二 舞台の牡丹燈籠
その当時、春木座で興行をつづけていた鳥熊の芝居のことは、かつて他にも書いたので、ここでは詳しく説明しないが、なにしろ団十郎も出勤した大劇場が桟敷と高土間と平土間の三分ぐらいを除いては、他はことごとく大入り場として開放したのである。木戸銭は六銭、しかも午前七時までの入場者には半札をくれる。その半札を持参すれば、来月の芝居は半額の三銭で見られる。われわれのような貧乏書生に取っては、まことに有難いわけであった。 芝居は午前八時から開演するのであるが、そういうわけであるから木戸前は夜の明けないうちから大混雑、観客はぎっしり詰め掛けている。どうしても午前五時頃までに行き着いていなければ、好い場所へは這入られない。私などは大抵四時頃から麹町の家を出るのを例としていた。夏は、好いが、冬は少しく難儀であった。お茶の水の堤に暁の霜白く、どこかで狐が啼いている。今から考えると、まったく嘘のようである。 しかしこの「牡丹燈籠」の時は、八月初めの暑中であるから、大いに威勢が好い。いわゆる朝涼に乗じて、朴歯の下駄をからから踏み鳴らしながら行った。十六歳の少年、懐中の蟇口には三十銭くらいしか持っていないのであるから、泥坊などは一向に恐れなかったが、暗い途中で犬に取り巻かれるのに困った。今日のように野犬撲殺が励行されていないので、寂しい所には野犬の群れが横行する。春木座へ行く時には、私は必ず竹切れか木の枝を持って出た。武器携帯で芝居見物に出るなどは、おそらく現代人の思い及ばないところであろう。この朝も途中で二、三度、野犬と闘ったことを記憶している。 余談は措いて、さてその芝居の話であるが、春木座の「牡丹燈籠」は面白かった。ほとんど原作の通りで、序幕には飯島平左衛門が黒川孝助の父を斬る件りを丁寧に見せていた。この発端を見せる方が、一般の観客には狂言の筋がよく判る。燈籠の件りも悪くはなかったが、円朝の高坐で聴いたような凄味は感じられなかった。やはり円朝は巧いと、ここでも更に感心させられた。一座が上方俳優であるから、こうした江戸の世界の世話狂言には、台詞がねばって聴き苦しいのは已むを得ない欠点で、駒三郎と梅太郎の伴蔵夫婦などは最も困った。中幕の「三代記」は駒之助の三浦、梅太郎の時姫、九蔵の佐々木であったが、この中幕よりも通し狂言の「牡丹燈籠」の方が大体に於いて面白かった。 私は先月の半札を持参したから、木戸銭は三銭。弁当は携帯の食パン二銭、帰途に水道橋ぎわの氷屋で氷水一杯一銭。あわせて六銭の費用で、午前八時から午後五時頃まで一日の芝居を見物したのである。金の値に古今の差はあるが、それにしても廉いものであったと思う。 その後、どこかの小芝居で「牡丹燈籠」上演をしたかどうだか知らないが、大劇場で上演したのは春木座の鳥熊芝居から五年の後、すなわち明治二十五年七月の歌舞伎座である。歌舞伎座では其の年の正月興行に、やはり円朝物の「塩原多助一代記」を菊五郎が上演して、非常の大入りを取ったので、その盆興行にかさねて円朝物の「牡丹燈籠」を出すことになったのである。脚色者は福地桜痴居士であったが、居士はこうした世話狂言を得意としないので、さらに三代目河竹新七と竹柴其水とが補筆して一日の通し狂言に作りあげた。初演の年月から云えば、春木座の方が五年の前であるが、それは已に忘れられて、「牡丹燈籠」の芝居といえば、一般にこの歌舞伎座を初演と認めるようになってしまった。 歌舞伎座初演の役割は、宮野辺源次郎(市川八百蔵、後の中車)萩原新三郎(尾上菊之助)飯島の娘お露(尾上栄三郎、後の梅幸)飯島平左衛門、山本志丈(尾上松助)飯島の妾お国、伴蔵の女房おみね(坂東秀調)若党孝助、根津の伴蔵、飯島の下女お米(尾上菊五郎)等で、これも殆んど原作の通りに脚色されていたが、孝助の役が原作では中間になっているのを、中間では余りに安っぽいと云うので若党に改めた。若党までも使う屋敷で、用人その他の見えないのは如何という批評もあったが、これは原作にも無理があるのだから致し方がない。単に旗本というばかりで身分を明かさず、大身かと思えば小身のようでもあり、話の都合で曖昧に拵えてある。桜痴居士らも無論にそれを承知していた筈であるが、これも芝居として先ず都合の好いように拵えて置いたのであろう。 舞台の成績が春木座の比でないことは云うまでもない。配役も適材適所である。八百蔵はむしろ平左衛門に廻るべきであったが、配役の都合で源次郎に廻ったので、旗本の次男の道楽者という柄には嵌らなかったが、同優はそのころ売り出し盛りであったので、さのみの不評をも蒙らずに終わった。松助の平左衛門もどうかと危ぶまれたのであるが、これは案外に人品もよろしく、旗本の殿様らしく見えたという好評であった。 この時、わたしの感心したのは、菊五郎の伴蔵が秀調の女房にむかって、牡丹燈籠の幽霊の話をする件りが、円朝の高坐とは又違った味で一種の凄気を感じさせた事であった。高坐の芸、舞台の芸、それぞれに違った味を持っていながら、その妙所に到ればおのずから共通の点がある。名人同士はこういうものかと、私は今更のように発明した。秀調は先代で、女形としては容貌も悪く、調子も悪かったが、こういう役は不思議に巧かった。 春木座の時にもこの狂言にちなんだ牡丹燈籠をかけたが、それは劇場の近傍と木戸前だけにとどまっていた。歌舞伎座の時には其の時代にめずらしい大宣伝を試みて、劇場附近は勿論、東京市中の各氷屋に燈籠をかけさせた。牡丹の造花を添えた鼠色の大きい盆燈籠で、その垂れに歌舞伎座、牡丹燈籠などと記してあった。盆興行であるので、十五と十六の両日は藪入りの観客に牡丹燈籠を画いた団扇を配った。同月二十三日の川開きには、牡丹燈籠二千個を大川に流した。こうした宣伝が効を奏して、この興行は大好評の大入りを占め、芝居を観ると観ざるとを問わず、東京市中に牡丹燈籠の名が喧伝された。今日ではどんなに大入りの芝居があっても、これ程の大評判にはなり得ない。 その原因をかんがえるに、第一は社会がその当時よりも多忙で複雑になった為であろう。第二は東京が広くなった為であろう。第三は各劇場の興行回数が多くなった為であろう。この「牡丹燈籠」を上演した明治二十五年の歌舞伎座は、一月、三月、五月、七月、九月、十月の六回興行に過ぎなかった。今日では一年十二回の興行である。たとえば黙阿弥作の「十六夜清心」や「弁天小僧」のたぐい、江戸時代には唯一回しか上演されないにも拘らず、明治以後に至るまでその名は世間に知られていた。今日では、去年の狂言も今年は大抵忘れられてしまうのである。毎月休みなしの興行にあわただしく追い立てられて、観客の鑑賞力も記憶力も麻痺してしまうのであろう。 劇場側ばかりでなく、世態もまた著しく変わった。明治時代、前記の「牡丹燈籠」上演の頃までは、市中の氷屋、湯屋、理髪店などのように諸人の集まる場所では、芝居の噂がよく出たものである。その噂をする客が多いために、湯屋の亭主や理髪店の親方も商売の都合上、新聞の演芸記事や世間の評判に注意していて、客を相手に芝居話などを流行らせたものである。したがって「湯屋髪結床の噂」なるものが、芝居の興行成績にも直接間接の影響をも及ぼしたのであるが、現今は殆んどそんなことは無い。湯屋や理髪店で野球や映画や相撲の噂をする客はあっても、芝居の噂をする客は極めて少ない。その相手になる亭主や親方も、自分が特に芝居好きでない限りは、芝居の話などをする者はない。 紐育や倫敦で理髪店へゆくと、こっちが日本人で世間話の種が無いせいでもあろうが、芝居を観たかと必ず訊かれる。外国では「湯屋髪結床の噂」がやはり流行するらしい。巴里にはバジン・テアトル(芝居風呂)などと洒落た名前を付けた湯屋もある。
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