一
なにかの話から、神田の柳原の噂が出たときに、老人はこう語った。
「やなぎ原の
慶応初年の八月初めである。ここらで怪しい噂が立った。誰が云い出したのか知らないが、日がくれてから一人の女が、この柳原堤の清水山のあたりにあらわれるというのである。
「なに、
気の強いものは笑っていた。柳原通りの筋違から和泉橋にむかった南側には、むかしは武家屋敷が続いていたのであるが、その後に取り払われて
しかしそれがほんとうの夜鷹でないことは、夜鷹自身が其の女におびやかされたという事実によって証明された。
こういう噂がそれからそれへと伝えられて、このごろ清水山のあたりにあらわれる女は夜鷹のたぐいではない、まったく何かの怪異に相違ないということになった。前にもいう通り、元来が一種の魔所のように恐れられている場所だけに、それが容易に諸人にも信じられて、近所の湯屋や髪結床では毎日その噂がくり返された。それに又いろいろの作り話も加わって、かの女は清水山の洞穴に年ひさしく棲む
こんにちと違って、江戸時代に妖怪の探索などということはなかった。その妖怪がよほど特別の禍いをなさない限りは、いっさい不問に付しておくのが習いで、そのころの江戸市中には化け物が出ると云い伝えられている場所はたくさんあった。現に牛込矢来下の酒井の屋敷の横手には
神田岩井
「旗本屋敷の
「そうかも知れねえ」と、喜平も笑った。
これは誰でも考えそうなことで、現にその時もそんな説を唱える者もあったのである。しかしそれが中ごろから青い鬼ではなく実は青い蛇であったように伝えられて、それから大蛇の精などという噂も生み出されたのであった。そういうわけで、銀蔵は清水山の怪異が果たして真の妖怪であるや否やを疑っている一人であった。おなじように調子をあわせていながらも、喜平はあくまでもそれを一種の怪物であると信じていた。
二人はめいめいに違った心持をいだいて、同じ目的地に到着した頃には、秋の日はすっかり暮れ切っていた。その怪しい女があらわれるという時刻は一定していないのである。ある者は宵の口に見たといい、ある者は夜ふけに出逢ったというのであるから、その探索に出向いて来た以上、どうでも宵から夜なかまでここらに見張っていなければならないので、二人は堤の下を
宵を過ぎると、柳原の通りにも往来の人影はだんだん薄くなった。例の夜鷹の群れも妖怪のうわさに恐れて、この頃は和泉橋よりも東の堤寄りに巣を換えてしまったので、二人はからかっている相手もなかった。喜平ほどの熱心家でもない銀蔵はすこし退屈して来たところへ、五ツ(午後八時)を過ぎる頃から細かい雨がほろほろと落ちて来た。
「あ、降って来た。こりゃあいけねえ」と、銀蔵は空をあおいだ。
この企ては今夜に限ったことでもない。近所のことであるから、あしたの晩また出直そうではないかと、かれは丁度幸いのように云い出した。
「なに、たいしたこともあるまい。折角出かけて来たもんだから、もう少し我慢してみようじゃあないか。強く降って来たら、駈け出して帰る
喜平は強情に主張するので、銀蔵は渋々ながら附き合っていると、雨はさのみ強く降らないで、やがて
「それ見ねえ。すぐ止んだ」
「だが、いやに薄ら寒くなって来たな」と、銀蔵は肩をすくめた。「夜が
ふたりは大通りを横切って、戸をおろしてある床店の暗い軒下にはいろうとすると、店と店とのあいだから一つの黒い影があらわれた。不意をくらって、ふたりは思わずためらっていると、その黒い影は静かに動き出した。それが