六
豹一とお駒の散歩は、赤井に言わせると、飯事に過ぎなかった。つまり豹一は臆病なのだと、簡単に赤井は判断を下した。そんな赤井の肚がわかれば、豹一も改めてなにかの手段を取ったところかも知れぬが、それにしても豹一は余りに恋愛を知らな過ぎた。お駒の方はまだしも、私は一人娘でこの人も一人息子やわ、とこんなことを漠然と考えていた。ところが豹一は真似るべき恋愛のモデルを知らないのである。知っていれば、見栄坊の彼のことだから、そのモデルに従って颯爽と行動することは面白いと思ったかも知れない。それもしかし、彼の記憶の中に根強くはびこっている或る種の嫌悪は、彼が足を踏み外して取乱すことだけは食い止めたに違いないが。つまり彼は流行外れの男だったのである。どんな愚劣な人間でも大した情熱もなしに苦もなくやり遂げて見せることが、彼には出来なかったのだ。だから愛情にかられるということが必要であった。ところが彼は愛情の前で奇妙な困惑を感ずる男だった。人に愛された経験がないのである。自分は人に愛される覚えはないと思い込んでいるのである。 豹一は何のために散歩しているのかわからなかった。元来彼は何ごとにつけても、自尊心の満足ということ以外には意味をつけることは出来ず、お駒との散歩もむろんそこから出たものだったが、たいした効果はなかったのである。一緒に歩いているところを誰かに見て貰えば、それで自尊心が満足されると思っていたところ、見られたために却って自尊心が傷ついてしまった。 ある日、植物園を散歩していると、北園町から自転車で通学している桑部という同じクラスの者に見つけられた。豹一は瞬間緊張して、桑部の眼の色の中に効果を計算しようとした。ところが桑部は自転車の上から、ちらっとお駒と豹一を見並べて、にやりと薄笑いを泛べて通り過ぎてしまった。少しも羨望らしい表情はなかった。桑部は自転車に乗っていたから、案外軽い気持で、二人の顔が見られたのである。呼鈴を鳴らして走って行った桑部のうしろ姿を見て、豹一は桑部はたしかに俺を嘲笑したと思った。 (お駒の顔を見て、なんだあんな女という眼をしやがった!) 豹一はお駒の横顔をじろりと見た。そんな瞬間どんな女でも器量が下って見えるのである。お駒は美しい方だったが、鎰屋の二階で三高生にじろじろ見られている時ほどの美しさは、いま豹一には見えなかった。それにエプロンを外すと、お太鼓の帯も妙にぺったりして、模様の金魚もなにか貧弱だ。かんかんと照っている陽が鼻の横の白粉を脂にして浮かせていた。おまけにじっと豹一に横顔を瞶められたので、嬉しさの余り醜いまでにどぎまぎして赧くなっていた。豹一はお駒を醜いと思い込んでしまった。応援団員たちが熱中しているという肝腎のことは咄嗟に泛ばなかった。桑部の視線ばかりが気になっていたのである。それに彼は、はじめて赤井と鎰屋へ行った晩の、お駒の表情や仕草に良い印象をうけていなかったのだ。 (こんな醜い女と歩いているのが、どうやら俺らしいではないか!) そう思うと、豹一は一ぺんにお駒と歩くのがいやになった。しかし、そういう散歩はずるずると夏休み前まで続いた。案外気の弱い男だったから、むげにお駒をしりぞけることが出来なかったのである。 二学期が来て、高等学校の生徒がそろそろ鎰屋へ顔を見せる頃になっても、豹一の姿だけが現れないとさすがに分ると、お駒はぽかんとしてしまった。自分の顔がだんだん醜い表情を取り出したので、あわてて化粧をしたりした。 (男というものは二月も会わないでいると、もうそのひとを忘れてしまうのだろうか?)こんなことを慰めみたいに考えた。が、豹一のことはなぜか恨む気持になれなかった。(あの人は前途ある高等学校の学生さんだもの、私らを相手にしないのは当り前だ) 妙なところで、豹一は三高であることが役立ったのである。豹一は二ヵ月の休暇を利用して、やっとお駒と離れてしまったということに、少し自責めいたものを感じていた。お駒を自尊心のだしに使ったということが、済まない気がしていた。豹一はただ、 (俺の様にあっさりと女と別れられる奴はいないだろう。皆んな未練たらしくめそめそしてやがる!)と周囲を見廻してみて、やっと心を慰めた。 例えば、赤井は此の半年間、一人の女に通い続けているではないか。そのため赤井は寮費を滞納して、寄宿舎を追い出され、鹿ヶ谷の下宿へ移ったが、下宿料が後払いだったのに油断して、家から送って来た金を全部その女に注ぎ込んでしまった。月末になって困っているのを見かねて、野崎が自分の授業料を滞納させて立て替えてやった。ところが野崎はそのことを機縁として大阪からの通学を止めて、赤井と同じ下宿に移った。おまけに気の良い野崎は赤井の誘いを断り切れず、ある夜赤井と一緒に宮川町で泊ってしまった。 「これが青春なんだ。汚いところに美しいものを見つけるのが本当の青春なんだ」赤井は良い加減な青春説を振りまわすと、野崎は納得したのかしないのか、気の弱そうな声で、 「うん、そや、青春やな」と黒い顔でうなずくのだった。赤井のむきになって喋っている言葉の意味がわからないのを、赤井に済まなく思っているらしかった。 野崎は赤井や豹一と一緒に四条通へ出ると、もう宮川町へ行かなければならぬと思い込んでいるらしかった。宮川町が見える「八尾政」へビールをのみにはいったりすると、もうそれは決定的なものになったという顔をするのである。そしてそのための資金を如何にして作るべきかをしきりに考えるのである。京都にある二軒の親戚からはもうこれ以上借りられないぐらい借金してしまった。質に置くものもない。そんな結論に到達すると、彼は赤井の青春のために済まなくなって来る。そしてまた、そのような青春に背中を向けて今夜も一人で帰って行くだろう豹一に対しても、何か済まない気がするのだ。「八尾政」を出ると、はじめて野崎はおずおずと口を切るのだった。 「赤井、金なんとかしようか?」 「うん、そうだな。しかし、べつに今夜は――」そう赤井が言うと、野崎はなにがなんだか分らなくなって来るのだ。赤井の青春説を改めて考え直すのだ。 「君さえ構へんかったら、なんとかするぜ」 「当あるのか?」 そう言われると、野崎ははじめて釈然として来て、嬉しそうな顔をするのだ。 「あるぜ」 「そうか。そんなら僕どこで待っていようか?」 「ヴィクターで待っててくれ」野崎はなにか責任の重さを痛感したような顔で、夜の町を金策に奔走するのだった。 ある日、野崎は突然行方不明になった。その前の晩野崎と赤井と一緒に宮川町で泊ったのだが、金無しで泊ったので、野崎は赤井を人質にして金策に出掛けた。が、何時間経っても赤井のところへ帰って来なかった。そこの家の女中が学校へ豹一を訪ねて来て、金をもって帰り、それでやっと赤井は人質から解放されたが、野崎はそれから三日も下宿へ帰って来なかった。二人で探して見たが、見当がつかなかった。三日目の朝、学校へ行くと、野崎がしょんぼり教室に坐っていた。授業が始まる前だったので、直ぐ呼び出して、近衛通の喫茶店へはいり、事情を訊いて見ると、こうだった。 赤井を人質に残して、出たものの、野崎には金策の当がなかった。三軒ある親戚も一方で借りた金を一方へ返し、そこでまた借りた金で一方へ返ししていたから、随分借金が嵩んでいた。五円返したその場で十円借りるというつもりのヤリ口も、その五円が手にはいらぬ限り不可能だった。下宿で借りるということも考えられたが、それも下宿代が二人分滞っている上に、まだいくらか現金を借りていたから、到底実行出来そうもなかった。おまけに昨夜外泊した顔をぬけぬけと出して借金も出来なかった。豹一なら持っているかも知れないと思ったが、行く前の顔はともかく、宮川町からの帰りの顔をどうして会わされようか。眼が充血し、黒い皮膚がいくらか蒼ざめて、ねっとりと脂の浮いている顔を、豹一の美しい顔の前へ出すのは恥じられた。質草もなかった。大阪まで京阪で帰って、家で貰って直ぐ引きかえして来ようかと思ったが、材木屋をしている父がこの頃糖尿病で臥込んでいることを想い出すと帰れなかった。ひょっとして父の痩せた顔を見て、いきなり日頃の行状を告白したくなったり、また母親から貰って便所で泣いたりしていると帰りが遅くなるやろと思った。当もなく京極を歩いて、誰か知った顔に会えへんやろかと眼をきょろつかせた。この前一銭の金を借りるために、京極を空しく三往復したことを想い出したりした。その時十四銭もっていたのだが、腹は空っているし、珈琲ものみたかった。結局「スター」の喫茶店で十五銭のホットケーキを食べれば、珈琲がついているから、一挙両得だと思ったのであるが、それには一銭足りない、誰か知った奴に会わないかと歩きまわったのである。「スター」の前を六度通ったが、そのたびに、陳列窓のなかにあるホットケーキの見本が眼にちらついてならなかった。三条の「リプトン」で十銭の珈琲を飲むか、うどんをたべるかどっちかにしようと自分に言い聴かせたが、どうにもホットケーキに未練が残った。ふわっと温いホットケーキの一切が口にはいる時のあの感触が唾気を催すほど、想い出されるのだ。蜜のついている奴や、バタのついている奴や、いろいろ口に入れたあとで、にがい珈琲をのんだら、どない良えやろかと、もう我慢出来なかった。顔を見知らぬ三高生が一人擦れ違ったので、済まんけど、一銭貸してくれへんかと頼むと、妙な顔をして、無いぞオと断られた。わいはなんでこないに金が無いのやろ、泣いてこましたろかと、半分泣きかけていたのであった。――会いたいときはなかなか知った顔に会わんもんやなと、その時のことを想い出していると、急にホットケーキが食べたくなった。京極の真中で、財布をあけて勘定してみたら三十銭あった。「スター」へはいってホットケーキを食べた。そこを出て、京極通を三条へ出て、河原町通を四条の方へ引きかえした。四条河原町の手前にある小路を左へ折れて、「ヴィクター」喫茶店へはいった。薄暗いいちばん奥のボックスに坐って、そこの八重ちゃんと呼ぶ女の顔をなんとなく見ていた。八重ちゃんはいつもエプロンの袖から白い腕をにゅっと出して、それが生々しく魅力があった。三人いる女のなかで、彼女がいちばん目立っていそいそと立ち働いているのは、つまりそれだけ綺麗だと自覚している証拠なんだと、赤井がいつか言っていたのを想い出した拍子に、赤井の痩せた、線の細い顔が泛んだ。早く金を持って行ってやらぬと、赤井のことやから、余計勘定が嵩むようなことになるやろと、丁度鳴り出したベエートーヴェンの第五交響楽を深刻な顔で聴いた。なにか気持が落ち着かなかったが、しかしそこを出ても金策の当はないと思うと、半分やけみたいな気持で、交響楽が全部済んでしまうまで、じっと坐っていた。出ると、もう財布の中には一銭もなかった。長崎屋の前を通ると、にわかにはいってカステラを食べたくなった。番茶を貰って、日当りの良い窓側で啜りながら、四条通をぼんやりながめていたら、良いやろなと思った。そのために要る十二銭の金が無いことが、嘘みたいに悲しく、腹立たしかった。再び京極を抜け、寺町通の古本屋を軒並み覗いて廻った。「京屋」という古本屋で、赤井が欲しがっていたコクトウの「雄とアルルカン」を見つけ、記憶えて置こうと、値段など訊いた。いまここに十五円の金があれば、その本を赤井のところへ持って行ってやり、そして、一緒に「ヴィクター」へ行ってその本を見ながら、赤井の音楽論が聴かれるのやがと思った。御所の芝生へごろりと寝転んで改めて金をつくる方法を思案した。が、いつかうとうとと居眠りをした。わいはいま寝てる。昨夜の寝不足がたたって、えらい疲れて歯軋りして寝てる、そんなことを夢うつつに意識しながら、一時間ばかり眼をつむったり、人の跫音で眼を覚したりしていたが、いきなりこんな呑気なことをしてられへんと欠伸をして、立ち上った。芝生の露が紺ヘルのズボンを透して、べたっと尻にへばりつき、気持がわるかった。尻をぺたぺた敲きながら、御所を出ると、足は自然に学校の方へ向いた。丸太町の電車通りに添うて熊野神社まで来ると、大学の時計台が見えた。近衛町まで来ると、もう時計の文字がはっきり見え、既に午後一時過ぎだった。直き戻って来てやると赤井に言って来たのだが、もう三時間も経っていた。身を切られるような気がした。近衛通から吉田銀座へ折れて錦林通へ出る細いごたごたした小路へはいって行った。そこに馴染の質屋があった。古着屋のような構えで、入口の陳列窓にいつか入質て流した靴が陳列されていた。野崎はん、今日は何入質はるんどす?言われて考えてみたが、なかった。が、結局咄嗟に脱いだ毛糸のシャツと、帽子と万年筆と銀のメタルとで二円五十銭貸してくれた。思い掛けず金がはいったのですっかり嬉しくなり、近衛通から電車で四条河原町まで行き、長崎屋の二階へ上って、カステラを食べた。なお、紅茶を飲んだ、祇園石段下で電車を乗りかえる時に買ったチェリーの箱が空になるまで、ぽかんとして坐っていた。午後二時半になった。京極で活動を見た。出ると、午後五時だった。もうあたりは黄昏の色だった。赤井は首長くして待ってるやろな、怒っとれへんやろかと、ふとそのことを思い出すと、泣き出したくなった。が、お前ももう二十歳やないかと、固くいましめて、涙だけは流さなかった。そして、もう今となっては金を持って行っても手遅れや、赤井に会わす顔もあらへん、金をこしらえても仕様があらへんと、こんな気楽なことをしょんぼり考えて、僅に心を慰めた。しかし何かに追い立てられるような気持だけは、重くるしくいつまでも去らなかった。浮かぬ顔をして、夜の町を逍遙い歩いた。まさか鹿ヶ谷の下宿へ寝れまいと思ったのである。赤井を人質に残して置いて、自分ひとりだけ呑気に下宿へ帰って寝ていられようか。喫茶店へ二回、うどん屋へ二回はいり、そこら辺当もなく、逍遙い歩いている内にだんだん夜が更けて来た。人通りが少くなり、心細くなった。七条内浜まで暗い道をとぼとぼ歩いて行って、木賃宿の割部屋へ泊った。これが赤井の言うデカダンスやと思ってみたり、もうわいは救いようのないほど堕落したと思ってみたり、赤井の顔を想い泛べてみたり、なかなか寝つかれなかった。文字通り枕を濡らす想いで夜が明けた。そして木賃宿を出ると、また一日中野良犬のように町を歩きまわっていた。放浪者を気取っていたが、気取るまでもなく、妙に薄汚く浮浪者じみて来たと思った。相かわらず、ぞおっとする想いで赤井の顔が泛んで来た。ひょっとしたら、赤井は無銭遊興で拘引されているのと違うやろかと思うと、もうへとへとになるまで歩きまわるのが義務のようだった。おかげで、京都の町の地理を随分覚え込んだ。薄汚い路地裏で、びっくりするほど色の白い綺麗な女を見て、ああえらい良えもんを見た、これが今日一日のわいの幸福やと呟いたりした。夜が更けると、また木賃宿に帰った。その夜はぐっすり眠れた。そして夜があけると、また歩きまわっていたのである。そして、三日経ったが、金が一銭も無くなると、死にたいほどの気持になり、木賃宿を出た足でふらふらと学校へ来て、授業が始まる一時間前から、ひとりしょんぼり教室に坐っていたのだった。…… そんな詳しいことは分らなかったが、野崎が口下手に問われるまま返事した言葉から想像して、たぶんそんなことだろうと、見当がつくと赤井はもう言うべき言葉を知らなかった。心配しながら、且つぶりぶり怒りながら野崎を探し廻っていたことが阿呆らしく想い出された。 「君の放浪は実に君らしい青春だよ」と赤井は辛うじて青春説を口にしたが、しかし、肚の中では、 (つまりこいつは忘れっぽい、頼り無い男なんだ)と妙に諦めていた。 だが、豹一は何か底知れぬ野崎の魅力に触れた想いで、にわかに友情が温って来た。 (俺はしょっちゅう自尊心の坐りどころを探して、苛立っているが、野崎は珈琲一杯の中に胡座をかいてしまうことが出来る。何という違いだ! つまり俺の方がずっと浅ましい存在なんだ) そう思うようになったのは、豹一としてはかなりの進歩だった。豹一は短距離選手のゴール前の醜悪な表情を自分の生き方と比較してみた。(実に同じく醜い緊張だ!) 彼はもう首席になる決心を断念した。ところが、実のところ、彼は今のままでは進級も危いような状態だったのである。
七
校門をはいって直ぐ右手にある賢徳館という古い建物のなかで、及落決定の教授会議がひらかれた。三月の初めで、京都では未だ厳しい寒さだった。ストーヴをたいてもガランとした部屋のなかはなかなか暖まらず、誰かが小用に立つたびに、身を切るような比叡おろしがさっと部屋の中を走った。老年の教授達はズボンに手を突っ込んだまま、せわしく足踏みしていた。例年より冷え方がひどく、ことしは明治何年以来の寒さだと言うことだった。どうやらストーヴに故障があるらしかった。そんな寒い部屋のなかで、殆んど朝から夕方まで坐りずめで、教授も容易な辛抱ではなかった。そのせいか、会議は実にあっけなく早いスピードで進行して行った。毎年、一人の生徒の及落を決めるために、まる半日潰れてしまうようなことがあった。が、ことしは一人の生徒に十分も手間どるようなことはなかった。いちいちその生徒の一生の運命まで考えていたら、きりの無いところである。毎年懐疑的な教授も今日は点数という極めて合理的な決定法に絶対の信用を置いた。 豹一、赤井、野崎の三人の及落決定も十分とは掛らなかった。三人一束に審議されて、簡単であった。欠席日数が三人とも規定を超過していると聴いて、さっさと小用に立った教授もあるくらいだった。おまけに、品行もわるく、成績不良だった。ことに、独逸語の成績がひどく悪かった。 「どうですな、Hさん」誰かが独逸語のH教授にそう訊いた。H教授が、「もう一年僕の講義を聴かしますかな」と言えば、もうそれきりなのである。 「いやあ、僕には意見がありませんよ。及落どちらでも結構ですな」H教授はそう言ってにやりと微笑った。 「三人とも落第ですな」 「ええ、三人とも――」H教授は嬉しそうにうなずいた。なにかしら満ち足りた気持だった。H教授は昨夜毛利豹一が自分を訪問して来たことをちらと想い出していたのである。 書斎に通すなり、 「君、用件は何だね?」 「はあ」豹一はさすがにもじもじしていた。その赧くなっている顔をH教授はちょっと可愛いと思った。独逸に留学していた時、こんな顔をした中学生がビールの飲み競べをやっていた。こいつは余り飲めそうにもない。姉の結婚式で二、三杯盞をなめて、ふらふらになって泣き出す手合だろう。 「僕は朝から算盤を手から離したことがないんで。点数の勘定で忙しいんだよ。用件を早く言ってくれ給え」 「はあ、その点数のことなんですが」 「点数のことは致し方ないよ、どうにもならないよ」 「なりませんか? そうですか」豹一は思わず立ち上りそうになった。人に頭を下げるのがいやなのである。が、さすがに、これは思い止った。実は、朝から赤井、野崎らと手わけして悪い点を取りそうな教授を訪問しているのである。赤井は日頃H教授に睨まれているし、野崎はひどく成績が悪そうだし、三人のなかでは比較的成績のましだと思われる豹一がH教授訪問の役に当ったのである。その役を果さぬうちはやはり帰れなかった。 「実は赤井と野崎のことなんですが、先生の独逸語の成績がひどく悪いらしいのです。――二学期はわりに良く出来たんですが、一学期の点が悪いんです。他の科目は注意点を免れましたが、先生の点だけが、――独逸語で落第しそうなんです。なんとか及第点にしてやっていただけないでしょうか」 考えていた言葉をやっとの想いで言って、H教授の顔を見上ると、H教授は薄気味わるく笑っていた。二学期の成績が良かったという豹一の言葉がおかしかったのである。二、三日前答案を採点していた時、H教授は三人の答案が一字一句違わないことを発見して、あきれてしまった。赤井と野崎が豹一の答案を写したに違いないと思った。三人の中では豹一がややましに出来るのだった。H教授は先ず豹一の点を零点にした。他の二人は一学期の点をそのままつけた。すると三人とも二学期を平均して落第点になった。豹一を零にしたのは、もし及落会議で問題になったら助け舟を出してやるつもりでいたからである。 H教授はくつくつとこみ上げて来るのを我慢しながら、 「赤井と野崎の点をあげてくれというわけだね?」 「はあ」 「君はどうなんだ?」 「僕は……」大丈夫だというその顔がH教授にたまらなくおかしかった。たまりかねて、下を向き、膝の上の成績を仔細に見る真似をして、 「ところが、君の方の点がわるい」わざと渋い声で言うと、 「えッ?」案の定驚いた顔をした。 「赤井は三十八点、野崎は三十七点、君は三十六点だ。君がいちばん悪い」 そう言ってやると、すごすごと帰って行ったそのことを、H教授は想い出したのである。手土産に三人の名前がはいっているのもおかしかった。H教授は三人の仲の良さにちょっと微笑ましいものを感じた。及第させるならば、三人とも及第させてやりたい、一人だけ欠けると可哀相だという気持だった。豹一が自分の点で落第しそうだったら助け舟を出して他の二人と一緒に及第させてやるか、それとも三人を落第させてやるか、どちらかだと思っていた。が、欠席日数超過で三人とも落第と決ったので、なにか満ち足りた気持がしたのである。 「毛利は出来る科目もあるが、彼は秀英塾だね」と誰かが言った。秀英塾の生徒は皆秀才だということになっていた。 「余っぽど、怠けたのだね、毛利は」誰かが答えた。 「すると、三人とも落第――?」 「異議なし」 秀英塾では落第すると給費を中止するという規定を教授達はみな知っていた。が、誰も想い出さなかった。そうして三人の落第は簡単に決定した。 教員室の壁に小さく貼出された紙を見て、落第だとわかると三人は赤井の発言で早速受持の教授を訪問することにした。下鴨にある教授の家の玄関で待っていると、教授が和服のまま出て来て、突っ立ったまま、 「どうもお気の毒だが、決ってしまったものは致方ない。僕も頑張るだけは頑張ってみたのだが、欠席日数があれではね」その癖その教授は彼等の落第を主張した一人だった。受持の教授が自分のクラスの生徒の落第を主張するのはおかしいと、眉をひそめた教授もあったくらいである。 玄関での立ち話では、三人とも頼むべきこともろくに頼めなかった。阿呆らしい気持で早々に辞すと、足は自然に京極の方を向いた。途々、赤井はひとりで興奮していた。豹一はわりに平静な気持だった。落第と決れば秀英塾から追放されることは免れ得なかった。もう三高生活もこれでおさらばだと、彼ははじめから受持の教授を訪問する気持もなかったのであった。野崎はおかしい程悄気ていた。まるで泣き出さんばかりの顔をしていた。 そんな野崎の気持は赤井や豹一にははっきりわかっていた。今度の落第は野崎に原因していると、言えば言えないこともなかった。野崎は三人の欠席日数をノートにつけていたのである。誰も野崎の計算を信じていた。だから野崎がもうあと三日休めるぞと言ったので、うかうか三日休むことにした。ところが、野崎の計算の間違いだとわかった。丁度その三日間だけ超過してしまったのである。そのほかに未だこんなこともあった。 第一日目の試験が済むと、彼等は例によって京極へ出て、三条通の「リプトン」で翌日の試験の秘策を練った。その日の試験は独逸語で、これは豹一の答案を写して、どうにか落第点を免れたので、紅茶の味はうまかった。レモンの香が冬の日らしい匂いをぷんと漂わせて、彼等の寝不足の眼をうっとりと細めた。が、翌日の試験は歴史である。彼等は誰もノートを持っていなかった。勉強しようにも方法がなかった。歴史の教授は及落会議でも相当辛辣だということを赤井が言い出したので、三人とも憂欝になり、紅茶を三杯ものんだ。ところが野崎が同じ中学校出身の先輩に去年のノートを借りる手があると、良い智慧を出したので、もう歴史の試験は半分終ったのも同然だと、彼等は松竹座で映画を見た。松竹座を出ると、野崎はノートを借りに行くことになった。未だそこら辺をぶらぶらしていることに未練のある赤井は時間を打ち合せて、野崎と「ヴィクター」で落ち合い、一緒に下宿へ帰ることにし、豹一は一足先に帰り、良い頃を見計って、赤井の下宿で火をおこしながら待つ。そう決めて別れた。 豹一は約束の時間より早く赤井の下宿へ出掛けて、しきりに火鉢へ新聞紙をくべていたが、炭は少しも赤くならなかった。部屋の中がさむざむとして、煙が恥しいぐらい立ちこめた。下宿の人に言って、火種を貰うなど、出来ぬ質だった。新聞紙もくべ尽してしまい、何という俺は不器用な男だと、げっそりした。ふと、煙草の吸口がよいと思い、くべてみると、蝋があるのでよく燃えた。そこをすかさず、しきりに火鉢の中へ顔を突っ込んで吹いていると、漸くおこって来た。ちょっと一時間ほど掛ったのである。が、二人はなかなか帰って来なかった。浮かぬ顔をして火鉢に凭れながら無気力に待っていると、浅ましい気持になった。 二時間ほど経ってやっと足音がしたかと思うと、赤井は真赤な顔をして帰って来た。 「君ひとりか?」と訊くと、赤井は酒くさい息をはきながら、「野崎の奴いくら待っても来ないんだ。一時間以上も待たされた。いつもの伝だと思ったから、諦めて京極で酒を飲んで帰って来たんだ」 試験中でなにか殺気立っているだけに、赤井は常になくぶりぶり怒っていた。ノートが無いから、勉強の仕様もなく、二人で無駄話をしていた。だんだん夜が更けて来たが、野崎が帰って来ないのでもう明日の試験は諦めようと、興奮しながら言い合っているところへ、野崎がノートを持ってしょんぼり帰って来た。もう十時過ぎていた。 「なんや、赤井、君帰ってたんか?」妙な顔をしてそう言う野崎に二人はあきれてしまった。 訊いてみると、案の定、野崎はうっかりして約束の時間を間違えたのだった。赤井が出たあとへはいって行って、赤井はえらい遅いなと思いながら、一時間半も待っていたとのことである。一足先に帰るということも考えたが、赤井があとから来ては困ると思ったのと、一つには寒い夜道をひとりで鹿ヶ谷まで帰るのが淋しかったので、いつまでも待っていたのである。 「馬鹿だなあ。僕が来たか来なかったか、八重ちゃんに訊けば分るだろう」 赤井はぷりぷりした。八重ちゃんが自分の来たことを野崎に言わなかったことで、なにか自尊心を傷つけられた気持もあった。が、実は野崎は殆んど毎日のように赤井と通いながら、八重ちゃんにその存在を認めて貰えぬほど、かすんでいたのである。 いよいよノートを拡げたが、野崎のために四時間も無駄にしたかと思うと、阿呆らしくて気乗りがしなかった。 「野崎、そう悄気るなよ」と、豹一が慰めたが、野崎は虚ろな表情で、しきりに責任感に悩まされていた。そんな野崎の気持がほかの二人にも乗り移って、結局わざわざ疏水伝いに銀閣寺の停留所附近まで出掛けて、珈琲をのんだりし、ろくに勉強も出来なかった。豹一は諦めて、先に秀英塾へ帰ってしまった。野崎と赤井は出町まで足をのばして、徹夜に備えるのだと珈琲を何杯ものんだ。下宿へ帰っても、無駄話ばかりで、なんのための徹夜かわからぬありさまだった。そのため歴史の試験は散々だった。おまけにそれに気をくさらして、あとの試験も上出来とは言えなかったのである。 だから今度の落第はかえすがえす野崎に原因していると言えば言えたのだ。が、それを自覚してすっかり気をくさらしている野崎を見ると、二人はそれには触れなかった。 京極へ出ると、先ず「リプトン」へはいった。それから「ヴィクター」へはいった。出ると、長崎屋の二階へあがった。豹一はそのたびに、もはやここも見収めかと、さすがにしみじみとなつかしい眼で、部屋の中を見廻した。意味もなく、京極通りを歩きまわり、疲れると、さてこれからどうしようと、町角でぽかんと、突っ立っていたりした。行きつけの店を一廻り廻ってしまうと、すっかり気がぬけたようになって、行先を思案するために突立っている彼等の顔は、どれも間が抜けて、憂欝そうだった。映画館へ行くにしても、どこの演し物も面白くなさそうだと、一つ一つあげてつまらなくこきおろしていた。結局もう一度「ヴィクター」へ行こうと赤井が浅ましく言い出すと、なんとなくそう決って、ぞろぞろと四条河原町の小路をはいって行った。 「一日に二度もちょっと体裁が悪いな」 八重ちゃんに気がある赤井が拘泥って言うと、 「そやな、体裁が悪いな。一日に二度も」野崎は元気のない声で言った。彼は「ヴィクター」で一番醜い、男か女かわからぬような顔をしている女の子に参っていると、日頃否定もしなかった。そう言えば「リプトン」のカウンターにいる化物みたいに脊の高い女の子にも、野崎は「肩入れしてる」らしかった。「ヴィクター」を出ると、だから「リプトン」へもう一度行った。そうして、時間を潰しているうちに、日が暮れた。半時間ほど思案した挙句、京極裏の牛肉屋ですき焼きをした。豹一ははじめて、 「僕はもう三高を止す」と言い、理由を訊かれたので、落第すれば秀英塾では給費を断る規定になっているのだと、説明した。 「もう君達にも会われないな」そう言った拍子に、急に眼の裏が熱くなって来た。結局何の意味もない三高生活だったが、赤井と野崎を知ったことがせめてもだと、さっきからそのことばかり考えていたのだった。 「止めなくても良いと思うがな」と赤井は言って、暫く深刻な顔をして考え込んでいたが、ふと顔をあげて、 「名案があるぞ、共済会へ頼んで家庭教師の口を見つけて貰うんだ。そうして野崎と僕の部屋で三人一緒に下宿したら、下宿代は助かる。ねえ、そうしろ、そうしろ」 「そや、そや。家庭教師がええ。三人一緒に下宿したら面白いやないか」野崎も言った。豹一は嬉しかった。自分の貧乏がこうして話題になっていることも、不思議に、恥しく思えなかった。しかし、三高を止す決心は変らなかった。 豹一の三高を止める決心が容易に翻らないと分ると、赤井と野崎はしんみりと酒をのんだ。そして、酔が廻って来ると、彼等がもうあと三年いるべき学校を、口を極めて罵倒した。もうこれがお別れだと、三人は夜が更けるまで京都の町を歩きまわった。その挙句、赤井と野崎は宮川町へ行くことになり、豹一は南座の横の暗い道を折れて、二人を送って行った。真白く化粧した女がぞろりと派手な着物を着て坐っている家の前で、豹一は二人と別れた。女の眼が無気力な笑いを泛べてじろりとこちらを向いた。豹一は南座の前から電車に乗って秀英塾へ帰った。 豹一はその夜のうちに荷物を纒めて朝運送屋へ頼み、午頃「ヴィクター」で赤井と、野崎の二人と落合った。そして、二人に見送られて、四条大橋から京阪電車に乗って、大阪へ帰った。
第三章
一
豹一が学校を止めたと聞いて、 「やめんでもええのに、しゃけど、お前がやめよう思うんやったら、そないしたらええ」と、お君は依然としてお君だったが、しかし、暫く見ないうちに、お君はめっきりやつれていた。眼のまわりが目立って黝んでいた。 未だ三十六だったが、眼のまわりの皺は四十を越えていた。髪の毛は油気もなく、バサバサと乾いていた。仕立物の賃仕事に追われていたのだと、豹一は見るなり思い掛けず涙が落ちた。昨日までうかうかと高等学校の生徒であったことが、われながら不思議なくらいだった。呑気に赤井や野崎と遊び廻っていたことなど遠い昔のようだった。想い出されもしなかった。想い出せば、母親に済まない気持になるところだった。高等学校を止めたということが極く当然のことだったと、今はその気持がすっかり身についてしまった。 高等学校の学資は秀英塾から出ていたから、もう母親は針仕事の必要もないと豹一は思っていたが、そう言う訳には行かなかったのだ。豹一に小遣を送ってやるためだけではない。豹一が中学校へはいった時に、お君は安二郎から金を借りた。借りただけの額は全部渡してしまった筈だのに、安二郎は、 「わいの計算では未だ三百円残ってる。これでもお前のことやから大分利子をまけたってるねんぜ」そしてお君の貰う仕立物の賃をまきあげるのだった。お君は豹一に送るために貯めている金を隠すのに苦労した。 そんな事情がわかると、豹一は、なんと言う夫婦だ、これでも夫婦といえるかと、もう少しで安二郎と別れてしまうように母親を説き伏せるところだった。母親は不平らしい愚痴一つ言わず、「あてはどうでもよろしおま」と言う顔をしているのが、一層あわれだった。しかし、母親と一緒に飛び出して、食べて行ける当もなかった。豹一は毎朝新聞がはいると、飛びついて就職案内欄を見た。質札を売りに来る客と応待する合間を盗んで、履歴書を書いた。楷書の字が拙かったので、一通書くのに十枚も反古が出来た。十通ばかり書いたが、面会の通知は一通も来なかった。履歴書を返送して来る方は良い方で、たいていは何の返事もなかった。十八歳までの半生が踏みにじられたような情けない気持になった。自尊心を傷つけられたと腹を立てるよりも、自分は就職など出来る人間ではないのだと自信のない気持でしょんぼり気が滅入った。店の間のテーブルに肘をついて、野瀬商会と白ぬきの文字のはいった暖簾を見ながら、欠伸をかみ殺して客を待っていると、そうして高利貸の手代みたいになっていることがいかにも自分に似つかわしいように思われる。それがたまらなくいやだった。返送されて来た履歴書を書き直す元気もなく、手垢のついたまま別のところへ送る時は、さすがに浅ましい気持になった。 ある日、製薬会社が広告文案係を求めているのを見て、広告文案など作れそうにもなかったが、とにかく三つばかり文案を作って履歴書と一緒に送ったところ、一週間ほど経って面会の通知が来た。文案がパスしたと思うと嬉しくて、俺に文才があるのだろうかと、ふと赤井が三高の「嶽水会雑誌」へ小説を投稿して没にされたことを想い出したりした。ひょっとしたら面会の時の口答試問ではねられるかも知れないと心配もするなど、豹一はそわそわと落ち着かなかった。 面会の日、朝早くから起きて朝飯もろくろく食わずに玉造にある製薬会社へ駆けつけてみると、所定の時間には未だ一時間あった。半時間も早く出頭するのは癪だとふと思ったから、門からひきかえして近所の五銭喫茶店へはいって、演芸画報を見たり、新聞の就職案内欄を写したりして時間を潰し、きっちり午前九時に、受付へ出頭して葉書を見せると、可愛い少女の給仕に二階の粗末な応接間へ連れて行かれた。給仕が出て行ったあと、直ぐむやみに髪の毛の長い男がはいって来て、不安そうな眼をしょぼつかせて椅子に腰掛けると、 「あんたも応募でっか」と訊いた。 「はあ」と曖昧に返事していると、 「面会の通知来たんはあんたと僕と二人だけでっか」 豹一が返事しないので、 「ほかにも応接間あるよって、未だほかに待たされとる奴がいまっしゃろな。なんしょ、ここは大けな建物やさかいな。――何人ぐらい採りよるかな」馴々しい口調だった。 「さあ、何人ぐらいでしょうな、五、六人、それとも――。数名採用とありましたね」豹一は思わずそんな返事をしていた。 「いくら呉れまっしゃろな? 六十円、それぐらいは貰わな食ていかれへんがな」 「そうですね。六十円ぐらいでしょうね」豹一はそんな無気力な返事をしている自分が情けなかった。 「ほんま言うたら、六十円でもやって行かれしまへんネん。子供が二人も居よりまんネん。きょう日物が高おまっさかいな」 「二人もね」 「ええ、二人もいよりまんネ。もう直き三人ですわ。さっぱりわやです。しかし、ここの会社アはえらい家族主義や言いまっさかい、まさか社員が食て行かれんようなことはしまへんやろ。その代り、よう働かしよりまっしゃろな」 「はあ、家族主義ですか?」豹一は自分の返事が野崎に似ていると思い、さすがに苦笑した。長髪の男はぺらぺらと喋り続けながら、神経質に膝をふるわせているのだった。不安な気持を誤魔化すためにこんなに喋っているのだなとふと思った。 気の抜けた空虚な表情で、ぽかんと呼出しを待っていたが、誰も部屋へ来なかった。 「えらい待たしよりまんな」 長髪の男がぼやいたので、豹一ははじめて、活気づいた。 (こんなに待たされるというのはお前らしい運命だぞ!) 何に向ってか分らぬそんな敵愾心めいたものが出て来て、眠気が消えてしまった。しかも、未だそれより一時間も待たされたので、豹一はすっかり腹を立ててしまった。呼びに来た少女の給仕が豹一の表情を見てびっくりした程であった。 (こんなに腹を立てていては、口頭試問の成績は悪いに決っている)さすがに自分にもそう言い聴かせるぐらいだった。 「お先に」 長髪の男へそう挨拶して、少女のあとに随いて廊下へ出た。廊下の突き当りの部屋へはいると、七、八人の試験官の眼がいっせいにじろりと来た。 (おおぜい居やがる)ぱっと眼の前が燃えてもう少しでお辞儀をするのを忘れるところだった。周章てて頭を下げ、二、三歩進んだ拍子に椅子に打っ突かってしまった。 (俺らしい失敗だ)と、もう自分にも腹を立てて、どすんと音を立てて腰掛けた。醜いまでに真赤になっていることが意識された。それが情けなくて、むっとした顔を上げた。その顔を見た途端に一人の試験官は「不採用」とメモに印をつけた。 「なぜ和服を着て来たんですか?」豹一の着流し姿を咎めて、一人が訊いた。椅子へ足の爪先を打っ突けたときの痛みが消えていなかったので、豹一は顔をしかめながら、 「洋服が無かったからです」と答え、(着流しはおもしろくなかったかな?)と思った。 「高等学校の制服はあるでしょうね」 「はあ、しかし、もう学生じゃありませんから」 「なぜ退学したのですか?」 「つまらなかったからです」 「赤じゃなかったんですか?」 「いや、落第したんです」 「理由は?」 「怠けたからです」もはや試験官の誰もが豹一の不採用を疑わなかった。広告文の出来が良くても、中学校から三高へはいった秀才でも、小さな会社ならいざしらず、うちのような大会社ではこういう男は困るのだ。しかし試験官よりも前に、もう豹一は不採用を覚悟していた。 「御苦労でした。結果は追って通知しますから」 丁度正午のサイレンが鳴っていた。三時間待たされたわけだと、豹一は思った。ひどく物腰の鄭重な男に見送られて、廊下を歩きながら、豹一はあの長髪の男はたぶん昼食の時間の済むまでもう一時間待たされるだろうと思った。
一週間経つと、不採用の通知が来た。その会社で発売している薬の見本袋が封筒の中にはいっていた。なるほど家族主義だなと思いながら、豹一はそれをごみ箱へ捨ててしまい、また履歴書を書いた。翌日の新聞に、その会社の広告文案募集の広告が出ていた。
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