対局は二月五日午前十時五分、木村八段の先手で開始された。 木村は十八分考へて、七六歩と角道をあけた。まづ定跡どほりの何の奇もない無難な手である。二六歩と飛車先の歩を突き出すか、七六歩のこの手かどちらかである。それを十八分も考へたのは、気持を落ちつけるためであらう。 駒から手を離すと、木村はぢろりと上眼づかひに相手の顔を見た。底光る不気味な眼つきである。その若さに似ずはやこちらを呑みこんで掛つて来たかのやうな、自信たつぷりのその眼つきを、ぴしやりと感ずると坂田は急にむずむずして来た。七六歩を受けて三四歩とこちらも角道をあけたり、八四歩と飛車先の歩を突き出したりするやうな、平凡の手はもう指せるものかといふ気がした。この坂田がどんな奇手を指すか見てをれ、あつといふやうな奇想天外の手を指してやるんだと、まるで通り魔に憑かれて、坂田はふと眼を窓外にそらした。南天の実が庭に赤い。山清水が引かれてゐて、水仙の一株が白い根を洗はれ、そこへ冬の落日が射してゐる。 十二分経つた。坂田の眼は再び盤の上に戻つた。さうして、太短い首の上にのつた北斎描く孫悟空のやうな特徴のある頭を心もちうしろへ外らせながら、右の手をすつと盤の右の端の方へ伸ばした。 その手の位置を見て、木村は、飛車先の歩を平凡に八四歩と突いて来るのだなと、瞬間思つた。が、坂田の手はもう一筋右に寄り、九三の端の歩に掛つた。さうして、音もなくすーつと九四歩と突き進めて、ぢつと盤の上を見つめてゐた。駒のすれる音もせぬしづかな指し方であつた。十六年振りに指す一生一代の将棋の第一手とは思へぬしづけさだつた。 普段から坂田は、駒を動かすのに音を立てない人である。「ぴしり、ぴしりと音を立てて、駒を敲きつける人がおますけど、あらかなひまへん。音を立てるちふのは、その人の将棋がまだ本物になつてん証拠だす。ほんたうの将棋いふもんは、指してる人間の精神が、駒の中へさして入り切つてしもて、自分いふもんが魂の脱け殻みたいに、空気を抜いたゴム鞠みたいに、フワフワして力もなんにもない言ふ風になつてしもた将棋だす。音がするのんは、まだ自分が残つてる証拠だす。……蓮根をぽきんと二つに折ると、蜘蛛の糸よりまだ細い糸が出まつしやろ。その細い糸の上に人間が立つてるちふやうな将棋にならんとあきまへん。力がみな身体から抜け出して駒に吸ひこまれてしまふちふと、細い糸の上にも立てます――さういふ将棋でないとほんたうの将棋とは言へまへん。さういふ将棋になりますちふと、もう打つ駒に音が出て来る筈がおまへん。」 ある時、坂田はかう語つた。それ故、彼は駒の音を立てるやうなことは決してしない。 九四歩もまたフワリと音もなく突かれた手であつた。いはば無言の手である。けれど、この一手は「坂田の将棋を見とくなはれ。」といふ声を放つて、暴れまはり、のた打ちまはつてゐるやうな手であつた。前人未踏の、奇想天外の手であつた。 木村はあつと思つた。なるほど変つた手で来るだらうとは予想してゐた。が、まさか第一着手にこんな未だかつて将棋史上現はれたことのない手を指して来るとは、思ひも掛けなかつた。 「坂田さんの最初の一手九四歩は、私の全然予想せざる着手で、奇異な感に打たれた。」と、木村はあとで感想を述べてゐるが、恐らくその通りであつたらう。 木村がその通りだから、大衆の驚き方は大変なものだつた。かつて大崎八段との対局で、坂田が角頭の歩を突いた時の興奮が案の定再燃したのである。新聞の観戦記は、この九四歩の一手を得ただけでも、この度の対局の価値は十分であると言つて、この一手の説明だけで一日分を費してゐたが、その記事を読んだ時のことを、私は忘れ得ない。 いまもあるだらうと思ふが、その頃私は千日前の大阪劇場の地下室にある薄汚い将棋倶楽部へ、浮かぬ表情で通つてゐた。地下室特有の重く澱んだ空気が、煙草のけむりと、ピンポン場や遊戯場からあがる砂ほこりに濁つて、私はそこへ降りて行くコンクリートの坂の途中で、はやコンコンといやな咳をしなければならなかつたが、その頃私の心をすこしでも慰める場所は、その将棋倶楽部のほかにはなかつた。 察しのつく通り、私は病身で、孤独だつた。去年の夏、私はある高架電車の中から、沿線のみすぼらしいアパートの狭苦しく薄汚れた部屋の窓を明けはなして、鈍い電燈の光を浴びながら影絵のやうに蠢いてゐるひとびとの寝姿を見て、いきなり胸をつかれてかつての自分のアパート生活を想ひ出したことがあるが、ほんたうにその頃の私の生活は、耳かきですくふほどの希望も感動もない、全く青春に背中を向けたものであつた。おまけに、その背中を悔恨と焦燥の火に、ちよろちよろ焼かれてゐたのである。 さうした私を僅かに慰めてくれたのはその地下室の将棋倶楽部で、料金は一時間五銭、盤も駒も手垢と脂で黝んでゐて、落ちぶれた相場師だとか、歩きくたびれた外交員だとか、私のやうな青春を失つた病人だとか、さういふ連中が集まるのにふさはしかつた。私はその中にまじつて、こはれ掛つた椅子にもたれて、アスピリンで微熱を下げながら、自分の運命のやうに窮地に陥ちた王将が、命からがら逃げ出すのを、しよんぼり悲しんでゐたのだつた。冬で、手足がちりちり痛み、水洟をすすりあげてゐると、いやな熱が赤く来て、私はもうぐつたりとして、駒を投げ出す、――そんなある日、私はその観戦記を読んだのである。 その地下室を出た足でふと立ち寄つた喫茶店へ備へつけてあつた新聞を、何気なく手に取つて見ると、それが出てゐたのである。丁度観戦記の第一回目で、木村の七六歩、坂田の九四歩の二手だけが紹介されてあつた。先手の角道があいて、後手の端の歩が一つ突き進められてゐるだけといふ奇妙な図面を、私はまるで舐めんばかりにして眺め「雌伏十六年、忍苦の涙は九四歩の白金光を放つ。」といふ見出しの文句を、誇張した言ひ方だとも思はなかつた。私は眼がぱつと明るくなつたやうな気がして、 「坂田はやつたぞ。坂田はやつたぞ。」と声に出して呟き、初めて感動といふものを知つたのである。私は九四歩つきといふ一手のもつ青春に、むしろ恍惚としてしまつたのだ。 私のこの時の幸福感は、かつて暗澹たる孤独感を味はつたことのない人には恐らく分るまい。私はその夜一晩中、この九四歩の一手と二人でゐた。もう私は孤独でなかつた。私の将棋の素人であることが、かへつて良かつた。木村はこの九四歩にどう答へるだらうか、九六歩と同じく端の歩を突いて受けるか。それとも一六歩と別の端の歩を突くだらうかなどと、しきりに想像をめぐらし、翌日の新聞を待ち焦れた。六十八歳の老齢で、九四歩などといふ天馬の如き溌剌とした若々しい奇手を生み出す坂田の青春に、私はぴしやりと鞭打たれたやうな気がし、坂田のこの態度を自分の未来に擬したく思ひながら、その新聞を見ることが、日日愉みとなつたのである。けれど、私にとつては何日間かの幸福であつたこの手は、坂田にとつて幸福な手であらうか。 素人考へでいへば、局面にもあるだらうが、まづ端の歩を突く時は相手に手抜きをされる惧れがある。いはば、手損になり易いのだ。してみれば、後手の坂田は中盤なら知らず、まづはじめに九四歩と端を突いたことによつて、そして案の定相手の木村に手抜きをされたことによつて二手損をしてゐるわけである。けれど、存外これが坂田の思ひであつたのかも知れない。はじめにぼんやり力を抜いて置いて、敵に無理攻めさせて、その隙に反撃を加へるといふ覘ひであつたかも知れない。最初の一手で、はや自分の将棋を栓ぬき瓢箪のやうなぼんやりしたものにして置かうとしたとも考へられる。「敵に指させて勝つ」といふ理論を、彼一流の流儀で応用したのだと言へないこともない。 けれど、結果はやはり二手損が災ひして、坂田は木村に圧倒的に攻められて、攻撃に出る隙もなく完敗してしまつたのだ。攻撃の速度を重要視してゐる近代将棋に、二手損をもつて向つたのは、さすがに無謀だつたのだ。無理論の坂田将棋は無理論に頼り過ぎて、近代将棋の理論の前に敗れてしまつたのである。 木村は「奇異な感に打たれた」といふ感想に続いて、 「――が、それと同時に、九四歩を見てからの私は、自分でも不思議な位に、グッと気持が落着いて、五六歩と突く時は相当な自信を得てゐた。そして五五歩の位勝からは、これが攻撃的に必ず威力を発揮し得るもの、と確信づけられた。」と言つてゐる。 五六歩は七六歩、九四歩に次ぐ第三手目である。五五歩は五手目。つまりは木村は三手指した時に、はや勝つたと確信したのである。いや、九四歩を見た途端に、さう思つたのであらう。 さうしてみれば、坂田は九四歩を突いた途端に、もう負けてゐたのである。一手六時間といふ長考を要するやうな苦しい将棋をつくりあげた原因は、この九四歩にあつたのだ。しかも、彼はこの手に十二分しか時間を費してゐない。予定の行動だつたのだ。戦前「坂田の将棋を見とくなはれ。」と大見得切つた時に、はや彼はこの手を考へてゐたのではなからうか。 「滝に打たれる者は涼しいばかりやおまへん。当人にしてみましたらなかなか辛抱がいります。」対局場での食事の時間に、ふと彼は呟いたといふ。はや苦戦を自覚してゐたのであらう。九四歩のやうな奇手をもつて戦ふのは、なるほど棋士の本懐にはちがひないだらうが、それだけに滝に打たれる苦痛も味ははねばならなかつたのだ。けれど、それも自業自得だつた、と言つては言ひ過ぎだらうか。変つた手を指してあつと言はせてやらうといふ心に押し出されて、自ら滝壺の中へ飛び込んでしまつたのではなからうか。 変つた将棋は坂田にとつてはもう殆ど宿命的なものだつた。将棋に熱中した余り、学校で習つた字は全部忘れて、一生無学文盲で通して来た。駒の字が読めるほかには、――ある時上京して市電に乗らうとしたが、電車の字が読めぬ、弱つてゐるうちにやつと品川行といふ字だけが、品川の川といふ字が坂田三吉の三を横にした形だつたおかげでそれと判つて、助かつた――といふ程度である。それ故古今の棋譜を読んでそれに学ぶといふことが出来ない。おまけに師匠といふものがなかつたので、自分ひとりの頭を絞つた将棋を考へだすより仕様がなかつたのだ。自然、自分の才能、個性だけを頼りにし、その独自の道を一筋に貫いて、船の舳をもつてぐるりとひつくり返すやうな我流の将棋をつくるやうになつた。無学、無師匠の上に、個性が強すぎたのだ。ひとつには、泉州の人らしい茶目気もあつたらう。が、それ故に、坂田将棋は一時覇を唱へ、また人気も出た。自信も湧いて来た。角頭の歩を突いたり、名人を自称したり、いはば横紙を破る強気も生じたのだ。が、この強気の故に彼は永い間沈黙を守らねばならぬ破目になつた。さうして、三年間といふもの、彼は人にも会はず外出もせず駒を手にせず、ひたすら自分の心を見つめて来た。何を考へ、何を発見したか、無論私には判らない。が、しかし「その時の坐蒲団がいまだにへつこんでゐます。」といふくらゐの沈思黙考の間に、彼が栓ぬき瓢箪の将棋観をいよいよ深めたであらうことは、私にも想像される。我の強気を去らなくては良い将棋は指せないといふ持論をますます強くしたのではなからうか。さうして、その現はれが、攻め勝たうとする速度を急ぐ近代将棋に反抗する九四歩だつたのではなからうか。つまりは、九四歩は我を去らうとする手であつたのではなからうか。けれど、一面これくらゐ坂田の我を示す手はないのだ。坂田は依然として坂田であた。彼は九四歩の手損を無論知つてゐたに違ひない。が、平手将棋は先後いづれも駒が互角だから、最初の一手をどう指さうと、隙のないやうには組めるものだ、最初の一手ぐらゐで躓くやうな坂田の将棋ではない、無理な手を指しても融通無碍に軽くさばくのが坂田将棋の本領だといふ自信の方が強かつたのだ。この自信があつたから、彼は十六年振りに立つたのである。さうして、彼は生涯の最も大事な将棋に最も乱暴な手を指したのである。 これはもう魔がさしたといふやうなものではなかつたのだ。坂田といふ人にとつては、もうこれほど自然な手はなかつたのである。自分の芸境を一途に貫いたまでの話である。なんの不思議もない。けれど、その時彼がかつて大衆の人気を博したいはゆる坂田将棋の亡霊に憑かれてゐたことは確かであらう。おまけに、なんといつても六十八歳である。さうまで人気を顧慮しなくてもと思はれる。なにか老化粧の痛ましさが見えるのである。 大衆は勿論喝采した。が、いよいよ負けたと判ると、なんだいといふ顔をした。 「あんな莫迦な手を指す奴があるか。」と薄情な唇で囁いた。専門の棋士の中にもさういふことをいふ者があつた。 対局の終つたのは、七日目の紀元節であつた。前日からの南禅寺の杉木立に雨の煙つてゐる朝の九時五分にはじめて、午に一旦休憩し、無口な昼食のあと午後一時から再開して、一時七分にはもう坂田は駒を投げた。雨はやんでゐなかつた。 対局者は打ち揃つて南禅寺の本堂に詣り、それから宝物を拝観した。坂田は、 「おほきに御苦労はんでござります。」と、びつくりするほど丁寧なお辞儀をして歩いた。五十五年間、勝負師として生きて来た鋭さがどこにあらうかと思はれるくらゐの丁寧なお辞儀であつた。 書院で法務部長から茶菓を饗された時も、頭を畳につけて、 「おほけに御馳走はんでした。」と言つた。特徴のある太短かい首が急にげつそりと肉を落して、七日間の労苦がもぎとつて行つたやうだつた。 迎への自動車に乗らうとする時、うしろからさした傘のしづくがその首に落ちた。令嬢の玉江はそれを見て、にはかに胸が熱くなつた。冬の雨に煙る京の町の青いほのくらさが車窓にくもり、玉江は傍のクッションに埋めた父の身体の中で、がらがらと自信が崩れて行く音をきく想ひがした。 坂田は不景気な顔で何やらぽそぽそ呟いてゐたが、自動車が急にカーヴした拍子に、 「あ、そや、そや。……」と叫んだ。 「えツ、何だす?」玉江は俄かに生々として来た父の顔を見た。 「この次の花田はんとの将棋には、こんどは左の端の歩を突いたろと、いま想ひついたんや。」と、坂田は言はうとしたが、何故か黙つてしまつた。さうして、その想ひつきのしびれるやうな幸福感に暫らく揺られてゐた。木村との将棋で、右の端の歩を九四歩と突いたのが一番の敗因だつたとは思はなかつたのである。さうしてまた花田との将棋でそれと同じ意味の左端の歩を突くことが再び自分の敗因になるだらうとは、夢にも思はなかつたのである。 雨は急にはげしくなつて来た。坂田は何やらブツブツ呟きながら、その雨の音を聴いてゐた。
(昭和十八年八月)
●表記について
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