「振りません。
わたしは重ねて彼の
「そこへ行って見ましたか」
「いえ、私は内へはいって、腰をおろして、自分の気を落ちつけようと思いました。それがために私はいくらか弱ってしまったからです。それから再び外へ出てみると、もう日光が
「それから何事も起こりませんでしたか」
彼は指のさきで私の腕を二、三度押した。その
「その日に、列車がトンネルから出て来たとき、私の立っている側の列車の窓で、人の頭や手がごっちゃに出て、何かしきりに、振っているように見えたので、わたしは
彼がそう言って指さした場所を見おろしたとき、わたしは思わず自分の椅子をうしろへ押しやった。
「ほんとうです。まったくです。私が今お話をした通りです」
私はなんとも言えなくなった。私の口は乾き切ってしまった。外ではこの物語に誘われて、風や電線が長い悲しい唸り声を立てていた。
「まあ、聴いてください」と、彼はつづけた。「そうして、私がどんなに困っているか、お察しください。その幽霊が一週間前にまた出て来ました。それからつづいて、気まぐれのように時どきに現われるのです」
「あの灯のところに……?」
「あの危険信号燈のところにです」
「どうしているように見えますか」
彼は激しい恐怖と戦慄を増したような風情で「どうか
「私はもうそれがために平和も安息も得られないのです。あの幽霊はなんだか苦しそうなふうをして、何分間もつづけて私を呼ぶのです。……〈下にいる人! 見ろ、見ろ〉……そうして、私を差し招くのです。そうして、その小さいベルを鳴らすのです」
私はそれを引き取って言った。
「では、私がゆうべ来ていたときに、そのベルが鳴ったのですか。君はそれがために戸のところへ出て行ったのですか」
「そうです。二度も鳴ったのです」
「どうもおかしいな」と、私は言った。「その想像は間違っているようですね。あのとき私の眼はベルの方を見ていて、私の耳はベルの方に向いていたのだから、私のからだに異状がない限りは、あのときにベルは一度も鳴らないと思いますよ。あのとき以外にも鳴りませんでした。もっとも、君が停車場と通信をしていたときは別だが……」
彼はかしらをふった。
「わたしは今までベルを聞き誤まったことは一度もありません。わたしは幽霊が鳴らすベルと、人間が鳴らすベルとを混同したことはありません。幽霊の鳴らすベルは、なんともいえない一種異様のひびきで、そのベルは人の眼にみえるように動くのではないのです。それがあなたの耳には聞こえなかったかも知れませんが、私には聞こえたのです」
「では、あのときに外を見たらば、怪しい物がいたようでしたか」
「あすこにいました」
「二度ながら……?」
「二度ながら……」と、彼ははっきりと言い切った。
「では、これから一緒に出て行って見ようじゃありませんか」
彼は下くちびるを噛みしめて、あまり行きたくない様子であったが、それでも故障なしに起ちあがった。私はドアをあけて階段に立つと、彼は入り口に立った。そこには危険信号燈が見える。暗いトンネルの入り口がみえる。ぬれた岩の高い断崖がみえる。その上にはいくつかの星がかがやいていた。
「見えますか」と、私は彼の顔に特別の注意を払いながら訊いた。
彼の眼は大きく――それはおそらくそこを見渡したときの私の眼ほどではなかったかもしれないが――緊張したように輝いていた。
「いえ、いません」
「わたしにも見えない」
二人は再びうちにはいって、ドアをしめて椅子にかかった。私はいまこの機会をいかによく利用しようかということを考えていたのである。たとい何か彼を呼ぶものがあるとしても、ほとんど真面目に論議するにも足らないような事実を
「これで、私がどんなに困っているかということが、あなたにもよくお分かりになったろうと思いますが、いったいなんであの幽霊が出るのでしょうか」
私は彼に対して、自分はまだ十分に理解したとは言いかねると答えると、彼はその眼を爐の火に落として、時どきに私の方をみかえりながら、沈みがちに言った。
「なんの知らせでしょうか。どんな変事が起こるのでしょうか。その変事はどこに起こるのでしょうか。線路の上のどこかに危険がひそんでいて、おそるべき
彼はハンカチーフを取り出して、その熱いひたいからしたたる汗を拭いた。そうして、さらに手のひらを拭きながら言った。
「わたしが上下線の一方か、または両方へ危険信号を発するとしても、さてその理由をいうことが出来ないのです。私はいよいよ困るばかりで、
彼の悩みは見るにたえないほどであった。こんな不可解の責任のために、その生活をもくつがえすということは、実直な人間にとって精神的苦痛に相違なかった。彼は黒い髪をうしろへ押しやって、極度の苦悩にこめかみをこすりながら言いつづけた。
「その怪しい影が初めて危険信号燈の下に立った時に、どこに事件が起こるかということを、なぜ私に教えてくれないのでしょう。それがどうしても起こるのなら……。そうしてまた、それが避けられるものならば、どうしたらそれを避けられるかということを、なぜ私に話してくれないのでしょう。二度目に来た時には顔を隠していましたが、なぜその代りに〈女が死ぬ、外へ出すな〉と言わないのでしょう。前の二度の場合は、その予報が事実となって現われることを示して、私に三度目の用意をしろと言うにとどまるならば、なぜもっとはっきりと私に説明してくれないのでしょう。悲しいかな、私はこの
このありさまを見た時に、私はこの気の毒な男のために、また二つには公衆の安全のために、自分としてはこの場合、つとめて彼の心を取り鎮めるように仕向けなければならないと思った。そこで私は、それが事実であるかないかというような問題を別にして、誰でもその義務をまっとうするほどの人は、せいぜいその仕事をよくしなければならないということを説きすすめると、彼は怪しい影の出現について依然その疑いを解かないまでも、自己の職責をまっとうするということについて一種の
彼は落ちついてきた。夜の
わたしは坂路を登るときに、いくたびか、あの赤い灯をふり返って見た。その灯はどうも心持ちがよくなかった。もしあの下にわたしの寝床があったとしたら、私はおそらく眠られないであろう。まったくそうである。私はまた、鉄道事故と死んだ女との二つの事件についても、いい心持ちがしない。どちらもまったくそうである。しかもそれらのことよりも最も私の気にかかるのは、この打ち明け話を聴いた私の立ち場として、これをどうしたらいいかということであった。
かの信号手は相当に教育のある、注意ぶかい、丹念な確かな人間であるには相違ないが、ああいう心持ちでいた日には、それがいつまで続くやら分からない。彼の地位は低いけれども、最も重要な仕事を受け持っているのである。私もまた彼があくまでも、かの事件の探究を続けるという場合に、いつまでも一緒になって自分の暇をつぶしてはいられないのである。
わたしは彼が所属の会社の上役に書面をおくって、彼から聴いた
次の夜は心持ちのいい晩で、わたしは遊びながらに早く出た。例の断崖の頂上に近い畑路を横ぎるころには、夕日がまだまったく沈んでいなかったので、もう一時間ばかり散歩しようと私は思った。半時間行って、半時間戻れば、信号手の小屋へ行くにはちょうどいい刻限になるのであった。
そこで、このそぞろ歩きをつづける前に、わたしは崖のふちへ行って、先夜初めて信号手を見た地点から何ごころなく見おろすと、私はなんとも言いようがないようにぞっとした。トンネルの入り口に近いところで、ひとりの男が左の
わたしを圧迫したその言い知れない恐怖は、一瞬間にして消え失せた。次の瞬間には、その男がほんとうの人間であることが分かったのである。それから少し離れたところには、いくらかの人がむらがっていて、かの男はその群れにむかって何かの手真似をしているのであった。危険信号燈にはまだ灯がはいっていなかった。私はこのとき初めて見たのであるが、信号燈の柱のむこうに小さい低い小屋があった。それは木材と
何か変事が
――こういう自責の念に
「何事が起こったのです」と、私はそこらにいる人たちに訊いた。
「信号手が、けさ殺されたのです」
「この信号所の人ですか」
「そうです」
「では、わたしの知っている人ではないかしら」
「ご存じならば、お分かりになりましょう」と、一人の男が他に代って、丁寧に脱帽して答えた。そうして、脂布のはしをあげて、「まだ顔はちっとも変わっていません」
「おお。どうしたのです、どうしてこんなことになったのです」
小屋が再びしめられると、私は人びとを交るがわるに見まわしながら訊いた。
「機関車に
粗末な黒い服を着ている男が、さきに立っていたトンネルの入り口に戻って来て話した。
「トンネルの
「なんと言って呼んだのです」
「下にいる人! 見ろ、見ろ。どうぞ
私はぎょっとした。
「実にどうも
この物語の不思議な事情を詳細に説明するのはさておいて、終わりに臨んで私が指摘したいのは、不幸なる信号手が自分をおびやかすものとして、私に話して聞かせた言葉ばかりでなく、わたし自身が「下にいる人!」と彼を呼んだ言葉や、彼が真似てみせた手振りや、それらがすべて、かの機関手の警告の言葉と動作とに暗合しているということである。