時代推理小説 半七捕物帳(一) |
光文社時代小説文庫、光文社 |
1985(昭和60)年11月20日 |
1986(昭和61)年12月1日第5刷 |
一
半月ばかりの避暑旅行を終って、わたしが東京へ帰って来たのは八月のまだ暑い盛りであった。ちっとばかりの土産物を持って半七老人の家をたずねると、老人は湯から今帰ったところだと云って、縁側の蒲莚のうえに大あぐらで団扇をばさばさ遣っていた。狭い庭には夕方の風が涼しく吹き込んで、隣り家の窓にはきりぎりすの声がきこえた。 「虫の中でもきりぎりすが一番江戸らしいもんですね」と、老人は云った。「そりゃあ値段も廉いし、虫の仲間では一番下等なものかも知れませんが、松虫や鈴虫より何となく江戸らしい感じのする奴ですよ。往来をあるいていても、どこかの窓や軒できりぎりすの鳴く声をきくと、自然に江戸の夏を思い出しますね。そんなことを云うと、虫屋さんに憎まれるかも知れませんが、松虫や草雲雀のたぐいは値が高いばかりで、どうも江戸らしくありませんね。当世の詞でいうと、最も平民的で、それで江戸らしいのは、きりぎりすに限りますよ」 老人はしきりに虫の講釈をはじめて、今日では殆ど子供の玩具にしかならないような一匹三銭ぐらいの蟋蟀を大いに讃美していた。そうして、あなたも虫を飼うならきりぎりすを飼ってくださいと云った。虫の話がすんで風鈴の話が出た。それから今夜は新暦の八月十五夜だという話が出た。 「暦が違いますから八月でもこの通り暑うござんすよ。これが旧暦だと朝晩はぐっと冷えて来るんですがね」 老人は又むかしのお月見のはなしを始めた。そのうちにこんな話が出て、わたしの手帳に一項の記事をふやした。
文久二年八月十四日の夕方であった。半七がいつもより早く家へ帰って、これから夕飯をすませて、近所の無尽へちょいと顔出しをしようと思っていると、小さい丸髷に結った四十ばかりの女が苦労ありそうな顔を見せた。 「親分。どうも御無沙汰をいたして居りました。いつも御機嫌よろしゅう、結構でございます」 「おお、お亀さんか。久しく見えなかったね。お蝶坊も好い新造になったろう。あの子もおとなしく稼ぐようだから阿母もまあ、安心だ」 「いえ、実はそのお蝶のことに就きまして、今晩お邪魔にあがりましたのでございますが、どうもわたくし共にも思案に余りましてね」 四十女のひたいの皺をみて、半七は大抵想像がついた。お亀は今年十七になるお蝶という娘を相手に、永代橋の際に茶店を出している。お蝶は上品な美しい娘で、すこし寡言でおとなし過ぎるのを疵にして、若い客をひき寄せるには十分の価をもっていた。お亀もこの美しい娘を生んだことを誇りとしていた。その娘について何か苦労が出来たといえば、半七でなくても大抵の見当は付く。親孝行のお蝶が親よりも更に大事な人を見付けだしたという紛糾に相違ない。稼業が稼業だけに、それをやかましく云うのも野暮だと半七は思った。 「じゃあ、なんだね。お蝶坊が何かこしらえて、阿母に世話を焼かせるというわけだね。まあ、ちっとぐらいのことは大目に見てやる方がいいぜ。若い者のこった、ちっとは面白いこともなけりゃあ稼ぐ張り合いがねえというもんだ。阿母だって覚えがあるだろう。あんまりやかましく云わねえがよかろうぜ」と、半七は笑っていた。 お亀は莞爾ともしないで、相手の顔をじっと見つめていた。 「いいえ、おまえさん。なかなかそんな訳じゃございませんので……。なに、情夫でもこしらえたとかいうような浮いたお話なら、おっしゃる通り、わたくしも大抵のことは大目に見て居りますけれども、どうもそれがまことに困りますので……。当人もふるえて泣いて居りますような訳で……」 「おかしな話だな。一体そりゃあどうしたというんだね」 「娘がときどき影を隠しますので……」 半七はやはり笑って聴いていた。若い茶屋娘が時々に影をかくす――そんなことは殆ど問題にならないというような顔をしているので、お亀もすこし急き込んだ。 「いいえ、それが情夫や何かのこととはまるで訳が違いますので……。まあお聴きくださいまし。丁度この五月の川開きの少し前でございました。一人のお供を連れた立派なお武家がわたくしの店のまえを通りかかりまして、ふと店にいる娘を見ましてふらふらと店へはいって来たんでございます。それからお茶を飲んでしばらく休んで、お茶代を一朱置いて行きました。まことに好いお客様でございます。それから三日ほど経つと、そのお武家がまたお出でになりましたが、今度は三十五六ぐらいの品の好い御殿風の女の方と一緒でございました。どうも御夫婦ではないようでした。そうして、その女の方がお蝶の名を訊いたり、年をきいたりして、やっぱり一朱のお茶代を置いて行きました。それから又三日ばかり経ちますと、お蝶の姿が見えなくなったんでございます」 「むむ」と、半七はうなずいた。 かれらは一種のかどわかしで、身分のありそうな武士や女に化けて来て、容貌のいい娘をさらって行ったに相違ない、と半七は鑑定した。 「娘はそれぎり帰らねえのかえ」 「いいえ。それから十日ほど経つと、夕方のうす暗い時分に真っ蒼な顔をして帰って来ました。わたくしもまあほっとして其の仔細を訊きますと、娘が最初に姿を隠しましたのも、やっぱり夕方のうす暗い時分で、わたくしが後に残って店を片付けておりまして、娘は一と足先へ帰りますと、浜町河岸の石置き場のかげから、二、三人の男が出て来まして、いきなりお蝶をつかまえて、猿轡をはめて、両手をしばって、眼隠しをして、そこにあった乗物のなかへ無理に押し込んで、どこへか担いで行ってしまったんだそうでございます。娘も夢中で揺られて行きますと、それから何処をどう行ったのか判りませんが、なんでも大きな御屋敷のようなところへ連れ込まれたんだそうで……。それも遠いか近いか、ちっとも覚えていなかったそうでございます」 お蝶はそれから奥まった座敷へつれて行かれた。三、四人の女が出て来て、かれの眼隠しや猿轡をはずして、両手の縛めをも解いてくれた。やがてこの間の女が出て来て、さぞびっくりしたろうが、決して案じることもない、怖がることもない、唯おとなしくして、わたし達の云う通りになっていれば好いと、優しくいたわってくれた。年の若いお蝶はただおびえているばかりで捗々しい返事もできないのを、女はなおいろいろ慰めて、まずしばらく休息するがいいと云って、茶や菓子を持って来てくれた。それから風呂へはいれと云って、ほかの女たちに案内させた。お蝶はやはり夢中で湯殿へ行った。 風呂が済むと、また別の広い座敷へ案内された。そこには厚い美しい座蒲団が敷いてあった。床の間の花瓶には撫子がしおらしく生けてあって、壁には一面の琴が立ててあったが、もう眼が眩んでいるお蝶には何がなにやら能くもわからなかった。 この間の女が再び出て来て、お蝶に髪をあげろと云った。ほかの女たちが寄って彼女の髪をゆい直すと、今度は着物を着かえろと云った。女たちがまた手伝って、衣桁にかけてある艶やかなお振袖を取って、お蝶のすくんでいる肩に着せかけた。錦のように厚い帯をしめさせた。まるで生まれ変ったような姿になって、お蝶は自分のからだの始末に困って唯うっとりと突っ立っていると、女たちは彼女の手をひいて座蒲団のうえに押し据えた。それから経脚のようになっている小さい机を持ち出して来て彼女のまえに置いた。机のうえには二、三冊の立派な本がのせてあった。女たちは更に香炉を持って来て机のそばへ置くと、うす紫の煙がゆらゆらと軽く流れて、身にしみるような匂いにお蝶はいよいよ酔わされた。秋草を画いた絹行燈がおぼろにとぼされて、その夢のような灯の下に彼女も夢のような心持でかしこまっていた。 女たちは一冊の本を机の上にひろげて、お蝶にすこし俯向いて読んでいろと云った。魂はもう半分ぬけているようなお蝶は、なにを云われても逆らう気力はなかった。かれは人形芝居の人形のように、他人の意志のままに動いているよりほかはなかった。彼女はおとなしく本に向っていると、さぞ暑かろうと云って、一人の女が絹団扇で傍から柔かにあおいでくれた。 「口を利いてはなりませんぞ」と、このあいだの女がそっと注意した。お蝶はただ窮屈そうに坐っていた。 やがて縁伝いに軽い足音が静かにきこえて、三、四人の人がここへ忍んで来るらしかったが、顔をあげてはならないと、この間の女がまた注意した。そのうちに縁側の障子が音も無しに少しあいたらしく思われた。 「見てはなりませぬぞ」と、女はおどすように小声でまた云った。 どんな恐ろしいものが窺っているのかと、お蝶はいよいよ身をすくめて、ただ一心に机を見つめていると、障子は再び音も無しにしまって、縁側の足音はしだいに遠くなってゆくらしかった。お喋はほっとすると、腋の下から冷たい汗が雨のように流れ落ちた。 「御苦労でありました」と、女はいたわるように云った。「もう当分は打ちくつろいでいてもよかろう」 今まで薄暗かった行燈の灯はかき立てられて、座敷は俄かに明るくなった。女たちが夜食の膳を運んで来た。時分をすぎてさぞ空腹かったであろうと女たちが丁寧に給仕して、お蝶は蒔絵の美しい膳のまえに坐らせられたが、かれは胸が一ぱいに詰まっているようで、なんにも咽喉へ通りそうもなかった。かずかず列べられた見事な御料理にも彼女は碌々箸をつけなかった。ともかくも食事が済むと、また少し休息するがよかろうと云って、このあいだの女はしずかにその席を起った。ほかの女たちも膳を引いてどこへか消えてしまった。 たった一人そこに取り残されて、はじめて幾らかの人心地のついたお蝶は、どう考えても夢のようで何がなにやら見当が付かなかった。もしや狐に化かされているのではないかとも思った。一体ここの人達は、どういう料簡で自分をここへ連れて来て、美しい着物をきせて、旨いものを食わせて、こんな立派な座敷に住まわせて、みんなが大切そうに侍いてくれるのであろう。芝居や浄瑠璃にあるように、わたしを誰かの身代りにして首でも打って渡すのではあるまいか、とお蝶はまた疑った。 なにしろ、こんな薄気味の悪いところは一刻も早く逃げ出したいと思ったが、どこからどう抜け出していいか、彼女にはとても方角が立たなかった。 「庭へ出たらどこか逃げ路が見付かるかも知れない」 お蝶は一生の勇気をふるい起して、息を殺しながらそろりそろりと滑っこい畳の上を忍んであるいた。ふるえる手先が障子にかかると、出会いがしらに一人の女がはいって来た。お蝶ははっと立ちすくむと、便所ならば御案内すると云って彼女が先に立って行った。縁側へ出ると広い庭が見えた。月のない夜で、真っ暗な木立のあいだに螢のかげが二つ三つ流れていた。遠いところで梟の声もさびしく聞えた。 もとの座敷へ帰ってくると、いつの間にか其処には寝床が延べられて、雁金を繍った真っ白な蚊帳が涼しそうに吊ってあった。このあいだの女がまた何処からか現われた。 「もうお休みなさるがよい。ことわって置きますが、たとい夜なかにどんなことがあっても、かならず顔をあげてはなりませぬぞ」 手を取るようにして蚊帳のなかへ押し込まれて、お蝶は雪のように白い衾につつまれた。どこかで四ツ(午後十時)の鐘がひびいた。幽霊のような女たちは足音もせずに再びそっと消えてしまった。 その晩がおそろしかった。
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