打印本文 打印本文 关闭窗口 关闭窗口

鼠(ねずみ)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-28 9:23:49 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


     二

 近江屋七兵衛がよろこぶのも無理はなかった。彼はこの木曾の奈良井の宿で、一旦失った手のうちのたまを偶然に発見したのである。
 七兵衛は四谷の忍町に五代つづきの質屋を営んでいて、女房おこのと番頭庄右衛門のほかに、手代三人、小僧二人、女中二人、仲働き一人の十一人家内で、おもに近所の旗本や御家人ごけにんを得意にして、手堅い商売をしていた。ほかに地所家作かさくなども持っていて、町内でも物持ちの一人にかぞえられ、何の不足もない身の上であったが、ただひとつの不足――というよりも、一つの大きい悲しみは娘お元のゆくえ不明の一件であった。
 今から十一年前、寛政四年の暮春のゆうがたに、ことし七つのひとり娘お元が突然そのゆくえをくらました。最初は表へ出て遊んでいるものと思って、誰も気に留めずにいたのであるが、夕飯頃になっても戻らないばかりか、近所にもその姿が見えないというので、家内は俄にさわぎ出した。七兵衛夫婦は気ちがいのようになって、それぞれに手分けをして探させたが、お元のゆくえは遂にわからなかった。
 この時代には神隠しということが信じられた。人攫ひとさらいということもしばしば行われた。お元は色白の女の子であるから、悪者の手にかどわかされたのかも知れないという説が多かった。いずれにしても、ひとり娘を失った七兵衛夫婦の悲しみは、ここに説明するまでもない。お此はその後三月ほどもぶらぶら病で床についたほどであった。七兵衛も費用を惜しまずに、出来るかぎりの手段をめぐらして、娘のゆくえを探り求めたが、飛び去った雛鳥はふたたび元のかごに帰らなかった。
 そのうちに、一年過ぎ、二年を過ぎて、近江屋の夫婦は諦められないながらに諦めるのほかはなかった。それでも何時いつどこから戻って来るかも知れないという空頼みから、近江屋ではその後にも養子を貰おうとはしなかった。お元が無事であれば、ことしは十八の春を迎えることになる。ゆくえの知れない子供の年をかぞえて、お此は正月早々から涙をこぼした。
 七兵衛が今度の伊勢まいりは四十二の厄除やくよけというのであるが、そのついでに伊勢から奈良、京大阪を見物してあるく間に、もしやわが子にめぐり逢うことがないともいえない。そんな果敢はかない望みも手伝って、長い道中をつづけて来たのであるが、ゆく先々でそれらしい便りも聞かず、望みの綱もだんだんに切れかかって、もう五、六日の後には江戸入りということになった。その木曾街道で測らずも熊の胆を売る娘に出逢ったのである。七つのときに別れたのであるが、その幼な顔が残っている。年ごろも丁度同様である。気をつけて見ると、右の耳の下に証拠の黒子ほくろがある。さらに念のために詮議すると、左の二の腕に青い痣があるという。もう疑うまでもない、この娘はわが子であると、七兵衛は思った。彼は喜んで涙を流した。
 正直な伊平は思いもよらぬ親子のめぐり逢いに驚いて、異議なくかれを実の親に引渡すことになったので、七兵衛は多分の礼金を彼にあたえて別れた。お糸という名は誰に付けられたのか好く判らないが、娘はむかしのお元にかえって、十一年目に再会した父と共に奈良井の宿を立去った。甥の梅次郎も手代の義助も、不思議の対面におどろきながら、これも喜び勇んで付いて行った。
 江戸を出るときには男三人であったこの一行に、若い女ひとりが加わって帰ったのを見た時に、近江屋の家は引っくり返るような騒ぎであった。女房も番頭も嬉し泣きに泣いた。近江屋からはちょう役人にも届け出て、お元は再びこの家の娘となった。この話もこれで納まれば、筆者もめでたく筆をおくことが出来るのであるが、事実はそれを許さないで、さらに暗い方面へ筆者を引摺って行くのであった。
 お元が無事に戻って来たのを聞き、親類たちもみんな喜んで駈けつけた。町内の人々も祝いに来た。その喜ばしさと忙しさに取りまぎれて、当座はただ夢のような日を送るうちに、四月も過ぎて五月もやがて半ばとなった。このごろは家内もおちついて、毎日ふり続くさみだれの音も耳に付くようになった。その五月末の夕がたに、お元が仲働きのお国と共に近所の湯屋へ行った留守をうかがって、お此は夫にささやいた。
「おまえさんはお元について、なにか気が付いたことはありませんかえ。」
「気が付いたこと……。どんなことだ。」と、七兵衛は少しく眉をよせた。女房の口ぶりが何やら子細ありげにも聞えたからである。
「実はお国が妙なことを言い出したのですが……。」と、お此はまたささやいた。「お元には鼠が付いていると言うのです。」
「なんでそんなことを言うのだ。」
「お国の言うには、お元さんのそばには小さい鼠がいる。始終は見えないが、時々にその姿を見ることがある。お元さんが縁側なぞを歩いていると、そのうしろからちょろちょろと付いて行く……。」
「ほんとうか。」と、七兵衛はそれを信じないようにほほえんだ。
「まったく本当だそうで……。お国だって、まさかそんな出たらめを言やあしますまいと思いますが……。」
「それもそうだが……。若い女なぞというものは、飛んでもないことを言い出すからな。そんな鼠が付いているならばお国ばかりでなく、ほかにも誰か見た者がありそうなものだが……。」
 自分たち夫婦は別としても、ほかに番頭もいる、手代もいる、小僧もいる、女中もいる。それらが誰も知らない秘密を、お国ひとりが知っているのは不審である。奉公人どもについて、それとなく詮議してみろと、七兵衛は言った。しかし多年他国を流浪して来たのであるから、人はとかくにつまらない噂を立てたがるものである。迂濶なことをして、大事の娘にきずを付けてはならない。お前もそのつもりで秘密に詮議しろと、彼は女房に言い含めた。
 それから三、四日の後に、甥の梅次郎がたずねて来た。梅次郁は七兵衛の姉の次男で、やはり四谷の坂町に、越前屋という質屋を開いている。万一お元のゆくえがどうしても知れない暁には、この梅次郎を養子にしようかと、七兵衛夫婦も内々相談したことがある。お元が今度発見されると、その相談がいよいよ実現されて、梅次郎をお元の婿に貰おうということになった。勿論それは七兵衛夫婦の内相談だけで、まだ誰にも口外したわけではなかったが、お此のほうにはその下ごころがあるので、きょう尋ねて来た甥を愛想よく迎えた。
 梅次郎は奥へ通されて、庭の若葉を眺めながら言った。
「よく降りますね。叔父さんは……。」
「叔父さんは商売の用で、新宿のお屋敷まで……。」
「お元ッちゃんは……。」
「お国を連れて赤坂まで……。」と、言いかけてお此は声をひくめた。「ねえ、梅ちゃん。すこしお前に訊きたいことがあるのだが……。お前、木曾街道からお元と一緒に帰って来る途中で、なにか変ったことでもなかったかえ。」
「いいえ。」
 それぎりで、話はすこし途切れたが、やがて梅次郎のほうから探るように訊きかえした。
「叔母さん、なにか見ましたか。」
 お此はぎょっとした。それでもかれは素知らぬ顔で答えた。
「いいえ。」
 話はまた途切れた。庭の若葉にそそぐ雨の音もひとしきり止んだ。この時、梅次郎は何を見たか、小声に力をこめてお此を呼んだ。
「叔母さん。あ、あれ……。」
 彼が指さす縁側には、一匹の灰色の小鼠が迷うように走り廻っていたが、忽ち庭さきに飛びおりて姿を消した。叔母も甥も息をつめて眺めていた。
 叔母が言おうとすること、甥が言おうとすること、それが皆この一匹の鼠によって説明されたようにも思われた。しばらくして、二人はほうっと溜息をついた。お此の顔は青ざめていた。
「お前、誰に聞いたの、そんなことを……。」と、かれは摺り寄って訊いた。
「実は、お国さんに……。」と、梅次郎はどもりながら答えた。
 堅く口留めをして置いたにも拘らず、お国は鼠の一件を梅次郎にも洩らしたとみえる。お此はそのおしゃべりを憎むよりも、その報告の嘘でないのに驚かされた。考えようによっては、鼠が縁側に上がるぐらいのことは別に珍しくもない。縁の下から出て来て、縁側へ飛びあがって、再び縁の下へ逃げ込む。それは鼠として普通のことであるかも知れない。それをお元に結びつけて考えるのは間違っているかも知れない。しかもこの場合、お此も梅次郎もかの鼠に何かの子細があるらしく思われてならなかった。
「ほんとうに江戸へ来る途中には、なんにも変ったことはなかったのかねえ。」と、お此はかさねて訊いた。
「まったく変ったことはありませんでした。ただ……。」と梅次郎は躊躇しながら言った。「あの義助と大変に仲がよかったようで……。」
「まあ。」
 お此はあきれたように、再び溜息をついた。それを笑うように、どこかで枝蛙のからからと鳴く声がきこえた。

上一页  [1] [2] [3] [4]  下一页 尾页




打印本文 打印本文 关闭窗口 关闭窗口