白痴女と魔境へゆく男
襤褸(ぼろ)よりも惨(みじ)め――とは、失敗した探検隊のひき上げをいう言葉だろう。ダネックは、基地の察緬(リーミエン)へ這々(ほうほう)の体でもどってきた。ここは、折竹が三年もいる土地である。西雲南の、東経百度の線と北回帰線のまじわる辺り、そこだけ周囲とかけはなれた動物区をいとなんでいる、いわゆる察緬小地区(リーミエン・サフプロヴィンス)の盆地だ。 折竹は、アメリカ地理学協会の依頼で探検には加わらず、もっぱらここで採集に従っていたのだ。すると、その第三次「天母生上の雲湖(ハーモ・サムバ・チョウ)」探検の犠牲者のなかに、 "Kellett(ケレット)" 全覆式(ケビン)オートジャイロの操縦者でタマス木戸という、彼の腹心ともいう二世の青年がいたのである。折竹が、それに気付いたときの失意のさまといったら、剛毅(ごうき)な彼とはとうてい思えなかったほどだ。木戸は飛行中「天母生上の雲湖(ハーモ・サムバ・チョウ)」の主峰の雲にひき込まれたのだ。 「とにかく、木戸君を酷使した嫌いがあったかもしれん。しかし、それは上空からの偵察で登攀(とうはん)の手がかりを見つけにゃならんし、じつに、飛行回数百二十一という記録だった。ところが、白、黄、青の三外輪はひっきりなしの雪崩(なだれ)だ。ただ紅蓮峰(リム・ボー・チェ)の大氷河だけに口が空いているが、そこは、君も知る大烈風が吹き下している」 その夜――。インドのビルマちかい巨竹の森のここでは、ぷんぷんジャングルの風が腐竹のにおいを送ってくる。豺(ジャッカル)が咆(ほ)え、野豚(メンゴウ)が啼(な)く熱林のなか――。そこに、アメリカ地理学協会が建てた丸太小屋がならんでいて、いまダネックが胸毛をあおぎながら、木戸の最期のさまを折竹に話している。 「しかしだよ、木戸君の犠牲でやっと分かったのは、あの『天母生上の雲湖(ハーモ・サムバ・チョウ)』の主峰の雲の正体だ。あれは、おおきな気流の渦巻(うずまき)なんだ。海には、ノルーウェーの海岸にメールストレームの渦がある。メッシナ海峡にはカリブジスがあるね。しかしそういう、退潮と逆潮とでできる海流の渦のような気流は、残念なことにあの上空にはない。きっと僕は、主峰があるといわれるあの雲の下が、もの凄い大空洞ではないかと思うんだ。サア、陥没地、大梯状(だいていじょう)盆地というかね。それも、上空に渦をおこさせるほど、ものすごく深いもんだ」 「じゃそれを、木戸君が確めたのかね」 「いや、ただ最後の無電でそう推察できるんだ。機はいま、旋流にまきこまれ、主峰の雲へ近付いていく――それがまず最初のものだった。続いて、もう我らには旋流をのがれる手段はない。神よ、隊員諸君とともにあれ――とあった。と間もなく、たしか五、六分経ってからだろう、とつぜん『大渦巻(ガロフオラ)』というあの一言がはいった。僕らは、もう絶望し胸せまって十字を切った。するとだよ」 「ふむ」 「それからは、誰も感慨ぶかげな顔でものも言わない。そこへ、もうないと断念(あきら)めていたころ、ふいに最後の通信がきた。見た――という、たった一言だが、見たというんだ。そして木戸は、その謎語をのこしたまま無電のオーハラとともに、おそろしい魔境の神に召されたのだ」 その無電のうち「大渦巻(ガロフオラ)」と打ったころは、たしかに木戸の機は怪雲に入っていたにちがいない。それがたんなる巨大な渦雲にすぎないということは、ただその一言だけでも容易に想像がつくことだ。それから、機は旋回しながら墜(お)ちこんで行ったのだろう。そして、「天母生上の雲湖(ハーモ・サムバ・チョウ)」の真核(しんかく)の地上ちかくになって、木戸はたしかに何物かを見たのだ。 ユートピア?! 数マイル切り下(お)れた大空洞の底。そこは、零下六十七度の地表とはちがい和(なご)やかな春風が吹き、とうてい想像もできぬような桃源境があるのではないか?! いや、木戸はそれを見たのではないか?! と、最後に木戸が投げつけた謎語をめぐりながら、よくやった、最後まで気力を失わなかったのはやはり日本人だと、涙と奇靉(きあい)をひろげる夢想世界のなかで、しばらく折竹は一言もいえなかった。 そこへ、きゅうにダネックが激越な調子になって、 「いよいよ僕も、『天母生上の雲湖(ハーモ・サムバ・チョウ)』とはお別れということになったよ。探検を、一時中止しろという厳命がくだってしまった。それで、いま俺は返電をやったよ。お前らは、この俺に信頼がもてないのか、それとも費用が惜しくて続けられないのかと、いま訊きかえしてやったところだ」 ダネックが帰ると、きゅうに折竹の目から堰(せき)を切ったような涙がながれてきた。それとともに、なにやら独り言のように俺がやるぞと言いながら、彼は亢奮(こうふん)し、とり乱したようになってしまった。 なるほど、木戸への哀惜の念もあろう。しかし、折竹ほどの、男の目にさんさんたる粒が宿るということは、もっと、大きな大きな感情の昂(たか)まりでなければならぬ。では、なにが折竹をそうさせたかというに……さっき彼が私に話した新援蒋ルートの所在を、木戸が「天母生上の雲湖(ハーモ・サムバ・チョウ)」をさぐる飛行中に発見したからである。 揚子江上流の一分流の Zwagri (ツワグリ)河が、「天母生上の雲湖」とバダジャッカの中間あたりを流れている。絶壁と、氷蝕谷の底を、ジグザグ縫うその流れは、やがて下流三十マイルのあたりで激流がおさまり、みるも淀(よど)んだような深々とした瀞(とろ)になる。そしてその瀞が、断雲ただよう絶壁下を百マイルも続いている。 ところが一日、木戸がその瀞をゆく見馴れぬかたちの舟をみたのだ。どうも、土地のタングウト土人の樅皮舟(メンヌサ)ともちがう。しかも、それが一つや二つではなく二、三十艘も続いている。で結局、それが英海軍でつかう兼帆艀(ピンネス・バージ)だったのだ。とにかく、チベットを横切り「天母生上の雲湖(ハーモ・サムバ・チョウ)」を左に見、 Zwagri (ツワグリ)の大瀞をくだって陸揚げしたものを、一路重慶へもちこむ新援蒋ルートだ。 折竹は、木戸からその報を得たとき、これは黙視できぬ、と考えた。といってそこは、万嶽雲にけむる千三百キロのかなたである。彼は、切歯扼腕(せっしやくわん)、歯噛(はが)みをして口惜しがったのだ。 するとそこへ、もしもそこへ行けたならという仮定のもとに、そのルート破壊の大奇案がうかんできた。 それは、奔湍(ほんたん)巌をかむ急流の Zwagri (ツワグリ)が、なぜそこまでが激流で、そこからが瀞をなすのか――それを、折竹が謎として考えたからだ。瀞とは、数段の梯状(ていじょう)をなす小瀑の下流か、それとも、ふいに斜状の河床が平坦になるかなのだが、この Zwagri (ツワグリ)の場合はいずれのものでもない。とここに、「天母生上の雲湖」の九十九江源地(ナブナテイヨ・ラハード)からでて、地下の暗道をとおり水面下に注ぐ川があるのではないか。暗黒河は、中央アジアの大名物である。それが、「天母生上の雲湖」付近に必ずしもないとはいわれまい。 つまり、 Zwagri (ツワグリ)のその点をさぐって暗河道をふさぐか、それとも「天母生上の雲湖(ハーモ・サムバ・チョウ)」へわけいって源流を閉じるか、――その二者以外に遮断の方法はないと考えていた。なぜなら、水量が減れば激流となって、そこの舟行がたちまち杜絶するからである。 「くそっ、カーネギーの金庫を背負った学会がなんて醜態だ。二度や三度の、失敗で平張(へば)るなんて、外聞があるぞ。俺も、今度こそは往ってと思っていたのに……」 ダネックがいった探検中止の報が真実とすれば、支那事変終止を早からしめる援蒋ルートの遮断も、魔境「天母生上の雲湖」征服もいっぺんに飛んでしまう。みすみす、機会を目のまえにしながら、なんて事だろう、焦(あせ)ればあせるほど眠れなくなって、その夜折竹はまんじりともしなかった。すると、それから三日後に、いよいよ探検中止確定をダネックがしらせにきた。 「これで俺も、いよいよハーヴァードの地学教室へもどるんだ。遠征五年、隊員十六名を失っただけで、なんの得るところもない。ねえ、『天母生上の雲湖(ハーモ・サムバ・チョウ)』は永劫(えいごう)の不侵地かね」 ダネックも、さすがその日はぐったりしていた。彼は、アメリカに籍はあるがチェコ人。精悍(せいかん)、不屈の闘志は面がまえにも溢れている。三十代に、加奈陀(キャナディアン)ロッキーの未踏氷河 Athabaska (アタバスカ)をきわめて以来、十年、彼は恒雪線(スノウ・ライン)とたたかっている。雪焼けはとうに、もう地色になっていて、彼は自他ともゆるす世界的氷河研究家(グレーシャリスト)だ。 「弔い合戦」と、のぞき込むような目でダネックが言った。それは、彼自身にとっても身を焼くような執着である。 「君も、今度は木戸のために闘うところだったね。『天母生上の雲湖』に復讐するところだったね」 「そうだ。ところで、君に言おうかどうかと迷っていたんだが……」と、とつぜん折竹が改まったように、切りだした。 「さっき、白夷(シヤン)人の召使が聴き噛(かじ)ってきたんだがね。ここへ何でも、『天母生上の雲湖』ゆきの新隊がのり込んできたというのだ」 「なに、われわれ以外の探検家とはどこの国のだ?!」 みるみる、ダネックの目がすわり、額が筋ばってくる。これが、彼のいちばん不可(いけ)ないところだった。じぶんを持することあまりに高いために、すぐ人と争い猜疑心(さいぎしん)を燃やす癖がある。いまも這々(ほうほう)の体でもどったところへ新しい隊と聴き、彼はさながら身を焼くような思いだったろう。ところが、折竹が含みわらいをして、 「マアマア、話は全部聴いてからにし給え。それがね、探検隊とはいえ、じつに妙なものなんだ。触れ込みはそうでも、総員男女二人しかいない」 「なんだ?!」 ちょっと、ダネックの顔色が和(やわ)らいだ。案外、事実を知ったら吹きだすようなものかもしれない。彼は、バンドを揺(ゆす)って、嗤(わら)いながら立ちあがった。「そうか、其奴(そいつ)が、僕の『天母生上の雲湖(ハーモ・サムバ・チョウ)』における経験を聴きたいというのだね。よろしい、今夜そのちんまりとした探検屋に逢ってやろう」 アメリカ地理学協会「天母生上の雲湖(ハーモ・サムバ・チョウ)」攻撃隊は隊員二十一名、人夫は、苗族(ミョウツエ)、※※(ローロー)、モッソ各族を網羅し二百余名なのに、ここに、あらたに現われた新隊の人数総員二名とは、まずまず聴けばままごと[#「ままごと」に傍点]のような話である。ダネックと折竹は、その日の夕がた新来者の宿を訪れた。 そこは、折竹と懇意な漢人の薬房で、元肉、当帰樹などの漢薬のくすぶったのが吊されている。店をとおって奥まった部屋へとおされた。そこには、浮腫(ふしゅ)でもあるのか睡(ねむ)たそうな目をした、五十がらみのずんぐりとした男が立っている。丁抹(デンマーク)の、クロムボルグ紀念文化大学の教授ケルミッシュといった。やはり彼も、チェコ人で梵語(ぼんご)学者である。 「ここで、国のお方にお逢いできるとは、望外な倖せです。私は、『天母生上の雲湖(ハーモ・サムバ・チョウ)』登攀の希望をもって、いささか仏教文学の方面からもあの地を究(きわ)めておりますので……」 「それは」とダネックが無遠慮に遮った。 「あなたのは、つまり、教室だけの『天母生上の雲湖(ハーモ・サムバ・チョウ)』でしょう。あの辺と、古代インドの交通を書いた大集月蔵という経がありますね。しかし、登行には科学的準備が要ります。もちろん、科学的鍛練、経験もものをいいます。僕は、これでも氷河とは十年も暮してますが、あの、『天母生上の雲湖』には赤児のように捻(ひね)られますぜ」 「では、私なんぞには登れぬと仰言るのですね。なるほど、私にはなんの鍛練もない。氷斧(ピッケル)を、どう使うかも知らないし、アルプスの空気も知りません。素人です。僕は、全然の無経験者です」 それには、折竹もダネックも少なからず驚いた。冗談や粋狂でゆける「天母生上の雲湖」ではない。きっとこれは、いい加減なところまで往って引き返したうえ、「わが天母生上の雲湖(ハーモ・サムバ・チョウ)死闘記」などと空々しいものを発表する、許しがたい売名漢ではないのか。ダネックも、さいしょは彼の競争者として警戒を怠らなかったのが、もう聴くも阿呆(あほ)らしいというような素振りになった。もちろん、そこまでのケルミッシュはいかにもそうであったろうが……。 「ですが、ダネック教授」とケルミッシュが改まったように、言った。 「私は、些(いささ)かながらあの魔境について知っております。あなたが、五か年の辛苦のすえやっと究(きわ)めたもの以上を、私は、ヨーロッパにおりながら不思議にも存じているのです。ねえ、まだ短文以外の探検記の発表はありませんね。隊員中、途中で帰国した方も一人もないと思いますが」 「ふうむ」ダネックは愚弄(ぐろう)されたように唸(うな)った。五年間、人力がつくせる最高のエネルギーを発揮して、氷河と、大烈風とひっ組んだじぶんのあの労苦を、いま舌三寸で事もなげにいうこのペテン師と、彼は怒気あふれた目で、ぐいと相手をにらみ据(す)えた。 「君が、そんな魔法使いなら羽くらいはあるだろう。どうだ、僕を『天母生上の雲湖(ハーモ・サムバ・チョウ)』まで、乗せて飛んでいってくれ」 「いやいや、ただ私という男がけっして無価値なものでない――それを、ともかくお知らせしとこうと思うのです。ところで、あの外輪四山のうちの紅蓮峰(リム・ボー・チェ)の嶺ですね。あれは、東南からのぞめば角笛形をしているが、ちょっと、西へまわると隠れていた稜角(りょうかく)がでて、その形が円錐になりますね」 これには、さすがのダネックもあっと驚いた。まだ、あの山嶺の写真は一つしか発表してない。西側からのは、実をいうと写真にもとってないのだ。それを、万里の雲煙をへだてたヨーロッパにいて知るとは、なんという化物のような男だろうか。 ダネックが、打ちのめされたように茫然(ぼうぜん)となっているところへ、ケルミッシュのもの静かな声が続く。 「これで、ダネック教授もお分りになったことと思う。私は、今次の探検についてあなたの協力を求める。いや、ぜひお力添えを得たいと思う。それに就いて……」 と言いかけたとき、バタンと扉があいた。西日が叢葉(むらば)のすきから流れるなかへ金髪が燃え、ひとりの、白人女がふらふらと入ってきた。 「ああ、ケティ」ケルミッシュが、ちょっと眉をしかめ立ちあがって肩を抱いた。 見ると、金髪の色といい碧眼(へきがん)の澄みかたといい、一点、非のうちどころのないドイツ娘である。しかし、それ以外の部分はなんという変りかた?! 厚い唇をだらりと空けた様(さま)。 顔はだだ広く鼻は結節をなし、ほそい目の瞼がきりっと裂けている――まさに、このほうは完全な蒙古人だ。そのうえ、一目で白痴であるのが分るのだ。 これかと、ダネックも折竹も唖然(あぜん)と目をみはった。これが、ケルミッシュの同伴者とはますます出でて奇怪だ。癡呆(ばか)を連れてきてあの大魔境へのぼる?! さっきの紅蓮峰(リム・ボー・チェ)の山嶺のことでグワンとのめされた二人は、いよいよ神秘錯雑をきわめるこのケルミッシュのために、いまは、引かれるままの夢中裡(り)の彷徨(ほうこう)だ。 日が落ちた。巨竹の影が消え角蛙(つのかわず)が啼(な)きだした。暑さはいくぶん退いたが、二人のこの汗は。
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