半七捕物帳(はんしちとりものちょう)36 冬の金魚
二 それから半月あまりを過ぎた十二月のはじめに、お玉ヶ池に一つの事件が出来(しゅったい)して、近所の人たちをおどろかした。松下庵其月の家で、主人は何者にか斬り殺されて、女中のお葉は庭の池に沈んでいたのである。ふだんから普通の奉公人でないらしく思われているだけに、近所ではまたいろいろの噂を立てた。検視の役人は出張した。自分の縄張り内であるから、半七もすぐに駈け付けた。 俳諧師の庵(いおり)というだけに、家の作りはなかなか風雅に出来ていたが、其月の宅は広くなかった。門のなかには二十坪ほどの庭があって、その半分は水苔(みずこけ)の青い池になっていた。玄関のない家で、女中部屋の三畳、そのほかには主人が机をひかえている四畳半と、茶の間の六畳と、畳の数はそれだけに過ぎなかった。近所ではこの椿事(ちんじ)をちっとも知らなかったのであるが、かの道具屋の惣八が早朝にたずねて来て、枝折戸(しおりど)のようになっている門を推(お)すと、門はいつものように明いたので、なんの気もつかずにはいって行くと、松の木の根もとに女の帯の端(はし)がみえた。不思議に思って覗(のぞ)いてみると、その帯は紅い尾をひいたように池の薄氷のなかに沈んでいるのであった。試みにその帯の端をつかんで引くと、それは人間のからだに巻きついているらしい手応(てごた)えがしたので、惣八はびっくりした。 まえにも云う通り、玄関のない家で、すぐに四畳半の座敷へ通うようになっているので、惣八はあわててその雨戸を叩こうとすると、それまでもなく、雨戸は末の一枚が半分ほど明けてあったので、彼はそのあいだから内をのぞくと、小さい机は横さまに傾いて倒れて、筆や筆立や硯(すずり)のたぐいが散乱しているなかに、宗匠の其月はすこし斜めに仰向けに倒れていた。かれの半身はなま血に塗(まみ)れて、そこらに散っている俳諧の巻までも蘇枋(すおう)染めにしているので、惣八は腰がぬけるほどに驚いた。かれは這うように表へ逃げ出して、近所の人を呼び立てた。こういうわけで、惣八は第一の発見者である係り合いから、町内の自身番に留められていろいろの詮議をうけたが、彼はこの以外にはなんにも知らないと申し立てた。 この椿事が夜なかに起ったのでないのは、主人の部屋にも女中部屋にも寝床が敷いてないのを見ても察せられた。其月は机のまえに坐って、朱筆を持って俳諧の巻の点をしているところを、うしろからそっと忍び寄って、刃物でその喉を斬った。おどろいて振り向くところを、更にその頸筋を斬ったらしい。其月の死にざまは先ずそれで大抵わかったが、お葉はどうして死んだのか、ちょっと見当がつかなかった。自分で身を投げたのか、他人(ひと)に投げ込まれたのか、それすらも判らなかった。池から引き揚げられた彼女の死骸には傷のあとも見いだされなかった。 家内に紛失物もないらしいのを見ると、この惨劇が物取りでないこともほぼ想像された。主人の其月もまだ老い朽ちたという年でもないから、ひとり者の主人と若い奉公人とのあいだに、近所で噂するような関係があったとすれば、なにかの事情から、お葉が主人を殺害して、自分も身を投げて死んだものと認められないでもない。ほかに情夫(おとこ)でもあって、お葉が主人を殺したのならば、当人が自滅する筈はあるまい。あるいは何者かが其月を殺し、あわせてお葉を池のなかへ投げ込んだのかも知れない。下手人(げしゅにん)が手をおろさずとも、お葉がおどろいて逃げ廻るはずみに、自分で足をすべらして転(ころ)げ落ちたのかも知れない。しかし表の戸も明けてあり、寝床も敷いてないのであるから、それが宵のうちの出来事らしく思われるにも拘らず、近所隣りでこれほどの騒ぎを知らなかったというのは少し不思議であるが、大事件が人の知らない間に案外易々(やすやす)と仕遂げられた例はこれまでにもしばしばあるので、検視の役人たちもその点にはさのみ疑いを置かなかった。ただ、其月を殺したのはお葉の仕業(しわざ)か、あるいは主人も奉公人も他人の手にかかったのか、この事件の疑問は専らその一点に置かれているので、水にぬれたお葉の死骸は念を入れて検(あらた)められたが、別に手がかりとなるようなものも見いだされなかった。しかしその死骸が水を飲んでいるのをみると、息のあるうちに沈んだことだけは確かめられた。「どうでしょう。この池を掻掘(かいぼ)りさせるわけには行きますまいか」と、半七は云った。 池の底にどんな秘密がひそんでいないとも限らないので、役人たちもすぐに同意した。人足どもを呼びあつめて、師走(しわす)の寒い日にその池の掻掘りをはじめると、水の深さは一丈を越えていて、底の方から大小の緋鯉や真鯉が跳ね出して来たが、そのほかにはこれというような掘出し物もなかった。お葉のさしていたらしい櫛が一枚あらわれた。小半日をついやして、これだけの獲物(えもの)しかないので、役人たちも失望した。それから家内を隈なく猟(あさ)ってみたが、どこも皆きちんと片付いていて別に取り散らしたような形跡もみえなかった。差しあたりはこの以上に詮議のしようもないので、あとの探索は半七にまかせて、役人たちは一旦引き揚げた。 半七はあとに残って、其月の身許(みもと)しらべに取りかかった。かれの親類や、かれの弟子や、出入りの者や、それらの住所姓名を一々に調べることにした。子分の庄太を千住へやって、お葉の身許もしらべさせた。検視が済んでも、誰かその始末をする者がなくては、二つの死骸をどうすることも出来ないので、家主と近所の者四、五人があつまって来て、ともかくもその死骸の番をしていることになった。半七も坐っていた。みじかい冬の日がもう暮れかかる頃になって、其月の弟子たちがだんだんに寄って来たが、かれらは不慮の出来事におどろき呆れているばかりで、どの人の口からも何かの手がかりになるような新らしい材料をあたえてくれなかった。あかりの点(つ)く頃に半七はそこを出て、町内の自身番へゆくと、道具屋の惣八は飛んだ係り合いで、まだそこに留められているので、番屋の炉のそばに寒そうに竦(すく)んでいた。「道具屋さん。お気の毒だね。節季師走(せっきしわす)のいそがしい最中に、いつまでも留められていちゃあ困るだろう。もういい加減に帰っちゃあどうだね」「帰ってもよろしゅうございましょうか」と、惣八は生きかえったように云った。「どうで直ぐには埓(らち)があきそうもねえから、用があったら又よび出すとして、今夜はいったん帰ったらよかろう」「ありがとうございます。お呼び出しがあればきっと直ぐにまいります」と、惣八はあわてて帰り支度にかかった。「だが、ちょいと待ってくんねえ」と、半七は声をかけた。「すこし訊(き)きてえことがある。こっちでも手を入れて調べさせてはあるが、あのお葉という女中、あれは唯の奉公人じゃあるめえ、主人と係り合いがあるんだろうね」「どうもそうらしいという評判です。わたくしもよくは知りませんが……」と、惣八はあいまいに答えた。「長年(ちょうねん)しているのかえ」「おととし頃から来ているように思います。ことしはたしか十八になりましょう。そんなことはお弟子のうちでも其蝶(きちょう)という人がよく知っている筈です」 其蝶は本名を長次郎といって、惣八と同商売の尾張屋という家(うち)の惣領息子であるが、俳諧に凝りかたまって店の仕事は碌々見向きもしないので、おやじが去年死んだ後、おふくろは親類と相談の上で、妹娘のお花に婿をとって、其蝶の長次郎は別居させることになった。其蝶も結局それを仕合わせにして、若隠居というほどの気楽な身分でもないが、ともかくも柳原に近いところに小さい家を借りて、店の方から月々いくらかの小遣いを貰って暮らしている。しかしそれだけでは勝手向きが十分でないので、来年の春には師匠の其月をうしろ楯に、立机(りゅうき)の披露をさせて貰って、一人前の俳諧の点者として世をわたる筈になっている。かれは今年二十六で、女房も持たず、下女もおかず、六畳と四畳半とふた間の家に所謂(いわゆる)ひとり者の暢気(のんき)な生活をしているとのことであった。「その其蝶とお葉とおかしいようなことはあるめえな」と、半七は笑いながら訊(き)いた。「さあ」と、惣八もすこし考えていた。「そんなことは知りません。其蝶は師匠の家へ足を近く出入りはしていますが、まさかにそんなことはないでしょう。風流一方に凝りかたまっている偏人ですからね」「あの宗匠は都合がいいかえ」「相当に名前も売れていて、点をたのみに来るものも随分あるようですから、困るようなことはありますまい。いい弟子や、いい出入り先もありますから、内職のほうでも又相当の収入(みいり)があるようです」「内職とはなんだえ。掛物や短冊の売り込みかえ」「まあ、そうです」と、惣八はうなずいた。「わたくし共もときどきに持ち込みますが、筋のいい物でさえあれば大抵どこへか縁付けてくれます」「おまえさん、この頃に何か持ち込んだかえ」「へえ」と、惣八はなんだか詞(ことば)をにごしていた。「隠しちゃあいけねえ。正直に云ってくれ。ほんとうに何か持ち込んだのかよ」「芭蕉と其角の短冊を持って行きました」「それだけかえ。そうして、それはどうした」「どうも筋がよくないというので、取り合ってくれませんでした」と、惣八はにが笑いをした。 店さきのうす暗い行燈(あんどう)のひかりで、半七はその顔色をじっと睨んでいたが、やがて少しく形をあらためた。「おい、惣八。おめえはなぜ隠す。短冊や色紙のほかに、あの宗匠のところへ何か持ち込んだものがあるだろう。正直に云わねえじゃあいけねえ」「へえ」「へえじゃあねえ。はっきり云いねえ。下手(へた)に唾(つば)を呑み込んでいると、いつまでも帰さねえよ」 ずいぶん悪摺れのしているらしい惣八も、半七に睨まれてさすがにうろたえた。なにぶんにも相手が相手であるので、なまじい隠し立てをしてはよくないと早くも観念したらしく、かれは正直に白状した。「実はわたくしもそれに就いて少々迷惑していることがありますので……。それで今朝も宗匠のところへ出かけますと、あの一件で……。いや、どうも驚いているのでございます」 それは例の金魚の一条であった。芭蕉と其角の短冊は問題にされなかったが、金魚の方は心あたりがあるというので、四、五日経ってから惣八は再びその模様を探りに行くと、其月はその売れ口があると云ったので、惣八はよろこんで帰って、早速その売り主の元吉というのを連れて行くことになった。一番(ひとつが)いの朱錦を小さい塗桶のようなものに入れて、元吉が大切にかかえて行った。見たところ普通の金魚と変らないのであるから、まず眼のまえで試(ため)してみなければならないというので、其月の家ではありあわせの銅盥(かなだらい)に湯を入れて持ち出した。湯のなかで生きていられるといっても熱湯ではとても堪まらないのであるから、売り主はいいくらいに湯加減をして置いて、さてその金魚を放してみると、二匹ながら紅い尾を振って威勢よく泳ぎまわったので、其月も得心(とくしん)した。惣八も今更のように感心した。これでいよいよ其月の手でどこへか売り込んでくれることに決まったが、其月はその売り先を明かさなかった。わたしにあずけて置いて下されば、きっと云い値で売ってあげると云った。かれが売りさきを明かさないのは、おそらくこっちの云い値以上に売り込んで、そのあいだで幾らかの儲けを見るつもりであろうと察したので、惣八らも深く詮議しなかった。売り込みで儲けた上に、こっちからも約束の礼金を取って、其月は二重の利益を得るわけであるが、それはめずらしくもないことであるので、惣八らも怪しまなかった。ふたりは何分おねがい申すと云って、かの金魚をあずけて帰ると、それから又五、六日の後にお葉が使に来て、惣八にいつでも来てくれと云うので、かれはすぐに出かけてゆくと、其月は金魚の代金八両二分をとどこおりなく渡してくれた。惣八ははじめの約束通りに、そのうちから二両の礼金を置いて帰った。 これで片が付いたと思っていると、三日ほどの後に又もやお葉が迎えに来たので、惣八は何ごころなく行ってみると、其月がひどくむずかしい顔をして待っていた。そうして、おまえは多年わたしの家に出入りをしていながら、実に怪(け)しからん男だ。あんないかさま物を持ち込んで来て、人をぺてんにかけるとは何事だと、あたまから呶鳴(どな)りつけた。惣八は面喰らって、その仔細をだんだんに聞き糺すと、かの金魚は普通のもので、湯のなかで生きるものではないというのであった。なるほど、ここで試(ため)した時には無事であり、先方へ持って行って試した時にも無事であったが、金魚は二匹ながらその翌日死んでしまった。察するにこれは普通の金魚の肌へ何か薬をぬりつけて、一時を誤魔化したものに相違ない。その薬がだんだん剥(は)げるにしたがって、金魚は弱って死んだのであろう。そんな騙(かた)りめいたことをして済むと思うか。第一、売り先に対してわたしが面目を失うことになる。この始末はどうしてくれると、其月はひたいに青い筋をうねらせて手きびしく責めた。「親分の前ですが、その時はまったく困りましたよ」と、惣八は今更のように溜息をついた。
上一页 [1] [2] [3] [4] 下一页 尾页