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世界怪談名作集(せかいかいだんめいさくしゅう)五

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-27 10:15:52 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


       五

 わたしはいつもより遅く起きましたが、この不思議な出来事が思い出されて、わたしは終日悩みました。わたしは結局、ゆうべの出来事は自分の熱心なる想像から湧き出した空想に過ぎないと思ったのです。それにもかかわらず、そのときの感激があまりに生まなましいので、ゆうべのことがどうも空事そらごとではないようにも思われ、今度また何か起こって来るのではないかという予感を除くことが出来ないので、わたしは悪魔的の考えをいっさい追い出して下さることを神に祈って、寝床についたのであります。
 わたしはすぐに深い眠りに落ちました。するとまた、かの夢がつづきました。カーテンがふたたび開くと、クラリモンドが以前とは違って、屍衣しいに包まれて青白い色をしていたり、頬に死のむらさき色を現わしていたりすることなく、華やかな陽気な、快活な顔色をしてはいって来ました。彼女は金色こんじきのふちを取って絹の下袴の見えるほどにくくってある緑色のビロードの旅行服を着ていました。金色こんじきの髪はひろい黒色のフェルト帽の下に深ぶかとしたふさをみせ、その帽子の上には白い羽が物好きのようにいろいろの形に取り付けてありました。彼女は片手に金の笛をつけた小さい馬のむちを持っていましたが、その笛で軽くわたしを叩いて言いました。
「まあ、お寝坊さんね。これがあなたのご用意なのですか。もう起きて、着物をきていらっしゃると思っていましたのに……。早く起きて頂戴よ。もう時間がありませんわ」
 わたしはすぐ寝台から飛びあがりました。
「さあ、ご自分で着物をお着なさい。行きましょうよ」と、彼女は自分が持って来た小さい荷造りを見せながら言いました。「ぐずぐずしているから馬がじれて、戸をぼりぼりと噛みはじめましたわ。もう今までに三十マイルも遠く行けましたのに……」
 わたしは急いで服をつけにかかりますと、彼女は一つ一つに服を渡して、わたしの不器用な手つきを見ては笑いこけたり、わたしが間違うと、その着方を教えてくれたりしました。彼女はさらに私の髪を急いでととのえてくれて、ふところからふちに金銀線の細工がしてある、ヴェニスふうの小さい水晶の鏡を出して、芝居気たっぷりに、「お気に召しましたでしょうか。あなたの侍女こしもとにして下さりませ」などと訊いたりしました。
 わたしはもう以前と同じ人間ではなく、自分ではないくらいに変わり果てました。立派に出来あがった石像とただの石ころほどに変わってしまいました。わたしはまったく美男子になり済まして、なんだかくすぐったいような心持ちになりました。上品な服装、贅沢にふちを取った胸着は、まるでわたしを違った人間にしてしまい、縞柄のついた二、三ヤードの布でこしらえただけのものが、こんなにも人の姿を変えるものかと驚きました。衣服が変わると、わたしの皮膚の色まで変わって、わずか十分というあいだに相当の伊達者だてしゃのようになったのです。
 わたしはこの新しい服を着馴らすために室内を歩き廻りました。クラリモンドは母のような喜びをもって私をながめて、自分の仕事に満足したように見えました。
「さあ、このくらいにして出かけましょうよ。遠い所へ行かなければなりませんから……。さもないと時間通りに行き着きませんわ」
 彼女はわたしの手を取って出ました。すべてのドアは、彼女が手を触れると開きました。わたしたちは犬のそばを眼を醒まさせないで通りぬけたのです。門のところにマルグリトーヌが待っていました。さきに私を迎えに来た浅黒い男です。彼は三頭の馬の手綱をとっていましたが、馬はいずれもさきに城中へ行った時と同じ黒馬で、一頭はわたし、一頭は彼、他の一頭はクラリモンドが乗るためでした。それらの馬は西風によって牝馬めすうまから生まれたスペインの麝香猫じゃこうねこにちがいないと思うくらいに、風のようにはやく走りました。出発の時にちょうど昇ったばかりの月はわれわれのゆく手を照らして、戦車の片輪が車を離れた時のように大空をころがって行きました。われわれの右にはクラリモンドが飛ぶように馬を走らせ、わたしたちにおくれまいとして息が切れるほどに努力しているのを見ました。間もなくわれわれは平坦な野原に出ましたが、その立ち木の深いところに、四頭の大きい馬をつけた一台の馬車がわれわれを待っていました。
 わたしたちはその馬車に乗ると、馭者は馬を励まして狂奔させるのでした。わたしは一方の腕をクラリモンドの胸に廻しましたが、彼女もまた一方の腕をわたしに廻して、その頭をわたしの肩にもたせかけました。わたしは彼女の半ばあらわな胸が軽くわたしの腕を押し付けているのを感じました。わたしはこんな熱烈な幸福を覚えたことはありませんでした。わたしは一切のことを忘れました。母の胎内にいた時のことを忘れたように、自分が僧侶の身であることを忘れて、まったく悪魔にみいられるほどの恍惚たる心持ちになったのでした。
 その夜からわたしの性質はなんだか半分半分になったようで、わたしの内におたがいに知らない同士の二人の人間がいるように思われました。ある時は、自分は僧侶で紳士になっている夢を見ているようにも思われ、またある時は、自分は紳士で僧侶になっているような気もしたのです。わたしはもはや現実と夢との境を判別することが出来ず、どこからが事実で、どこで夢が終わったのか分からなくなって、高貴な若い貴族や放蕩者は僧侶をののしり、僧侶は若い貴族の放埒な生活をみ嫌いました。
 こういうわけで、わたしはこの二つの異った生活を認めていながら、あくまでも強烈にそれを持続していました。ただ自分にわからない不合理なことは、一つの同じ人間の意識が性格の相反した二つの人間のうちに存在していることでありました。わたしは小さいCの村の司祭であるか、またはクラリモンドの肩書つきの愛人ロミュオー君であるか、この変則がどうしても分かりませんでした。
 それはどうでもいいとして、とにかくに私はヴェニスで暮らしていました。少なくとも私はそう信じていました。わたしのこの幻想的な旅行は、どれだけが現実の世界で、どれだけが幻影であるか、確かには分かりかねますが、わたしたちふたりはカナレイオ河岸の大邸宅に住んでいました。邸内は壁画や彫像をもって満たされ、大家の名作のうちにはティチアーノ(十五世紀より十六世紀にわたるヴェニスの画家)の二つの作品もクラリモンドのへやに掛けてありました。そこは全く王宮とひとしき所でありました。ふたりともに、めいめいゴンドラをそなえていて、家風の定服を着た船頭が付いており、さらに音楽室もあり、特別にお抱えの詩人もありました。
 クラリモンドはいつも豪奢な生活をして自然にクレオパトラのふうがあり、わたしはまた公爵の子息を小姓にして、あたかも十二使徒のうちの一族であり、あるいはこの静かな共和国(ヴェニス)の四人の布教師の家族であるかのごとくに尊敬され、ヴェニスの総督といえども道をけるくらいでありました。実に悪魔サタンがこの世にくだって以来、わたしほど傲慢無礼の動物はありますまい。わたしは更にリドへ行って賭博を試みましたが、そこは全く阿修羅あしゅらちまたともいうべきものでした。わたしはあらゆる階級――零落した旧家の子弟、劇場の女たち、狡猾な悪漢、幇間、威張り散らす乱暴者のたぐいを招いて遊びました。
 こんな放蕩生活をしているにもかかわらず、わたしはクラリモンドに対しては忠実であり、また熱烈に彼女を愛していました。クラリモンドも大いに満足して愛のかわることはありませんでした。クラリモンドを持っていることは、二十人の女、いな、すべての女を持っているようなものでした。彼女は実に感じ易い性質といろいろの変わった風貌と、新しい生きいきとした魅力とをすべて身に備えて、かのカメレオンのごとき女でありました。人がもしほかの女の美に酔うて淫蕩の心を起こした場合には、彼女はただちにその美女の性格や魅力や容姿を完全に身にまとって、その人に同じ淫蕩の念を起こさせる女でありました。
 彼女はわたしの愛を百倍にして返してくれたのです。この地の若い貴公子や十法官からもはなばなしい結婚の申し込みがありましたが、それはみな失敗に終わりました。フォスカリ家(ヴェニスの総督たりしフォスカリ・フランセソの一家)の人からも申し込みがありましたが、彼女はそれをも拒絶しました。金は十分に持っているので、彼女は愛のほかには何物をも望んでいませんでした。ただこの愛――青春の愛、純真の愛、それは自分のこころから燃え出した愛、そうして、それが最初であり、また最後であるところの熱情のほかには、なんにも望んでいなかったのです。わたしは全く幸福であるといえたかもしれません。しかしただひとつの苦しみは、毎夜呪わしい夢魔におそわれることで、貧しい村の司祭として終日自分の乱行を懺悔ざんげし、また滅罪の苦行くぎょうをしている有様を夢みるのでした。
 いつも彼女と一緒にいるために安心して、わたしはクラリモンドの変わった様子について別に考えもしませんでしたが、セラピオン師が彼女について語った言葉は時どきにわたしの記憶をび起こして、不安な心持ちを去るというわけにはゆきませんでした。
 どうかすると、クラリモンドの健康が以前のようによくないことがありました。彼女の皮膚は日に日にあおざめて、呼ばれて来た医者たちにもその病症がわからず、どうにも療治のしようがないことがありました。医者たちはみなわけのわからない薬をくれましたが、どれも無効で二度と呼ばれた者はありませんでした。彼女の色の蒼さは眼に見えるほどにいや増して、からだはだんだんに冷たく、さきの夜、かの見知らぬ城の中にあったように、白く死んでゆくのでした。わたしはその枯れ死んでゆく姿を見て、言うに言われない苦悶を感じました。彼女はわたしの苦しみに感動して、死ななければならない人間の感ずるような、運命的な微笑を美しく、また悲しそうに浮かべていました。
 ある朝のことでした。わたしは彼女の寝台のそばの小さい食卓で朝食をすませた後、わずかの間も離れてはならないと彼女のそばに腰をかけていました。その時に果物の皮をむいていると、誤まって自分の指に深く切り込んだのです。小さい紫色の血がすぐにほとばしり出て、いくらかクラリモンドにもかかったかと思うと、その顔色は急に変わって、今までの彼女にかつて見たことのない野蛮な、残忍な喜びの表情を帯びて来ました。彼女は動物のような身軽さ――あたかも猿か猫のように軽く飛び降りて、わたしの傷口に飛びついて、いかにも嬉しそうな様子でその血を吸い始めたのです。
 彼女は小さい口いっぱいに――あたかも酒好きの人間がクセレスかシラクサの酒を味わっているように、ゆっくりと注意ぶかく飲むのでした。そのひとみはだんだんに半ばとじられて、緑色の眼のまる瞳孔ひとみが楕円形にかわって来ました。彼女は時どきにわたしの手に接物するために、血を吸うことをやめましたが、さらに赤い血のにじみ出るのを待って、傷に口唇くちびるを持っていくのでした。血がもう出ないのを知ると、彼女の眼はみずみずしく輝いて、五月の夜明けよりも薔薇色になってち上がりました。顔の色も生きいきとして、手にも温かいうるみが出て、今までよりもさらに美しく、まったく健康体のようになっているのです。
「わたしは死なないわ、死なないわ」と、彼女は半気ちがいのようになって、わたしのくびにかじりついて叫びました。
「わたしはまだ長い間あなたを愛することが出来るわ。わたしの生命いのちはあなたのものです。わたしのからだはすべてあなたから貰ったのです。あなたの尊い、高価な、この世界にあるどの霊薬よりも優れて高価な血のいく滴が、わたしの生命を元の通りにしてくれたのですわ」
 この光景は永く私をおびやかして、クラリモンドについては不思議な疑問を起こさせました。その夜、わたしが寝床にはいると、睡眠は私を誘い出して、むかしの司祭館に連れ戻しました。わたしはセラピオン師が今までよりもいっそう厳粛な不安らしい顔をしているのを見ました。彼は私をじっと見つめていましたが、やがて悲しそうに叫びました。
「あなたは魂を失うばかりではない、今はその身をも失おうとしている。堕落した若い人は、実に恐ろしいことになっている」
 その言葉の調子は私を強く動かしました。しかしその時の印象がまざまざとしていたにもかかわらず、それもすぐに私から消えていって、ほかのさまざまな考えも皆わたしの心から去ってしまいました。



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