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失楽園殺人事件(しつらくえんさつじんじけん)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-29 7:23:13 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


   二、六道図絵の秘密

 失楽園は、鵯島に続く三町四方ほどの、岩礁の上に盛土をして、その上に建てられているのだが、周囲の欝蒼たる樹木が、その全様を覆い隠していた。本島との間には刎橋があって、その操作は、院長と二人の助手以外には、秘密にされているとかいう話である。



 中央の平地に上図通りの配列で並んでいるのが、失楽園の全部であって、四棟ともいずれも白塗りの木造平屋で、外観はありきたりの、病棟と少しも異なっていなかった。
 法水はまず、周囲の足跡を調べ始めたが、昨夜の濃霧で湿っている、土の上にあるものは発見する際の杏丸のもののみで、結局それからは、何も得るところがなかった。
 しかし、兼常博士の室に入り、窓越しに対岸の一棟を見ると、斜かいに見える杏丸の実験室がこれも窓が、開け放たれているのに気がついた。
 兼常博士の室の窓は、廊下側の二つは単純な硝子窓で、それには掛金が下りているが、中庭側の三つが開け放されてあった。扉は廊下側の左端に、そして、その側の右隅には寝台があり、その上で兼常博士が、寝衣のまま四肢をややはだけ気味に、仰臥している。
 年のころは五十四、五で、ブリアン型の髭さえなければ、余程厳(いか)つい顔立であろうが、その半ば口を開いた死相を見ると、ただただ安らかな眠という外にない。
 室内には位置の異なった調度類もなく、何処と云い、取り乱された形跡がないばかりか、指紋や犯跡を証明するものも皆無であった。屍体にも外傷は愚か、中毒死らしい徴候さえ、残されていないのである。尚絶命を証明する時刻は、小卓の上に投げた、右手の甲の下で、腕時計の硝子が割れていて、その指針が正二時を指しているだけでも、明らかだった。
「やはり、心臓痲痺ですかな」
 屍体を弄(いじ)っている法水の背後から、杏丸が声をかけた。
「空気栓塞には、猛烈な苦悶が伴いますし、流涎(よだれ)や偏転の形跡もないのですから、脳溢血とも思われませんし……。それに、こんな開放された室内では、有毒瓦斯(ガス)は用をなさんでしょう」
「そうです。そうあってくれると、実に助かるんですよ」
 法水は何故か、反対の見解を匂わせたが、今度は屍体の周囲を調べ始めた。
 鍵束は枕の下にそっくりしていて、杏丸の話では、各々の室ごとに鍵の形が異なっているそうであった。が、彼はすぐ寝台から離れて、附近の床上に眼を停めた。
 その辺一体に、ひしゃげ乾(こわ)ばった膀胱みたいなものが、四つ五つ散乱しているのであるが、その一寸程の袋体のものは、杏丸医学士の説明により、俄然注目さるるに至った。
「実は私も不審に思っているのです。これは、幹枝の腹水と一緒に取り出された、膜嚢なんですからね。当時、三十幾つか取り出されて、現在は屍蝋室の硝子盤の中に貯蔵されているのですがなかには膜が、相当強靭なものもあるのですよ」
「なるほど」
 と法水も頷いたが、
「全く腹腔内の異物が、こんな所に散乱しているなんて、実に薄気味悪い話です。けれども、そう思うのは、これを犯罪の表徴(シンボル)だとするからですよ。もし、兇器の一部だとしたら……」
「オヤオヤ、他殺説を持ち出されると、前が私の室ですからね。しかし、この膜嚢に有毒瓦斯を詰めたと仮定しても、これだけの距離を投擲する前に、第一この薄い膜が無事ではいないでしょう。そうすると今度は、中庭に足跡がないと、いうことになってしまうのです」
 と嗤うような杏丸の顔に、法水は皮肉な微笑を投げた。
「いや、足跡なんぞは要りません。大体この膜嚢は、中庭とは反対の方角から、投げられているのですからね」
 膜嚢の一つ一つを指し示して、
「貴方は、此処にある全部を連らねて行くと、その線が、屍体を中心とした、半円なのに気が付きませんか。その放射状に、なんだか意味がありそうですね。そうなると、後の硝子窓には、掛金が下りているのですから、この形が何んとなく、博士に加わった不可解な力を、暗示しているようじゃありませんか。とにかくこの情況は、明白に自然死ではありません。そして、他殺にしろ自殺にしろ、この形に、博士の死の秘密があるのです」
 こうして、死因不明のままに博士の室を出ると、その足で、調査を河竹医学士の室に移した。
 その室は、同じ棟の中で、間に小室を一つ挟んでいるのだが、窓は凡て鎖され、打ち破った扉だけが開かれていた。室の四辺は、殆んど実験設備が埋めていて、その中央に、寝衣(ねまき)の上にドレッシングガウンを羽織った河竹医学士が、扉の方に足を向け、大の字なりに俯伏している。
 そして、その背後には、恰度心臓部に当る辺に、柄も埋まらんばかりに深く、一本の短剣が突き刺さっているのだが、血は創口(きずぐち)の周囲に盛り上がっているだけで、附近には血滴一つない。おまけに、室内で眼に止った現象といえば、屍体の足下に椅子が一脚倒れているのみであった。
 なお、短剣も河竹の所有品で、犯人が手袋を用いたと見え、柄には指紋が残っていない。こうしてすべての情況が、その即死したらしい有様といい、何もかも博士の室と酷似していて、格闘の形跡は勿論のこと、犯人が跳躍した跡は、何処にも見出されないのである。が、然し、扉の鍵が寝衣の衣袋(かくし)にある所を見ると、密閉された室に、神変不思議な侵入を行った犯人の技巧には、法水も眩惑に似た感情を抑える事が出来なかったのである。
 やがて、屍体から右手の壁にある、鳩時計が鳴き始めると、法水はその側にある、実験用の瓦斯栓までも調べたが、それが最後で、全部の調査を終ったらしく、彼に似(に)げない吐息を吐いて言った。
「こりゃ全く、手の付けようがない。内出血が起って、外部へ流れた血が少ないので、刺された時の位置さえ判らんのですよ」
「然し、二時前後に博士を殺して、それから夜が明けて、八時ごろ河竹を殺すまでに、犯人は一体どこに潜んでいたのでしょうな」
 と杏丸が、心持(こころもち)仄めかすようにいったが、法水はその言葉に、不快気な眉を顰めただけで、答えなかった。
 そして次に、三人の来島者を訊問することになったが、二人の男は、何れも杏丸と同じく、昨夜は就寝後室を出ず、今朝騒がれて初めて知ったというのみの事で、黒松九七郎という癩患者の弟は屍体買入代価の増額を希望しているのみであったが、東海林泰徳(たいとく)というアディソン病患者の父は、さすが職業が薬剤師だけに、病の性質上死期の早かった点に、濃厚な疑念を抱いているかのような口吻(くちぶり)だった。
 所が、最後の番匠鹿子になると、胸に手を当てて、思い出に耽るかのような彼女の口から、影も形もない五人目の人物の存在を、明確に指摘している所の、実に不気味な、目撃談が吐かれて行ったのである。
「たった一目妹を見たいと思ったばかりでした。昨夜一時ごろ、あのひどい濃霧の中を、私は屍蝋室の窓下へ参りました。でどうやらこうやら、鎧窓の桟だけを、水平にする事が出来ましたが見えたのは、嚢(ふくろ)のようなものが浮いている、硝子盤らしいものだけで、それが擦った、燐寸(マッチ)の火に映っただけで御座います。けれども、その時あの室の中に誰かいるような気配が致しました」
「冗談じゃない。三つの死蝋の他誰がいるものですか。あの室は、院長以外には絶対に開けられんのですよ」
 杏丸医学士が険相な声を出すと、鹿子はそれを強くいい返して、
「それでなければ、妹はじめ二人の方が、生きていた事になるのです。実は私、不思議なものを見たのですわ」
 と、まざまざ恐怖の色を泛かべて、鹿子は語り始めた。
「その折、何処かで二時を打ちましたが、私は最後に残った、一本の燐寸を擦りました。すると急に硝子盤が、真白な光で明るくなったかと思うと、恰度内部(なか)を掻き廻しているかのように、嚢のようなものが浮きつ沈みつ動いて行くのです。それも、ホンの一、二秒の間でしたが、私はハッと思った瞬間、駭きと疲労とで、気を失ってしまったので御座います。断じて、幻覚では御座いません。その真実なことは、是非信じて頂きたいと思いますわ」
 驚いた二人は、思わず慄然としたように視線を合わせたが、杏丸は信ぜられないかの如くに呟いた。
「もし、なかの膜嚢が、破れてでもいるのでしたら、腐敗瓦斯の発散で、動くこともあるでしょうがね。然し、その光というのだけは、どうしても判らん。確かに吾々以外の人物が潜んでいるんだ――其奴が屹度犯人なんですよ」
 そして、狐の様に刺々(とげとげ)しい、鹿子の顔を凝視(みつ)めるのだった。
 こうして、訊問は終了したが、鹿子はコスター聖書に関して、片言さえも洩らさなかったし、一方法水も、鹿子の不在証明を追求しようともしなかったのである。
 然し、法水は何事か思い付いたと見えて、杏丸を残して、二時間程この室を留守にしていたがやがて戻って来ると、愈(いよいよ)最後の調査を、死蝋室で行うことになった。
 死蝋室は、事件の起った一棟の右手にあって、その室だけには、窓に鎧扉が附いていた。その二重扉の内側には、堕天女よ去れ――と許りに下界を指差している、※利天主帝釈(あるじたいしやく)の硝子画(え)が嵌まっていた。
 そして扉の前に立つと、異様な臭気が流れて来て、その腐敗した卵白のような異臭には、布片で鼻孔を覆わざるを得なかったのである。然し室内には、曽て何人も見なかったであろう所の、幻怪極まりない光景が展開されていた。
 それを、陰惨などというよりも、千怪万状の魁奇(かいき)もここまで来れば、恐怖とか厭悪(えんお)とかいう、感情などは既(とう)に通り越していて、まず一枚の、密飾画然とした神話風景といった方が、適切であるかも知れない。
 扉の右手には、朱丹・群青(ぐんじょう)・黄土・緑青等の古代岩絵具の色調が、見事な色素定着法で現わされている、二人の冥界の獄卒が突っ立っていた。
 右はアディソン病患者の青銅鬼で、緑青色の単衣(ひとえ)を纏い、これはやや悲痛な相貌であるが、左手の赤衣を着た醜怪な結節癩は、その松果(まつかさ)形をした瘡蓋が、殆んど鉱物化していて鋳金としか思われず、それが山嶽のように重なり合って眼も口も塞ぎ、おまけに、その雲を突かんばかりの巨人が、金剛力士さながらに怒張した四肢を張って、口を引ん歪め、半ば虚空を睥睨(へいげい)しているのだ。
 そして、その二人に挟まって蹲(しゃが)んでいるのが、頭髪を中央から振り分けて、宝髻形(ほうきがた)に結んでいる、裸体の番匠幹枝だった。肋骨の肉が落ち窪み、四肢が透明な琥珀色に痩せ枯れた白痴の佳人は、直径二尺に余る太鼓腹を抱えて、今にもそれが、ぴくぴく脈打ち出しそうだった。
 然し法水は、それに一瞥を呉れたのみで、すぐ死蝋と窓との間にある、卓子(テーブル)の側に歩んで行った。
 幹枝の腹から出た腹水と、膜嚢を容れた大きな硝子盤が、その上に載っていて、褐色をした濁った液体の中に、二十余り鼈(すっぽん)の卵みたいに、ブヨブヨしたものが浮いていた。そして、異臭も腐敗した腹水から、発していることが判った。
 其処で、杏丸を顧みて法水がいった。
「この腐敗瓦斯には、硫化水素の匂いが強いじゃありませんか。硝子盤の下の布も、淡緑色に変色していますぜ。多分犯人は、これから純粋の瓦斯を採取して、それを膜嚢に充したもので、博士を殺した、とでもたしか思わせたかったのでしょう。けれども、生憎硫化水素は、患者の毒気といわれるほどで、到る処に痕跡を残して行くのです。それに、仮令(たとえ)純粋のものでも、昨夜のような、猛烈な濃霧に遇(あ)っちゃたまりませんよ。散逸する以前に、何より水蒸気が、吸収してしまいますからね。さてこれから、鹿子の目撃談を解剖しますかな」
 と、法水は窓際に立って、暫く中腰になり、硝子盤と睨めっこしていたが、やがて莞爾と微笑んで腰を伸ばした。杏丸医学士は、その様子を訝かしがって、法水と同じ動作を始めたが、この方は、単に不審を増すに過ぎなかった。
「僕には、貴方が得たり顔をした、理由が判りません。疑問はいよいよ深くなる一方じゃありませんか。破れた膜嚢がないのですから、第一浮動した説明が、付かないでしょう。それに、鹿子が見た光というのが、また問題です。それが、ガラス窓越しに中庭の向うから放たれたのだとすると、見た通りガラス盤の後方は、二人の死蝋が着ている、朱丹と緑青色の布とで塞がっているのですから、あの様に真白に見える、気遣いはないのです。いよいよ以って、妖しい光は、ガラス盤の周囲で起ったことになりますよ。犯人は、明白に吾々四人以外の、霧のような人物です。それなのに、どうして貴方は?」
「その理由はほかにあるのですよ」
 法水は静かにいった。
「で、こういったら、或は皮肉と考えられるかも知れませんが、鹿子の目撃談が[*「鹿子の目撃談が」に傍点]、真実に証明されたからなんです[*「真実に証明されたからなんです」に傍点]。ねえ杏丸さん、その刻限が、恰度博士の絶命時刻に、符号しているでしょう。ですから、暈(ぼつ)とした気体のようなものから、結晶を作ってくれる、媒剤を発見した気持がしたのですよ。つまり、以毒制毒の法則が使えるからです。謎を以って謎を制すのです」
「だが、犯罪の捜査に弁証法は信ぜられませんな」
 杏丸は反駁した。
「何より直覚ですよ。貴方は何故鹿子を追求しないのです?」
「ハハハハハ、ところが、鹿子より以上の嫌疑者がいますぜ」
「なに、鹿子以上の?」
 杏丸は驚いて叫んだ。
「それが杏丸さん、貴方だとしたらどうしますね」
 法水は止めを刺すようにいった。
「先刻、貴方の実験室の棚の中から、こんなものを発見したのです。このくの字なりの木片は、御覧の通り飛去来器(ブーメラング)(いわゆる『飛んで来い』という玩具)です。そして、それを銜(くわ)えている、穴のある紙製の球形は何んでしょうかねえ。僕は大体において、この事件が判ったような気がして来ました。サア、貴方がたは本島の方へ行って、しばらく僕を静かに考えさせて下さい」

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