半七捕物帳(はんしちとりものちょう)38 人形使い
二「紋作さん。なんだかいやに時雨(しぐ)れて来ましたね」 十七八の色白の娘が結い立ての島田を見てくれというように、若い人形使いのまえに突き出した。紋作はまだ独身者(ひとりもの)で、下谷の五条天神から遠くない横町の、小さい小間物屋の二階に住んでいるのであった。 その小間物屋から四、五軒さきに、踊りや茶番の衣裳の損料貸しをする家があって、そこで操(あやつ)りの衣裳の仕立てや縫い直しなどを請(う)け負(お)っていた。小間物屋の娘お浜も手内職にそこの仕事を手伝いに行っているので、そんな係り合いから紋作とも自然に心安くなって、お浜の母も承知のうえで自分の二階を彼に貸すことになったのであった。お浜の家では四年ほど前に主人をうしなって、今では後家のお直(なお)と娘との二人暮らしである。そこへ転がり込んだ紋作は年も若い、芸人だけに垢抜けもしている。したがって近所では彼とお浜とのあいだに、いろいろの噂を立てる者もあったが、母のお直がなんにも聞かない振りをしているのを見ると、ゆくゆくは娘の婿にする料簡であろうなどと、早合点にきめている者もあった。いずれにしても、お浜と紋作とは仲がよかった。 紋作はすこし風邪(かぜ)をひいたというので、小さい長火鉢をまえにして、お浜にこの冬新らしく仕立てて貰った柔らかい広袖を羽織って坐っていた。かれは痩形のすこし疳持ちらしい、見るからに弱々しい男で、うす化粧でもしているかと思われるように、その若い顔を綺麗に光らせていた。お浜はその長火鉢の向うから彼の少し皺(しわ)めている眉のあたりを不安らしくながめた。「ほんとうに気分が悪いの。振出しでも買って来てあげましょうか」「なに、それ程でもないのさ」と、紋作は軽く笑った。「でも、きょうもまた稽古を休むんでしょう。阿母(おっか)さんがさっきそんなことを云っていました」「なにしろ、頭が重いから」と、紋作は気のないように云った。「だからお薬をおのみなさいよ。初日前にどっと悪くなると大変だわ」「悪くなれば休む分(ぶん)のことさ。今度の芝居はあまり気が進まないんだから、どうでもいい。いっそ休む方がいいかも知れない」 十一月の末の時雨(しぐ)れかかった空はまた俄かに薄明るくなって、二階の窓の障子に鳥のかげが映った。お浜は長火鉢に炭をつぎながら呟いた。「おや、鳥影が……。誰か来るかしら」「誰か来るといえば、芝居の方から誰も来なかったかしら」「いいえ、きょうはまだ誰も……」と、お浜は丁寧に炭をつみながら答えた。「定(さだ)さんの話に、おまえさんは今度は役不足だというじゃありませんか」「役不足という訳じゃあない」と、紋作は膝の前の煙管(きせる)をひき寄せた。「旅へ出てならともかくも、江戸の芝居で、わたしに判官と弥五郎を使わせてくれる。役不足どころか、有難い位のものさ。だが、どうも気が乗らない。今もいう通り、今度の芝居はいっそ休もうかとも思っているんだ」「なぜ」と、お浜は火箸を灰につき刺しながら向き直った。「あたし、おまえさんの判官がみたいわ。出使いでしょう」「無論さ。だが、師直(もろのお)が気にくわない。こっちが判官で、あいつに窘(いじ)められるかと思うと忌(いや)になる」 今度の狂言は「忠臣蔵」の通しで、師直と本蔵を使うのはかの吉田冠蔵であった。かたき同士の冠蔵を相手にして、三段目の喧嘩場をつかうのは紋作として面白くなかった。いっそ病気を云い立てにして今度の芝居を休んでしまおうと思っていた。「でも、休んじゃ困るでしょう、この暮にさしかかって……」「なに、どうにかなるさ」と、紋作は誇るように笑った。「芝居を一度や二度休んだって、まさかに雑煮(ぞうに)が祝えないほどのこともあるまい」「そりゃあそうかも知れないわ。根岸の叔母さんが付いているから」と、お浜は口唇(くちびる)をそらして皮肉らしく云った。 紋作が根岸の叔母をたずねて、ときどきに小遣いを貰ってくることをお浜は知っていた。しかしその叔母というのがなんだか怪しいものであった。お浜がいくら詮議しても、紋作が正直にその叔母の住所も身分も明かさないのをみると、どんな叔母さんだか判ったものではないと彼女はふだんから疑っていた。きょうもふと云い出したその忌味(いやみ)を、相手は一向通じないように聞きながしているので、若いお浜の嫉妬心はむらむらと渦巻いておこった。「ねえ、紋作さん。そうでしょう。おまえさんには根岸のいい叔母さんが付いているからでしょう。芝居に行かなくっても、ここの家(うち)にいなくっても、ちっとも困らないんでしょう」「そういう気楽な身分と見えるかしら。まあ、それでもいいのさ」と、紋作はやはり相手にしようとはしなかった。 なんだか馬鹿扱いにされているようで、お浜はいよいよ口惜(くや)しくなった。かれは膝を突っかけて又何か云い出そうとする時に、下から母のお直の呼ぶ声がきこえた。「お浜や。紋作さんのところへお客様」 来客と聞いて、お浜もよんどころなく立ち上がって、階子(はしご)をあがって来る三十四五歳の芸人を迎えた。かれは紋作の兄弟子(あにでし)の紋七という男であった。「お浜さん。いつも化粧(やつ)していやはるな。初日まえで忙がしいやろ」 笑いながら挨拶して、紋七は長火鉢のまえに坐った。お浜が遠慮して起(た)ったあとで、彼はにこやかに云い出した。「気分はどうや。えろう悪いか」 かれは病気見舞に来たのであった。冠蔵と紋作との不和を知っている彼は、紋作がきのうから病気を云い立てにして稽古にはいらないのを疑って、よそながらその様子を見とどけに来たのであった。来てみると、果たしてさのみの容態でもないらしいので、彼は紋作に意見した。たとい冠蔵と不和であろうとも、それがために芝居を怠っては座元にも済まない。自分のためにもならない。信州の旅興行には自分は一座していなかったから、どっちが理か非かよくは判らないが、ともかくも仲間同士が背中合わせになっているのはどっちのためにも悪い。冠蔵とは仲直りさせるように私がうまく扱ってやるから、きょうは我慢をして稽古にはいれ。まあ、なんにも云わずにこれから一緒に行けと、苦労人の紋七は噛んでふくめるように云い聞かせた。 ふだんからいろいろの世話になっている兄弟子が、こうしてわざわざ足を運んで来て、親切に意見をしてくれるのである。その厚意に対しても、紋作は強情を張っているわけには行かなくなった。もともとさしたる病気でもないので、結局かれは紋七の意見にしたがって、すぐに支度をして稽古にはいることになった。ふたりはお浜親子に見送られて小間物屋の店を出た。 楽屋へはいって、紋作はみんなと一緒に稽古にかかった。兄弟子が横眼でじろじろ視ているので、彼は気色(きしょく)のわるいのを我慢して冠蔵の師直と無事に打ち合わせをすませた。六段目までの稽古が済んで、もう討ち入りまでは用がないと、あとへ引きさがって煙草をすっていると、うしろから自分の腰を強く蹴って通るものがあった。楽屋がせまいので、大勢の人のうしろを通るのは窮屈に相違ないが、あまりに強く蹴られて紋作は勃然(むっ)とした。「誰だい」 振り返ってみると、それは衣裳をあつかっている定吉という者で、年はもう四十五六の、顔に薄あばたのある兎欠脣(みつくち)の男であった。かれはお浜の通っている衣裳屋の職人で、きょうも衣裳の聞き合わせのために楽屋へ来ているのであった。「どうも済まねえ。なにしろ、この通り繍眼児(めじろ)のおしくらだからね」と、定吉は鼻で笑いながら云った。 この挨拶の仕方が面白くないのと、故意に自分を強く蹴ったように思われたのと、冠蔵に対する不快を今までこらえていた八つあたりとで、紋作は素直に承知しなかった。「こみ合っているならこみ合っているように、気をつけて通れ、むやみに人を蹴飛ばす奴があるものか。楽屋に馬を飼って置きゃあしねえ」「馬とはなんだ。手前こそ馬と鹿とがつるみ合っていることを知らねえか」 相手も喧嘩腰であるので、紋作はいよいよ堪忍がならなかった。ふた言三言いい合って、かれは煙管をとって起ち上がろうとするのを、そばにいる者どもに押えられた。「ほんまの三段目や」 ひとりが云ったので、みんなも笑った。定吉は兎欠脣を食いしめながら、紋作を憎さげに睨んで出て行った。 稽古の終った頃には冬の日はもう暮れ切っていた。紋七は冠蔵になんと話したか知らないが、稽古が済んでから紋作を誘って、三人づれで池の端の小料理屋へゆくことになった。紋七はここで二人を和解させようという下ごころであった。酒のあいだに彼はうまく二人を扱ったので、冠蔵もしまいには機嫌よく笑い出した。紋作も渋い顔をしてはいられなくなった。赤堀水右衛門と石井兵助とをめでたく和解させて、紋七も先ず安心した間もなく、なにかの話から糸を引いて、いつかの人形の噂がまた繰り出された。「おい、紋作。あの人形はほんとうに斬り合ったのか」と、冠蔵は笑いながら訊(き)いた。「嘘じゃあない。たしかに見た」「じゃあ、まあ、ほんとうにして置くかな」と、冠蔵はまた笑った。 それが又、紋作には面白くなかった。今の冠蔵の口ぶりによると、かれは飽くまでも人形の不思議を信用しないのである。彼は飽くまでもこっちが故意に彼の人形を傷つけたように認めているらしい。紋作は嘲るように云った。「ほんとうにして置くも置かないもない。おれが確かに見とどけたんだから」「見とどけた。むむ、寝ぼけ眼(まなこ)でか」「寝惚け眼でも猿まなこでも、おれが見たと云ったら確かに見たんだ。人形にたましいのはいるというのは無いことじゃない」と、紋作はいきまいた。「そりゃあ人間が上手に使えばこそだ。なんの、木偶(でく)の坊がひとりで動くものか」「ええ、そういう貴様こそ木偶の坊だ」 双方がだんだんに云い募ってくるので、紋七も持て余した。「また三段目か、もうええ、もうええ、今更そんなことを云うてもあかんこっちゃ。木偶に魂があっても無(の)うてもかまわん。魂かえす反魂香(はんごんこう)、名画の力もあるならば……」 大きな声で唄いながら、彼はあはははははと高く笑い出した。喧嘩の出ばなを挫(くじ)かれて、二人もだまって苦笑(にがわら)いをした。それで人形問題は立ち消えになったが、席はおのずと白らけて来て、談話(はなし)も今までのように弾(はず)まなかった。紋七が折角の心づくしも仇(あだ)になって、三人はなんだか気まずいような顔をして別れることになった。 四ツ(午後十時)すこし前に紋作と冠蔵の二人はここを出た。ふたりともに可なりに酔っていた。紋七はあとに残って今夜の勘定をして、それから店の帳場へ寄って、稼業柄だけに愛嬌ばなしを二つ三つして、おかみさんや女中たちを笑わせているところへ、頬かむりをした一人の男が店口へついとはいって来た。「紋作はこっちに来ていますかえ」「たった今お帰りになりましたよ」と、女中のひとりが答えた。 それを十分聞かないで、男は消えるように出て行った。それから又すこししゃべって、店では提灯を貸してやろうと云うのを断わって、紋七もほろよい機嫌でここを出ると、上野の山に圧(お)し懸かっている暗い空には星一つみえなかった。不忍(しのばず)の大きな池は水あかりにぼんやりと薄く光って、弁天堂の微かな灯が見果てもない広い闇のなかに黄いろく浮かんでいた。寒そうな雁(かり)の声も何処かできこえた。「えろう寒うなった」 酔いも急にさめたように、紋七は首をすくめながら池の端の闇をたどってゆくと、向うから足早に駈けて来て彼に突きあたった者があった。あぶなく倒れそうになったのを踏みこらえて、また二、三間歩いてゆくと、今度はかれの足がつまずいたものがあった。それがどうも人間らしいので、紋七も不思議に思って、五段目の勘平のような身ぶりで暗がりを探ってみると、かれの手に触れたのは確かに人間であった。しかもぬるぬるとした生(なま)あたたかい血のようなものを掴(つか)んだので、かれは思わずきゃっと声をあげた。
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