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小熊秀雄全集(おぐまひでおぜんしゅう)-06

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-29 0:37:37 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语



 

飛ぶ橇

  ――アイヌ民族の為めに――


    1

冬が襲つてきた、
他人に不意に平手で
激しく、頬を打たれたときのやうに、
しばらくは呆然と
自然も人間も佇んでゐた。
褐色の地肌は一晩のうちに
純白な雪をもつて、掩ひ隠くされ
鳥達はあわただしく空を往復し、
屋根の上の烏は赤い片脚で雪の上に
冷めたさうな身振りでとまつてゐた、
そして片足をせはしく
羽の間に、入れたり出したりしてゐる。
きのふまで樹の葉はしきりに散りつづけ、
寒い風は、海から這ひあがり、
二十数戸の小さな漁村の
隅から隅まで邪険な親切さで
――わしはもう明日から秋の風ではないよ
  わしは明日から冬の風だよ、
とふれ廻つた、
村の人々は風の声を聴いた、
街の祭日が終つて、
見世物小屋の大天幕を取り片づける時のやうに
華やかさの後に来る、寂寥さをもつて
めいめいが河岸へ降りてゆく
積まれた焚木の上に厚いムシロをかけたり、
村の背後の林の中から
細い丸太ん棒を引きずりだしてきたり、
自分の小屋の倒れかけた壁へ
その丸太をもつて倒れないやうに支へをつくる、
子供の習字の紙を小さく切つて、
部屋や、物置小屋の窓といふ窓へ目貼りをして
風と雪との侵入に備へた。


    2

これらの冬の準備は、北国の人々の敏感さで、
金のある者は有るやうに、
金のないものは又無いやうに、
それぞれの予算の中で
非常な素早さをもつて手順よく行はれた、
全く貯へのない家では
河岸から板切れを何枚も
拾ひ集め、ムシロを集め
いらだちながらそれらの物を手当り次第に
釘をもつて家の周囲に打ちまくり、
林の木の葉の
最後の一枚が散りきつたと思ふときに
空は急に低くなつたやうだ、
そして周囲は急にシンとしづまつた。
その静けさは、長い時で三日、或は一日つづいた、
短いときはほんの数秒間、
不意に咽喉をしめつけられたやうに
村の人々が呼吸をとめた、
そのしづけさに耳を傾けて聴き入つた、
村の人々は立つたり坐つたり
家の戸口に出たり入つたり落着かない、
馬車挽はそはそはと幾度も
馬小屋の馬を用もないのに覗きにゆく、
この天地の静けさが極度に達したと思ふと、
海から、周囲の山蔭から、
数千の生き物が、手に手に
木の杖をもつて、コツコツと土を突いてやつてくるやうな、
ざわざわといふ、ざわめきが遠くにきこえ、
近づいてきた、
この得体の知れない主が
村を一眼に見下ろすことのできる
山の頂に辿りつき
これらの生きもの達は、不意に叫びをあげ、
村の上にその重い大きな胸をもつて倒れかかつた、
人々はハッと思ふと、もうこれらの群の姿はない、
ただ山といはず、野といはず村といはず、
すべてを掩つて白い雪のマントを
拡げて立ち去つた、
人々は始めてホッと長い長い溜息して
たがひに顔を見合せる。


    3

雪が来ると、この最初の雪は愛撫の雪、
山峡の村は一時ポッと暖くなり、
寂しい秋を放逐してくれた新しい
冬の主人を迎へたやうに瞬間感謝の気持になる、
村の娘たちの頬ぺたに朱が加へられ、
毛糸の青い手袋で、こすればこする程
頬は林檎のやうに赤く可愛くなつた。
寒気がつのつてくると娘達の頬は
こんどは紫色にかはつてくる、
水仕事や、薪切りや、父親が山から炭を
手橇で村まで運びだす後押しをしたり、
娘たちはさまざまの生活の
ヒビ割れが手や頬にできる、
漁師たちは冬がくれば杣夫になり
春がくれば百姓が今度は漁師にかはる
漁師はとほく牧草刈に行つたり、
木材流しに雇はれたり、
樺太に住む人々は殖民地生活の
特長ある浮動性に
あるときは南端の鰊漁場から
北端のロシアとの国境の街まで生活を移してゆく、
――今度何々村に王子の製紙工場ができるとさ
――ぢや行くべ、こんな村さ、へばりついてても何にもならんでよ、
――そうだ、そだ、出かけべ、
  何か仕事あるべよ、
――あゝ、あるとも、角材出しでもなんでもな、
  うんと越年(をつねん)仕事に儲けてくるべ、
人々はすぐ共鳴してしまふ、
幾つかの行李を発動機船の胴の間に投りこみ、
幾家族かは北へ指して村を去つてしまふ、
――国境さ、兵隊さん越年するとさ、
――それだば、でかけて軍夫にでも雇はれべいか、
――さうするべ、
馬が立髪をふつて
嫌だと足をじたばた踏むのにお構ひなしに
小屋から橇を引き出して
馬の首の鈴をチャンリン、チャンリンと
鳴らしながら橇の一隊は
海伝ひに数十里の雪の路を
国境の街を指して行つてしまふ、


    4

『偶然そこに住む事になつた土地土地の
 人間の風習に苦もなく染つてゆく
 露西亜人の風習』――と
ロシアの詩人は歌つた、
樺太の人々の風習もまたそれに似てゐた、
その性質の嘘のやうな柔軟性
その生活への素直な順応が
良いことか、悪いことか人々は気づかない
北国庁の役人や利権屋たちは
政治的激動の中心地
東京へしつきりなしにでかけてゆく
だが村へは日刊新聞を十日分づゝ
帯封にして月に三回だけ配達される、
植民地拓殖政策が
一束にして投じられる、
だが池の中心の波紋が
岸まで着かない間に消えてしまふやうに
中央政府の政策がどうであらうが、
雪に埋もれた伐木小屋の
人々にはなんの興味も湧かない、
政変があらうが人々は
ものゝ半日もその話題を続けない、
村の河へ鮭が卵を生みに
のぼつて来たことがもつと大切であつた、
しかし時代の反映は色々の形で現れる
北海道へ出稼ぎに行つたアイヌ人の
イクバシュイ日本名で『四辻権太郎』
村へ帰ると彼の様子が変つてゐた
彼は人々の前に突立ち
どこかに隠してゐたアイヌ人の
民族的な激情性をぶちまけて
――シャモ(和人)たち、
彼はさう叫んで節くれ立つた握り拳で
かなしげに鼻の頭を横なぐりにこすり、
――シャモ、おら社会民衆党さ入つたテ、
  アイヌ、アイヌて馬鹿にするな、
  アイヌも団結すれば強いテ、
人々はどつと声を合して笑つた
権太郎は人々の軽蔑の笑ひを聴くと
一層悲しげな声をし
両手をもつて幅広い胸を抱えるやうにし、
その胸を天にまで突きあげようとする
はげしい、だが空しい意志を示しながら
――シャモ、おら、社会民衆党さ入つたテ、
と同じことを何時までもくどくどと繰り返し
人々が全く笑はなくなると
権太郎はフイと小屋を立ち去つて行つた。


    5

人々はアイヌの後姿を見送つた、
滅びゆく民族の影は一つではなく
いくつも陰影が重なりあつてみえるやうに、
彼等の肩や骨格がたくましいのに
妙にその後姿がしよんぼりとしてみえる
権太郎は戸外にでゝ
雪の中をとぼとぼあるく
小屋が見えたとき彼はピュと口笛を吹いた、
すると小屋の板戸は激しく
バタンと音して開き
中から一団の生物の固まりがとびだし
疾風のやうに路をとんでくる、
十数匹の犬の群があつた、
彼等はなんと走ることが巧いのだらう、
それは走つてゐるのか踊つてゐるのか判らない、
それほど犬達は美しく身をくねらし、
かぎりない跳躍のさまざまな形をみせて、
権太郎へ近づくと
主人に甘えながらクンクンと叫び
犬たちは崖へ駈けのぼる時のやうなはげしさで
権太郎の足さきから一気に
胸まで駈けあがり主人の眼といはず
鼻といはずペロペロとなめる、
――こん畜生奴、やめろテイ
彼は身を横にふる、
だが彼の顔は笑つてゐる、
三つの生物の親密の度合が
雪の中に高まつてゆく、
そしてあらゆる静かな周囲の世界の中で
もつとも動的なものとして動いてゐる。


   6

犬達はふざけ合ひ巧みに
歩るいてゆく主人の周囲に円を描きながら
小屋へ近づくと権太郎はホウホウと、
大きな手をひろげ犬の群を追ふ
すると犬達は犬小屋へ去つてしまふ、
アイヌは重い小屋の戸に手をかけ
扉をひきちぎるやうに開く
戸の一端に縄で吊り下つてゐる
大きな鉄の分銅がガタンとあがり
権太郎が入つてしまふと分銅は
戸をしぜんに閉めてくれる
空が晴れてゐるのに強い風が吹いてきて
風が崖下の村へ雪を吹雪のやうに吹きつけ
海は轟々と鳴り岸の結氷は
ギシギシと音鳴り氷が着いたり離れたり
絶えまない氷の接触に
どうしても聞き分けることのできない
人間の声のやうに呟ぶやく、
鈍重な氷のうめきは断続し
時々積まれた空瓶が崩れるやうな
明るい音響をたてる、
その音響は空白な
衝動的な笑ひのそれに似てゐる、
そしてその物音は一層
周囲の陰鬱さを色濃くする。


   7

若い山林検査官が村に入る岬の
突端の細い路に現れた、
彼は人の良い微笑をもつて周囲をみまはしながら
旅行者らしく前屈みに歩るいてゐる、
腰には撃つた鳥を数羽ぶらさげ
歩るくたびにぶらりぶらりと
山林官の腰のあたりに
装飾品のやうに揺れてゐる、
雪の通路は堅い
その細い路を踏み外すと
片足は膝まで雪の中に埋まる、
彼は何べんもその路を踏み外し
苦心をして埋もれた片足を抜かねばならぬ、
そのたびことに彼は立ち止まり
根気よく馬鹿丁寧に雪に塗れた
足から雪を手で払つてゐる、
彼の動作は非常に静かで、
曾つて自分が失つた何物かを
地面に探し求めて
あるいてゐるやうに絶えずうつむき
顔をあげたとき彼は強く
呼吸を吐きだすやうであつた。


   8

村にたどりついたとき海は全く
夕闇の中にかくれようとして暗く
最後の白い一線が沖合に光つてみえ、
村は海より一層暗く、
三方の山は暗さをもつて
村を全く膝下に捉へこんでゐた、
犬は村への来訪者を知つて
はげしくどの家の犬小屋の中からも咆えた、
彼は凍結した硝子戸から洩れる
ランプの弱々しい光りを
いちいち覗きこみながら
訪ねる家を物色する風であつた、
間もなく山林官は
小さな一軒の小舎の前に立ち
――親父、居るか、
と高い声で呶鳴ると中からは
オーといふ太い声がきこえてきた、
――誰だあ、
――おれだよ、
――あゝ、山林の旦那かあ、入れや、よく来たテ、
山林官はのつたりと小舎に入る
中ではアイヌの権太郎が突立ちあがり
意味のない感動の声をあげ
しばらくはゲラゲラと笑つて客を歓迎した、


    9

この権太郎の親密な小さな村では
遠慮といふことは軽蔑され憎まれてゐたから
お客はづかづかと土間の炉に
濡れた足を突込んだ、
山林官は猜疑深いアイヌ人と
上手に話をすることを知つてゐた
それは『真実をもつて語る』といふ以外に
この異民族と語る方法が
ないことを彼はちやんと知つてゐた
斯うした真実に対してアイヌ人は
それに底しれない愛情と純情を現して応へ
アイヌ人は可憐な動作や言葉の節々にも
思はず涙がにじむほど愛すべきものであつた、
夏の頃山林官は権太郎と
村の谿谷に添つて奥へ猟に行つた、
激しい谿流に突きあたつた時
二人はそれを渡らなければならなかつた、
山林官は水の流れの激しさに
暫し躊躇してゐると
権太郎は肩幅の広い背をつきだして
おんぶすれといつてきかない
アイヌは獣よりも確かな敏捷な足どりをもつて
飛石伝ひに彼を対岸まで運んだ、
山林官はその時のことを覚えてゐる、
大人が大人を背負つてゐるといふことは
平凡で異常でない出来事とはいへない
こゝではたゞアイヌの愛情がそれをさせた。
山林官が追想の中から引きだせるものは
かつて子供の頃父親の背に
背負はれた記憶がよみがへつたことだ。


    10

若い山林官とアイヌとは炉を挟んで
さまざまな世間話を始める
権太郎の息子が町の酌婦と駈落ちをしてしまつた話
そして息子は女に捨てられて
北海道の或る都市の活動写真館の
楽手になつてラッパを吹いてゐるといふ話
話し終ると権太郎は
――ほんとに餓鬼は、旦那、アイヌの面汚しだて、とつけ加へる
――権太郎、まあ息子は楽手になつたんだから出世したと思へ
と云へば彼はうんとうなづく
アイヌの父は社民党の演説をきいて
ついフラフラと単純に加盟し、
息子は街へでゝ映写幕の前の
暗いボックスの中でクラリオネットをふく、
すべて和人なみになつたことは
二人にとつて出世であり誇りにちがひない。
ただアイヌの仲間が死に、村を去り、
住居を孤立させられ、******、
同時に山にはだんだんと熊の数が
少なくなつてくるといふことが
最大の彼等の悲しみであつた、
そしてアイヌ達は*******
山の奥へ奥へと、林の奥へ、奥へと、
撒きちらすために入つてゆく。

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