二
この話を、私は武田さん自身の口からきいた。むろん武田さんの体験談である。武田さんが新進作家時代、大阪を放浪していた頃の話だという。 昭和十五年の五月、私が麹町の武田さんの家をはじめて訪問した時、二階の八畳の部屋の片隅に蒲団を引きっぱなして、枕の上に大きな顎をのせて腹ばいのまま仕事していた武田さんはむっくり起き上って、机のうしろに坐ると、 「いつ大阪から来たの? 藤沢元気……? 大阪はどう? 『カスタニエン』という店知ってる?」 などときいたあと、いきなり、 「――僕が大阪にごろごろしてた時の話だが……」 と、この話をしたのである。 そして、自分からおかしそうに噴きだしてのけ反らんばかりにからだごと顔ごとの笑いを笑ったが、たった一つ眼だけ笑っていなかった。そこだけが鋭く冷たく光っていた。 私もゲラゲラと笑ったが、笑いながら武田さんの眼を見て、これは容易ならん眼だと思った。その眼は稍眇眼であった。斜視がかっていた。だから、じっとこちらを見ているようで、ふとあらぬ方向を凝視している感じであった。こんな眼が現実の底の底まで見透す眼であろうと、私は思った。作家の眼を感じたのだ。 ちょっと受ける感じは、野放図で、ぐうたらみたいだが、繊細な神経が隅々まで行きわたっている。からだで掴んでしまった現実を素早く計算する神経の細かさ――それが眼にあらわれていると思った。 その部屋には、はじめは武田さんと私の二人切りだったが、暫くすると雑誌や新聞の記者がぞくぞくと詰めかけて来て、八畳の部屋が坐る場所もないくらいになった。彼等は居心地が良いのか、あるいは居坐りで原稿を取るつもりか、それとも武田さんの傍で時間をつぶすのがうれしいのか、なかなか帰ろうとせず、しまいには記者同志片隅に集って将棋をしたり、昼寝をしたりしていた。 武田さんはそれらの客にいちいち相手になったり、将棋盤を覗き込んだり、冗談を言ったり、自分からガヤガヤと賑かな雰囲気を作ってはしゃぎながら、新聞小説を書いていたが、原稿用紙の上へ戻るときの眼は、ぞっとするくらい鋭かった。 書き終って、新聞社の使いの者に渡してしまうと武田さんはほっとしたように机の上の時計を弄んでいた。机の上には五六個の時計があった。一つずつ手に取って黙々とネジを巻いているその手つきを見ていると、ふと孤独が感じられた。 一つ風変りな時計があった。側は西洋銀らしく大したものではなかったが、文字盤が青色で白字を浮かしてあり、鹿鳴館時代をふと思わせるような古風な面白さがあった。 「いい時計ですね。拝見」 と、手を伸ばすと、武田さんは、 「おっとおっと……」 これ取られてなるものかと、頓狂な声を出して、その時計を胸に抱くようにした。 「――どうもお眼も早いが、手も早い。千円でも譲らんよ。エヘヘ……」 胸に当てて離さなかった。浴衣の襟がはだけていて、乳房が見えた。いや、たしかに乳房といってもいいくらい、武田さんの胸は肉が盛り上っていた。 そこへ、都新聞の記者が来て、 「満州へ行かれるんですか。旅行日記はぜひ頼みますよ」 「うえへッ!」 武田さんは飛び上った。 「まず、満州へ行く感想といった題で一文いただけませんか」 「誰が満州へ行くんだい?」 「あなたが――。今日のうちの消息欄に出てましたよ」 「どれどれ……」 と、記者の出した新聞を見て、 「――なるほど、出てるね。エヘヘ……。君、こりゃデマだよ」 「えッ? デマですか。誰が飛ばしたんです」 「俺だよ、俺がこの部屋で飛ばしてやったんだよ。この部屋はデマのオンドコだからね。エヘヘ……」 「オンドコ……?」 「温床だよ」 そう言ってキャッキャッと笑っていた。間もなく私は武田さんの書斎を辞した。 そして、四五日たったある夜、私は大阪の難波の近くの夜店で、武田さんの机の上にあった時計とそっくりの時計を見つけた。千円でも譲らないと言ったあの時計だ。 「これはいくらだ?」 買う気もなくきくと、 「二円五十銭にしときましょう」 「たったの……?」 私は立ったまま尻餅ついていた。 早速買った。いそいそとして買ったのである。そして、その時計を小包にして武田さんに送るという思いつきにソワソワしながら、おそくまで夜店をぶらついていた。私は二円五十銭で買ったが、武田さんのことだから二円ぐらいで神田の夜店あたりで買ったのではないかと思うとキャッキャッとうれしかった。五円札を二つに千切って運転手に渡したという話も、もしかしたら武田さんの飛ばそうとしているデマではないかと思うと、一層ゆかいだった。 帰ってまず手紙を書こうと思った。男同志の恋文――言葉はおかしいが、手紙の中で一番たのしいのは、これだ。だから書いていると、つい長くなる。あまり長くなりそうだから、手紙はよして、小包だけにすることにしたがしかし、時計を送る小包というのはどうも作り方がむずかしい。それに、ふと手離すのが惜しくなって、――というのは、私もまた武田さんの驥尾に附してその時計を机の上にのせて置きたくて、到頭送らずじまいになってしまった。 九月の十日過ぎに私はまた上京した。武田さんを訪問すると、留守だった。行方不明だという。上京の目的の半分は武田さんに会うことだった。 雑誌社へきけば判るだろうと思い、文芸春秋社へ行き、オール読物の編輯をしているSという友人を訪ねると、Sはちょうど電話を掛けているところだった。 「もしもし、こちらは文芸春秋のSですが、武田さん……そう、武麟さんの居所知りませんか。え、なに? あなたも探しておられるんですか。困りましたなア」 終りの方は半泣きの声だった。――私は改造社へ行った。改造の編輯者は大日本印刷へ出張校正に行ってみんな留守だった。 改造社を出ると空車が通りかかったので、それに乗って大日本印刷へ行った。四階でエレヴェーターを降りると、エレヴェーターのすぐ前が改造の校正室だった。 はいって行くと、きかぬ先に、 「武田さん来てますよ」 と、Aさんが言った。 「えッ? どこに……」 「向うの部屋に罐詰中です」 教えられた部屋は硝子張りで、校正室から監視の眼が届くようになっていた。 武田さんは鉛の置物のように、どすんと置かれていた。 ドアを押すと、背中で、 「大丈夫だ。逃げやせんよ。書きゃいいんだろう」 しかし振り向いて、私だと判ると、 「――なんだ、君か。いつ来たの?」 「罐詰ですか」 「到頭ひっくくって連れて来やがった。逃げるに逃げられんよ。何しろエレヴェーターがきゃつらの前だからね。――ああ眠い」 欠伸をして、つるりと顔を撫ぜた。昨夜から徹夜をしているらしいことは、皮膚の色で判った。 橙色の罫のはいった半ぺらの原稿用紙には「時代の小説家」という題と名前が書かれているだけで、あとは空白だった。私はその題を見ただけで、反動的ファッショ政治の嵐の中に毅然として立っている小説家の覚悟を書こうとしている評論だなと思った。このような原稿を伏字なしに書くには字句一つの使い方にも細かい神経を要する。武田さんが書き悩んでいるわけもうなずけるのだった。 「僕がおっては邪魔でしょう」 と、出ようとすると、 「いや、居ってくれんと淋しくて困るんだ。なアに書きゃいいんだ」 と、引きとめた。しかし、話はしようとせず、とろんと疲れた眼を放心したように硝子扉の方へ向けていたが、やがて想いがまとまったのか、書きはじめたが、二行ばかり書くと、すぐ消して、紙をまるめてしまった。 そして、新しい紙にへのへのもへのを書きながら、 「書きゃいいんだろう。書きゃ……」 と、ひとり言を言っていた。書き悩んでいるというより、どうしても書きたくないと、駄々をこねているみたいだった。 Aさんがはいって来た。 「どうです。書けましたか」 「書けるもんか。ビールがあれば書けるがね。――たのむ、一本だけ!」 指を一本出して、 「――この通りだ」 手を合わせた。 「だめ、だめ! 一滴でもアルコールがはいったら最後、あなたはへべれけになるまで承知しないんだから折角ひっくくって来たんだから、こっちはあくまで強気で行くよ。その代り、原稿が出来たら、生ビールでござれ、菊正でござれ、御意のままだ。さア、書いた、書いた」 「一本だけ! 絶対に二本とは言わん。咽が乾いて困るんだ。脳味噌まで乾いてやがるんだ。恩に着るよ。たのむ! よし来たッといわんかね」 「だめ!」 「じゃ、十分だけ出してくれ、一寸外の空気を吸って来ると、書けるんだ。ものは相談だが、どうだ。十分! たった十分!」 「だめ! 出したら最後、東西南北行方知れずだからね、あんたは」 「あかんか」 大阪弁になっていた。 「あかん。今夜中に書いて貰わんと、雑誌が出んですからね。あんたの原稿だけなんだ」 「火野はまだだろう?」 「いや、今着きましたよ」 「丹羽君は……?」 「K君がとって来た。百枚ですよ」 「じゃ、僕のは無くてもいけるだろう。来月にのばしちゃえよ」 「だめ! あんたが書くまで、僕は帰らんからね」 「泊り込みか。ざまア見ろ」 Aさんは笑いながら出て行った。 「書きゃいいんだろう、書きゃア」 武田さんはAさんの背中へ毒づいていたが、やがて机の上にうつ伏したかと思うと、鼾をかき出した。 死んだような寝顔だったが、獣のような鼾だった。 ところが、半時間ばかりたつと、武田さんははっと眼を覚して、きょとんとしていたが、やがて何思ったのか、白紙のままの原稿用紙を二十枚ばかり封筒に入れると、 「さア、行こう」 と、起ち上って出て行った。随いて行くと、校正室へはいるなり、 「出来た!」 と、封筒をAさんに突き出して、 「――出来たらいいんだろう。あとは知らねえよ。エヘヘ……」 不気味に笑っていた。 「どうもお骨折りでした」 Aさんはにこにこして、封筒の中から原稿を取り出そうとした。 途端に武田さんは私の手を引っ張って、エレヴェーターに乗った。 白紙の原稿を見たAさんがあっと驚いた時は、エレヴェーターは動いていた。 「あれ、あれッ!」 Aさんの声はすぐ聴えなくなった。 エレヴェーターを降りると、武田さんはさア逃げようと尻をまくって、はしった。そして、どこをどうはしったか、やっとおでん屋を見つけて、暖簾をくぐると、 「ビール! ビール!」 腰を掛ける前から呶鳴っていた。 一本のビールは瞬く間だった。 「うめえ、うめえ、これに限る」 二本目のビールを飲み出した途端、Aさんがのそっとはいって来て、ものも言わず武田さんの傍に坐った。 武田さんはぎょっとしたらしかったが、急にあきらめたように起ち上り、 「勘定!」 袂へ手を突っ込んだが、財布が見つからぬらしい。 「――おかしいね。落したのかな」 そう言いながら、だんだん入口の方へ寄って行ったかと思うと、いきなり逃げ出した。 「あッ! こらッ武麟」 Aさんはあわててあとを追った。 私はぽかんとして、二人のあとを見送っていた。暫く待っていたが、二人は帰って来なかった。 それから二週間ばかりして、改造の十月号を見ると「時代の小説家」という武田さんの文章がちゃんと載っていた。
三
一年たつと、武田さんは南方へ行った。そして間もなく、武田さんがジャワで鰐に食われて死んだという噂をきいた。 まさかと私は思った。武田麟太郎が鰐を食ったという噂なら信じられるが、鰐に食われたとは到底考えられないと思った。 「こりゃもしかしたら、武麟さんが自分で飛ばしたデマじゃないかな」 そう私は友人に言った。 「武麟さんがジャワで飛ばした『武田麟太郎鰐に食われて急逝す』というデマが、大阪まで伝わって来たというのは痛快だね」 雀百までおどりを忘れずだと私は笑った。 とにかく死ぬものかと思った。不死身の武麟さんではないか。 果して、武田さんは元気で帰って来た。マラリヤにも罹らなかったということだった。さもありなんと私は思った。 武田さんのいない文壇は、そこだけがポツンと穴のあいた感じであったが、その穴がやっと埋まったわけだと、私は少しも変らない武田さんを見て喜んだ。四年も外地にいたが、武田さんは少しも報道班員の臭みを身につけていなかった。帰途大阪へ立ち寄って、盛んに冗談口を利いてキャッキャッ笑っている武田さんは、戦争前の武田さんそのままであった。悪童帰省すという感じであった。何か珍妙なデマを飛ばしたくてうずうずしているようだった。 案の定東京へ帰って間もなく、武田麟太郎失明せりという噂が大阪まで伝わって来た。これもデマだろうと、私はおもって、東京から来た人をつかまえてきくと、失明は嘘だが大分眼をやられているという。 「メチルでしょう?」 と、きくと、そうだとその人は笑って、 「相変らず安ウイスキーを飲み廻ってるんですね。眼からヤニが流れ出して来ても、平気でヤニをこすりこすり、飲んでるんですね。あの人だから、もってるんですよ。無茶ですね」 無茶だとは、武田さんも気づいているのであろう。しかし、やめられない。だから「武田麟太郎失明せり」と自虐的なデマを飛ばして、わざとキャッキャッはしゃいでいるのだろうと思った。 「あの人は大丈夫ですよ。メチルでやられるからだじゃない。不死身だ。不死身の麟太郎だ」 私はそう言った。 武田さんはやがて罹災した。避難先は新聞社にきいてもわからなかった。例によって行方をくらましたなという感じだった。 「あの人は大丈夫だ。罹災でへこたれるような人じゃない。不死身だ」 私は再びそう言った。 四月一日の朝刊を見ると、「武田麟太郎氏急逝す」という記事が出ていた。 私はどきんとした。狐につままれた気持だった。真っ暗になった気持の中で、たった一筋、 「あッ、凄いデマを飛ばしたな」 という想いが私を救った。 「――今日は四月馬鹿じゃないか」 そうだ、四月馬鹿だ、こりゃ武田さんの一生一代の大デマだと呟きながら、私はポタポタと涙を流した。 そして、あんなにデマを飛ばしていたこの人は寂しい人だったんだ、寂しがり屋だったんだと、ポソポソ不景気な声で呟いていた。 新聞に出ている武田さんの写真は、しかしきっとして天の一角を睨んでいた。
(「光」昭和二一年五・六月合併号)
●表記について
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