居るのかと思ふ。勿論火葬は、既に一部では行はれて居たであらう。が、私はわが国の殯の風を洗骨に由来するものと考へて居る。今も佐賀県鹿島町の辺に、洗骨を行ふ村がある位である。南島と筋を引く古代人の間に、此風がなかつたものとも思はれない。併し、洗骨の事実を「珠に拾ひつ」と言うたと考へられないであらう。洗骨はやはり、復活を防ぐ手段なのであつた。何にしても日本の蚩尤伝説は、其が固定して後までも、実際民俗は解体散葬の方法を伝へて居たものと考へるのが、ほんとうであらう。 家来は火葬で蘇生の途を失ひ、小栗は土葬の為に、復活して来た。が、此物語の中には、肝腎の部分なる屍の不揃であつた、と言ふ点を落して居るらしい。斂葬に当つて、必体のある一部を抜きとつて置いたのが、散葬によらぬ場合の秘法であつて、其が Life-index の伝説形式を形づくる一部の原因になつたものらしい。小栗の、耳も聞かず、口も働かず、現し心もない間の「餓鬼阿弥」の生活は、此側から見ねば訣らないと思ふ。 鬼に、姿見えぬ人にせられた男が、不動火界呪によつて、再、形を顕したと言ふ六角堂霊験を伝へた今昔物語の話は、我が国には珍らしい型であるが、飜訳種とばかりはきまらない。よしさうであつたにしても、小栗の場合の今一つ残つた部分の説明には、役に立ち相である。 蘇生の条件の不備であつた屍の説明から、もう一歩踏み込んで見なければならぬのは、元来屍を持たない精霊の、肉身を獲る場合である。 私は長々と、だるが行路死人の魂魄から精霊化して、遂にはひだる神とまで称せられる様になつた道筋を暗示して来た。其が更に仏説に習合して、餓鬼と呼ばれる様になつた事も解説した積りである。かうした精霊の肉身を獲ようとする焦慮は、ぬさや、食物の散供を以てなだめられなければ、人に憑く事になつたのである。其が、食物を要求する手段として、人につく、と考へられる様になつたと見る事が出来る。 さうした精霊が、法力によつて肉身を獲て、人間に転生したと言ふ伝説の原型があつて、うわのが原の餓鬼阿弥の蘇生物語は出来たものであらう。曾て失はれた肉身をとり戻した魂魄の悦びを、単独に餓鬼阿弥の上に偶発したものと見るに及ばぬ。六角堂霊験譚も、やはり同じ筋のものであつて、仏説臭味の濃厚になつたものであつた。 それと比べると、餓鬼阿弥の方は、時衆の合理化を唯片端に受けて居るだけである。併しながら同時に、念仏衆の唱導によつて、此古い信仰が保存せられた事も否まれない。
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