彼ももう
「
「でも、まあ、あなた……」
わたしの
「もう黙っていろ。さもないと、おまえのためにならないぞ」
わたしは彼を押しのけて、家のなかへつかつかと進んでゆくと、最初は台所、次はかの老人夫婦が住んでいる小さい部屋、それを通りぬけて大きい広間へ出ました。そこから階段を昇ってゆくと、私は友達に教えられた部屋の
部屋の内はまっ暗で、最初はなんにも見えないほどでした。私はこういう古い
椅子はみな取り散らされて、おそらく戸棚であろうと思われる扉も少しあけかけたままになっていました。私はまず窓ぎわへ行って、明かりを入れるために戸をあけたが、外の
私はその表書きを読み分けようとして、暗いなかに眼を働かせている時、自分のうしろの方で軽くかさりという音を聴きました。聴いたというよりも、むしろ感じたというのでしょう。しかしそれは
ひとりの背の高い女が白い着物をきて、今まで私が腰をかけていた椅子のうしろに立って、ちょうど私と向かい合っているのです。私はほとんど引っくり返りそうになりました。そのときの
わたしは幽霊などを信じる者ではありません。それでも、死んだ者のなんともいえない怖ろしさの前には降参してしまいました。わたしは実に困りました。しばしは途方に暮れました。その後、一生の間にあの時ほど困ったことはありません。
女がそのままいつまでも黙っていたならば、私は気が遠くなってしまったでしょう。しかも女は口を
「あなた、ご迷惑なお願いがあるのでございますが……」
わたしは返事をしようと思っても言葉が出ないで、ただ、あいまいな声が
「
そう言って、女はしずかに椅子に坐って、わたしの顔を見ました。
「肯いてくださいますか」
私はまだはっきりと口がきけないので、黙ってうなずくと、女は亀の甲でこしらえた櫛をわたしに渡して、小声で言いました。
「わたしの髪を
女の乱れた髪ははなはだ長く、はなはだ黒く、彼女が腰をかけている椅子を越えて、ほとんど床に触れるほどに長く垂れているように見えました。
わたしはなぜそれをしたか。私はなぜ
どうしていいか知りませんが、わたしは氷のような髪を梳いてやりました。たばねたり解いたりして、馬の
「ありがとうございました」
わたしの手から櫛を引ったくって、半分あいているように思われた扉から逃げるように立ち去ってしまいました。ただひとり取り残されて、私は悪夢から醒めたように数秒間はぼんやりとしていましたが、やがて意識を回復すると、ふたたび窓ぎわへ駈けて行って、めちゃくちゃに鎧戸をたたきこわしました。
外のひかりが流れ込んできたので、私はまず女の出て行った扉口へ駈けよると、扉には錠がおりていて、あけることの出来ないようになっているのです。もうこうなると、逃げるよりほかはありません。わたしは抽斗をあけたままの机から三包みの手紙を
ルーアンへ到達するまでひと休みもしないで、わたしの家の前へ乗りつけました。そこにいる下士に手綱を投げるように渡して、私は自分の部屋へ飛び込んで、入り口の錠をおろして、さて落ちついて考えてみました。
そこで、自分は幻覚にとらわれたのではないかということを一時間も考えました。たしかにわたしは一種の神経的な衝動から
わたしは下士を呼びました。わたしはあまりに心も乱れている、からだもあまりに疲れているので、今日すぐに友達のところへ尋ねて行くことは出来ないばかりか、友達に逢ってなんと話していいかをも考えなければならなかったからです。
使いにやった下士は、友達の返事を受け取って来ました。友達はかの書類をたしかに受け取ったと言いました。彼はわたしのことを聞いたので、下士は私の
わたしは事実を打ち明けることに決めて、翌日の早朝に友達をたずねて行くと、彼はきのうの
かの空家も厳重に捜索されましたが、結局なんの疑うべき手がかりも発見されませんでした。そこに女が隠されていたような形跡もありませんでした。取り調べはみな不成功に終わって、この以上に捜索の歩を進めようがなくなってしまいました。
その後五十六年の間、わたしはそれについてなんにも知ることが出来ません。私はついに事実の真相を発見し得ないのです。