三
酒屋で帳場に居あわせた亭主が庄太の顔をみて丁寧に挨拶した。ふたりは店に腰をかけて、下女のお伝が何者にか啖い殺された当夜のありさまを聞きただしたが、これも薄暗がりの時刻であり、且は不意の出来事であるので、亭主は二人が満足するような詳しい説明をあたえることは出来なかった。しかしお伝は二年越しここに奉公している正直者で、今までに浮いた噂などは勿論なかったと亭主は証明した。 二人はここを出て、山の宿の小間物屋をたずねたが、これは誰も知らないあいだの出来事であるので、そこの女房がどうして殺されたのか、まるで判らなかった。 「親分。しようがありませんねえ」と、庄太はそこの店を出て、汗をふきながら舌打ちした。 「まあ、あせるな。これでも眼鼻はだんだんに付いて行く。これからおめえの隣りへ行こう」 庄太は自分の住んでいる露路のなかへ半七を案内すると、となりのお作の家には近所の人達があつまっていた。庄太の女房も手伝いに行っていたが、半七の来たのを知ってあわただしく帰って来た。お作のとむらいは今日の夕方に出るはずだと彼女は話した。 半七は更に庄太に案内させて、露路の奥を見まわった。庄太の云った通り、ぬけ裏のゆき止りを竹垣でふさいであったが、その古い竹はもうばらばらに頽れかかっていた。そばには共同の大きい掃溜めがあって、一種の臭いが半七の鼻をついた。こういう露路の奥の習いで、そこらの土はじくじくと湿っているのを、半七は嗅ぐように覗いてあるいた。家へ帰ると庄太はささやいた。 「お作のおふくろを呼んで来ましょうか」 「そうさなあ、こっちへ来て貰った方が静かでいいな」と、半七は云った。 お作の母はすぐに隣りから呼ばれて来た。ひとり娘をうしなったお伊勢は眼を泣き腫して半七のまえに出た。かれは五十に近い大柄の女であった。 「どうも飛んだことだったね」と、半七は一と通りの悔みを云った上で、あらためて訊いた。「そこで早速だが、ゆうべのことに就いてなんにも心あたりはねえのかえ」 お伊勢は鼻をすすりながら昨夜の顛末を訴えたが、それは庄太の報告とおなじもので、別に新らしい事実を探り出すことは出来なかった。半七はまた訊いた。 「その女の人相というのはちっとも判らなかったかえ」 その女が白地の手拭をかぶって、白地の浴衣を着ていたのは、お伊勢もたしかに認めたが、そのほかのことは夜目遠目でやはりはっきりとは判らなかった。しかしそれが若い女であるらしいことは、彼女もお捨の申し立てと一致していた。 「その女は跣足だったかえ」 「はい、どうもそうらしゅうございました」と、お伊勢は思い出したように云った。 年のわかい、白地の浴衣を着た跣足の女、それだけのことはもう疑う余地がなかった。半七はその上にもう少し何かの手がかりを得たかったが、相手はとかくに涙が先に立つので、しどろもどろのその口から何も聞き出せそうもないと諦めて、半七はそのままお伊勢を帰してやることにした。 「どうぞ娘のかたきをお取りください」 お伊勢はくり返して頼んで帰った。やがてもう午に近くなったので、半七は庄太を誘い出して近所の小料理屋へ飯を食いに出た。 「どうですえ、親分。お調べはもうこんなものですか」と、庄太は酌をしながら小声で訊いた。 「どうも仕方がねえ。差し当りはこのくらいかな」と、半七も小声で云った。「そこで、おれの考えじゃあ、この一件は二つの筋が一つにこぐらかっているらしい。まず人を啖い殺すやつは獣物だな」 「そうでしょうか」 「人を啖うばかりじゃあねえ。そこらで鶏がたびたびなくなるという。勿論、鬼娘が見あたり次第に相手を取っ捉まえて、人間でも鳥でも構わずに、その生血を吸うのだと云えばいうものの、どうもそうとは思われねえ。ちょいと、これをみてくれ」 半七は袂をさぐって、鼻紙にひねったものを出すと、庄太は大事そうにあけて見た。 「こんなものをどこで見付けたんですえ」 「それは露路の奥の垣根に引っかかっていたのよ。勿論、あすこらのことだから何がくぐるめえものでもねえが、なにしろそれは獣物の毛に相違ねえ」 「そうですね」と、庄太は丁寧に紙をひろげて、その上にうず巻いているような五、六本の黒い毛を透かすように眺めていた。 「まだそればかりじゃあねえ。垣根の近所には四足のあとが付いていた。と云ったら、犬や猫のようなものは幾らも其処らにうろついているというだろうが、おれはちっと思い当ることがあるから、こうして大事に持って来たんだ」 半七は彼の耳に口をよせてささやくと、庄太は幾たびかうなずいた。 「そうかも知れませんね。ところで、鬼娘の方はなんでしょう。やっぱり気ちがいでしょうかね」 「気ちがいかなあ」と、半七は相手をじらすように笑っていた。 「だって、おまえさん。猫じゃ猫じゃでも踊りゃあしめえし、手拭をかぶって、浴衣を着て、跣足でそこらをうろうろしているところは、どうしても正気の人間の所作じゃありませんぜ。ねえ、そうでしょう」と、庄太は少し口を尖らせた。 「それもそうだが、まあ聴け」 半七は再び彼にささやくと、庄太はだんだんに顔を崩して笑い出した。 「なるほど、なるほど、いや、どうも恐れ入りました。きっとそれです、それに相違ありませんよ」 「ところで、それについて何か心あたりはねえかな」 庄太は更に顔をしかめて考えていたが、やがて両手をぽんと打った。 「あります、あります」 「あるかえ」 「もし、親分。こういうお誂え向きのがありますぜ」 今度は庄太がささやくと、半七はほほえんだ。 「もう考えることはねえ。それだ、それだ」 二人は手筈をしめし合わせて一旦別れた。半七はそれから小梅の知己をたずねて、夕七ツ(午後四時)を過ぎた頃に再び庄太の家をたずねると、となりの葬式の時刻はもう近づいて露路のなかは混雑していた。ふだんから評判のよくない母子ではあったが、それでも近所の義理があるのと、もう一つにはお作の横死が人々の同情をひいたとみえて、見送り人は案外に多いらしかった。庄太の家では女房が子供を連れて会葬することにして、庄太は半七の来るのを待っていた。 「もう帰ったのか」 云いながら半七は家へはいると、庄太は待ち兼ねたように出て来て、すぐに半七を招じ入れた。 「さっき帰って来て、待っていましたよ」と、庄太は誇るように云った。「まったく親分の眼は高けえ、十に九つは間違いなしですよ。大抵のことはもう判りました」 「そりゃあお手柄だ。やっぱりおれの鑑定通りだな」 「そうです、そうです」 かれが摺り寄ってささやくのを、半七は一々うなずきながら聴いていた。 「そうすると、さっきの約束通りにするかな」 「そうするよりほかにしようがありますまい」と、庄太も云った。「なにしろ確かな証拠を握らないじゃあ、あとが面倒ですからね」 「まったくだ。あとで世話を焼かされるのも困るからな。じゃあ、仕方がねえ。いよいよ一と汗かくかな」 「それほどのこともありますめえ」 「そうでねえ。むこうには怖ろしい味方が付いているからな」と、半七は笑った。「だが、まだ早い。隣りのとむらいの門送りでも済ませてから、まあ、ゆっくり出掛けるとしようぜ」 「ええ、暗くなるにはまだ間がありますからね。腹ごしらえでもして、ゆっくり出かけましょう」 「ちげえねえ。戦場だからな」 「鰻でも取りますか」 「それがよかろう」 鰻の蒲焼を註文して、二人は早い夕飯を済ませると、七月の日もかたむいて来た。露路のなかはひとしきり騒がしくなって、となりの送葬もとどこおりなく出てしまうと、半七ひとりを残して庄太は再びどこへか忙がしそうに出て行った。あたりはだんだんに薄暗くなって、どこからとも無しに藪蚊のうなり声が湧き出して来たので、半七は舌打ちした。 「庄太の奴め、そそくさして、蚊いぶしを忘れて出て行きゃあがった。とてもやりきれねえ。そこらに道具があるだろう」 半七は台所へ行って、土焼きの豚をさがし出して来た。更にそこらを捜しまわって、ようやく蚊いぶしの支度をしたところへ、一人の男がたずねて来た。 「庄太さん。内ですかえ」 「あい、あい」と、半七はすぐに起って出た。「おまえさんは庄太にたのまれて来なすったんじゃあねえかね。わたしは半七ですよ」 「親分さんですか」と、男は会釈した。「さっき庄太さんから話があったもんですから」 「どうも御苦労さん。おまえさんに少し手を貸して貰わなけりゃあならねえことが出来たんでね。まあ、おかけなせえ」 この男にも何かささやくと、かれは笑いながらうなずいた。 「大丈夫かね」と、半七は念を押した。 「まあ、うまくやりましょう」 「ここにいて藪蚊に責められているのも知恵がねえ。おまえさんが丁度来たから、もうそろそろ出かけるとしようか」 形ばかりに戸をひき立てて、内は留守だからと隣りの人にことわって、半七はかの男と共に露路を出ると、表通りはもう夜になっていた。かねて打ち合わせがしてあるので、半七はなるべく往来の少ないところを択んで、善竜院という寺の角に立った。この寺には弁天が祀ってあるので近所でも知られていた。ここらは一種の寺町ともいうべきところで、両側に五、六軒の寺がむかい合っていて、古い練塀や生垣の内から大きい樹木の枝や葉の拡がっているのが、宵闇の夜をいよいよ暗くしていた。そこらの大溝ではもう秋らしい蛙の声が寂しくきこえた。半七は頬かむりをして寺の門前に立つと、連れの男は折り曲がった練塀の横手にかくれて、蜘蛛のように塀ぎわに身をよせていた。 吉原通いらしい鼻唄の声を聴きながら、二人はここに半刻ほども待ち暮らしていると、暗いなかから人の来るような足音が低くきこえた。勿論、今までに幾人も通ったが、北の方からきこえて来るその足音がどうも待っているものであるらしく直覚されたので、半七は咳きの合図をすると、塀の横手からもその返事があった。 北から来る足音はだんたん近づいて、それは素足で土を踏んでいるようで、極めて低い潜めいた響きであったが、耳のさとい半七にはよく聴き取れた。注意して耳をすますと、それは人の足音ばかりでなく、四つ這いに歩く獣の足音もまじっているらしかった。何分にも暗いので、半七は星あかりに透かしながら声をかけた。 「もし、姐さん」 人はなんにも答えなかったが、暗い底で俄かに獣の唸るような声が低くきこえた。半七は再び咳払いをすると、塀の横手から彼の男が跳り出た。かれは太い棒を持っているのであった。暗いなかで獣の唸える声がけたたましく聞えた。同時にここへ駈けてくる草履の音が聞えた。 逃げようとする女は、半七に曳き戻されて、寺の門前に捻じ伏せられた。人と獣との闘いもやがて終ったらしく、寺町の闇は元の静けさにかえった。 「どうした」と、半七は声をかけた。「石橋山の組討ちで、ちっとも判らねえ」 「大丈夫です」 それは庄太の声であった。
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