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世相(せそう)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006/8/29 10:09:53 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


      三

 あれから五年になると、夏の夜の「ダイス」を想い出しながら、私は夜更けの書斎で一人水洟をすすった。
 扇風機の前で胸をひろげていたマダムの想出も、雨戸の隙間から吹き込む師走の風に首をすくめながらでは、色気も悩ましさもなく、古い写真のように色あせていた。踊子の太った足も、場末の閑散な冬のレヴュ小屋で見れば、赤く寒肌立って、かえって見ている方が悲しくうらぶれてしまう。興冷めた顔で洟をかんでいると、家人が寝巻の上に羽織をひっかけて、上って来た。砂糖代りのズルチンを入れた紅茶を持って来たのである。
「夜中におなかがすいたら、水屋の中に餅がはいってますから……」勝手に焼いて食べろ、あたしは寝ますからと降りて行こうとするのを呼び停めて、
「あの原稿どこにあるか知らんか。『十銭芸者』――いつか雑誌社から戻って来た原稿だ」十日掛って脱稿すると、すぐある雑誌社へ送ったのだが、案の定検閲を通りそうになかったのである。案の定だから悲観もしなかった。
「ああ、あれ、友達に貸したんじゃない?」
 家人は吐きだすように言った。私がそのような小説を書くのがかねがね不平らしかった。良家の子女が読んでも眉をひそめないような小説が書いてほしいのであろう。私の小説を読むと、この作者はどんな悪たれの放蕩無頼かと人は思うに違いないと、家人にはそれが恥しいのであろう。親戚の女学校へ行っている娘は、友達の間で私の名が出るたび、肩身がせまい想いがするらしい。
「そうだったかな。しかし誰に貸したんだろうな」
「一人じゃないでしょう。来る人来る人に喜んで読ませてあげていたでしょう」悪趣味だという口つきだった。
「最後に貸したのは誰だったかな。――忘れた。ズルチン呆けしたかな」ズルチンはサッカリンより甘いが、脳に悪影響があるからやめろと、最近友人の医者から聴いていた。
「――誰だか忘れたが、たぶん返しに来た筈だ。押入の中にはいっていないか」
「さア」と、それでも押入の戸は明けて、
「――今いるんですの?」
「まアいいや、無ければ。今書いている原稿の代りに『十銭芸者』を送ろうと思ったんだけど……。その方が労がはぶけていいが、しかし……」今書いている千日前の話が一向に進まないのは時代との感覚のズレが気になっているからだとすれば、それ以上にズレている筈の古い原稿を労をはぶいて送るのも如何(いかが)なものだと、私はボソボソ口の中で呟いた。
「今書いてらっしゃるのは……?」
「千日前の大阪劇場の裏の溝の中で殺されていた娘の話だ。レヴュに憧れてね。殺されて四日間も溝の中で転がっていたんだが、それと知らぬレヴュガールがその溝の上を通って楽屋入りをしていたんだ。娘にとっては本望……」
「また殺人事件ですか」呆れていた。
「またとは何だ。あ、そうか、『十銭芸者』も終りに殺されたね」
「いつか阿部定も書きたいとおっしゃったでしょう。グロチックね」
 私の小説はグロテスクでエロチックだから、合わせてグロチックだと、家人は不潔がっていた。
「ああ、今も書きたいよ。題はまず『妖婦』かな。こりゃ一世一代の傑作になるよ」
 家人は噴きだしながら降りて行った。私はそれをもっけの倖いに思った。なぜ阿部定を書きたいのかと訊かれると、返答に困ったかも知れないのだ。所詮はグロチック好みの戯作者気質だと言えば言えるものの、しかしただそれだけではなかった。が、その理由は家人には言えない。
 阿部定――東京尾久町の待合「まさき」で情夫の石田吉蔵を殺害して、その肉体の一部を斬り取って逃亡したという稀代の妖婦の情痴事件が世をさわがせたのは、たしか昭和十一年五月であったが、丁度その頃私はカフェ美人座の照井静子という女に、二十四歳の年少多感の胸を焦がしていた。
 美人座は戎橋の北東詰を宗右衛門町へ折れた掛りにあり、道頓堀の太左衛門橋の南西詰にある赤玉と並んで、その頃大阪の二大カフェであった。赤玉が屋上にムーラン・ルージュをつけて道頓堀の夜空を赤く青く染めると、美人座では二階の窓に拡声機をつけて、「道頓堀行進曲」「僕の青春(はる)」「東京ラプソディ」などの蓮ッ葉なメロディを戎橋を往き来する人々の耳へひっきりなしに送っていた。拡声機から流れる音は警察から注意が出るほど気狂い染みた大きさで、通行人の耳を聾させてまで美人座を宣伝しようという悪どいやり方であった。最初私が美人座へ行ったのは、その頃私の寄宿していた親戚の家がネオンサインの工事屋で、たまたま美人座の工事を引受けた時、クリスマスの会員券を売付けられ、それを貰ったからであるが、戎橋の停留所で市電を降り、戎橋筋を北へ丸万の前まで来ると、はや気が狂ったような「道頓堀行進曲」のメロディが聴えて来た。美人座の拡声機だとわかると、私は急に辟易してよほど引き返そうと思ったが、同行者があったのでそれもならず、赤い首を垂れて戎橋を渡ると、思い切って美人座の入口をくぐった。
 その時の本番(ほんばん)(などといやらしい言葉だが)が静子で、紫地に太い銀糸が縦に一本はいったお召を着たすらりとした長身で、すっとテーブルへ寄って来た時、私はおやと思った。細面だが額は広く、鼻筋は通り、笑うと薄い唇の両端が窪み、耳の肉は透きとおるように薄かった。睫毛の長い眼は青味勝ちに澄んで底光り、無口な女であった。
 高等学校の万年三年生の私は、一眼見て静子を純潔で知的な女だと思い込み、ランボオの詩集やニイチェの「ツアラトウストラ」などを彼女に持って行くという歯の浮くような通いかたをした挙句、静子に誘われてある夜嵐山の旅館に泊った。寝ることになり、私はわざとらしく背中を向けて固くなっていたが、一つにはそれが二人にふさわしいと思ったのだ。それほど静子は神聖な女に見えていたのである。そして暫くじっとしていると、
「どうしたの」白い手が伸びて首に巻きつき、いきなり耳に接吻された。
 あとは無我夢中で、一種特別な体臭、濡れたような触感、しびれるような体温、身もだえて転々する奔放な肢体、気の遠くなるような律動。――女というものはいやいや男のされるがままになっているものだと思い込んでいた私は、愚か者であった。日頃慎ましくしていても、こんな場合の女はがらりと変ってしまうものかと、間の抜けた観察を下しながら、しかし私は身も世もあらぬ気持で、
「結婚しようね、結婚しようね」と浅ましい声を出していた。
 すると静子は涙を流して、
「駄目よ、そんなこと言っちゃ。あたし結婚出来る体じゃないわ」
 そして、自分は神戸でダンサーをしていたときに尼崎の不良青年と関係が出来て、それが今まで続いているし、その後京都の宮川町でダンス芸者をしていた頃は、北野の博奕打の親分を旦那に持ったことがあり、またその時分抱主や遣手(やりて)への義理で、日活の俳優を内緒の客にしたこともあると、意外な話を打ち明けたが、しかしその俳優の名を三人まで挙げている内に、もう静子の顔は女給が活動写真の噂をしている時の軽薄な調子になっていた。
「――あのスター、写真で見るとスマートだけど、実物は割にチビで色が黒いし、絶倫よ」
 その言葉はさすがに皆まで聴かず、私はいきなり静子の胸を突き飛ばしたが、すぐまた半泣きの昂奮した顔で抱き緊め、そして厠に立った時、私はひきつったような自分の顔を鏡に覗いて、平気だ、平気だ、なんだあんな女と呟きながら、遠い保津川の川音を聴いていた。
 女の過去を嫉妬するくらい莫迦げた者はまたとない。が、私はその莫迦者になってしまったのである。しかし莫迦は莫迦なりに、私は静子の魅力に惹きずられながら、しみったれた青春を浪費していた。その後「十銭芸者」の原稿で、主人公の淪落する女に、その女の魅力に惹きずられながら、一生を棒に振る男を配したのも、少しはこの時の経験が与っているのだろうか。けれど、私はその男ほどにはひたむきな生き方は出来なかった。彼は生涯女の後を追い続けたが、私は静子がやがて某拳闘選手と二人で満州に走った時、満州は遠すぎると思った。追いもせず大阪に残った私は、いつか静子が角力取りと拳闘家だけはまだ知らないと言っていたのを思い出して、何もかも阿呆らしくなってしまい、もはや未練もなかったが、しかしさすがに嫉妬は残った。女の生理の脆さが悲しかった。
 嫉妬は閨房の行為に対する私の考えを一変させた。日常茶飯事の欠伸まじりに倦怠期の夫婦が行う行為と考えてみたり、娼家の一室で金銭に換算される一種の労働行為と考えてみたりしたが、なお割り切れぬものが残った。円い玉子も切りようで四角いとはいうものの、やはり切れ端が残るのである。欠伸をまじえても金銭に換算しても、やはり女の生理の秘密はその都度新鮮な驚きであった。私は深刻憂鬱な日々を送った。
 阿部定の事件が起ったのは、丁度そんな時だ。妖艶な彼女が品川の旅館で逮捕された時、号外が出て、ニュースカメラマンが出動した。いわば一代の人気女であったが、彼女はこの人気を閨房の秘密をさらけ出すことによって獲得した。さらけ出された閨房は彼女の哀れさの極まりであったが、同時に喜劇であった。少くとも人々は笑った。戯画を見るように笑った。私は笑えなかったが、日本の春画がつねにユーモラスな筆致で描かれている理由を納得したと思った。
「リアリズムの極致なユーモアだよ」とその当時私は友人の顔を見るたび言っていたが、無論お定の事件からこんな文学論を引き出すのは、脱線であったろう。
 が、とにかく私は笑えばいいと思った。女の生理の悲しさについて深刻に悩むことなぞありゃしない、俺を驚かせた照井静子の奔放な性生活なぞこの女に較べれば、長襦袢の前のしみったれた安パジャマに過ぎないぞ。そう思うことによって、私は静子の肉体への嫉妬から血路を開こうとした。お定を描(か)こうと思った。
 二十四歳の私がお定を描(か)きたいと言うのを聴いて、友人は変な顔をした。
「そりゃよした方がいい。あんまりひどすぎる。高橋お伝ならまだしも……」と真面目に忠告してくれる友人もあった。
 しかし、私は阿部定の公判記録の写しをひそかに探していた。物好きな弁護士が写して相当流布していると聴いたからである。が、幸か不幸か公判記録の持主にめぐり会うことは出来なかった。そして空しく七年が過ぎて殆ど諦めかけていたある日、遂にそれを手に入れることが出来た。雁次郎横丁の天辰の主人がたまたま持っていたのである。

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