世界怪談名作集 上 |
河出文庫、河出書房新社 |
1987(昭和62)年8月4日 |
1987(昭和62)年8月4日初版 |
世界怪談名作集
妖物
アンブローズ・ビヤース Ambrose Bierce
岡本綺堂訳
一
粗木のテーブルの片隅に置かれてあるあぶら蝋燭の光りを頼りに、一人の男が書物に何か書いてあるのを読んでいた。それはひどく摺り切れた古い計算帳で、その男は燈火によく照らして視るために、時どきにそのページを蝋燭の側へ近寄せるので、火をさえぎる書物の影が部屋の半分をおぼろにして、そこにいる幾人かの顔や形を暗くした。書物を読んでいる男のほかに、そこには八人の男がいるのである。 そのうちの七人は動かず、物言わず、あらけずりの丸太の壁にむかって腰をかけていたが、部屋が狭いので、どの人もテーブルから遠く離れていなかった。かれらが手を伸ばせば八人目の男のからだに触れることが出来るのである。その男というのは、顔を仰向けて、半身を敷布におおわれて、両腕をからだのそばに伸ばして、テーブルの上に横たわっていた。彼は死んでいるのである。 書物にむかっている男は声を出して読んでいるのではなかった。ほかの者も口をきかなかった。すべての人が来たるべき何事かを待っている様子で、死んだ人ばかりが待つこともなしに眠っているのである。外は真の闇で、窓の代りにあけてある壁の穴から荒野の夜の聞き慣れないひびきが伝わって来た。遠くきこえる狼のなんともいえないように長い尾をひいて吠える声、木立ちのなかで休みなしに鳴く虫の静かに浪打つようなむせび声、昼の鳥とはまったく違っている夜鳥の怪しい叫び声、めくら滅法界に飛んでくる大きい甲虫の唸り声、殊にこれらの小さい虫の合奏曲が突然やんで半分しかきこえない時には、なにかの秘密を覚らせるようにも思われた。 しかし、ここに集まっている人びとはそんなことを気にとめる者もなかった。ここの一団が実際的の必要を認めないことに興味を有していないのは、たった一つの暗い蝋燭に照らされている、かれらの粗野なる顔つきをみても明らかであった。かれらは皆この近所の人びと、すなわち農夫や樵夫であった。 書物を読んでいる人だけは少し違っていた。人は彼をさして、世間を広くわたって来た人であると言っているが、それにもかかわらず、その風俗は周囲の人びとと同じ仲間であることを証明していた。彼の上衣はサンフランシスコでは通用しそうもない型で、履き物も町で作られた物ではなく、自分のそばの床に置いてある帽子――この中で帽子をかぶっていないのは彼一人である――は、もしも単にそれを人間の装飾品と考えたらば大間違いになりそうな代物であった。彼の容貌は職権を有する人に適当するように、自然に馴らされたのか、あるいは強いて粧っているのか知らないが、一方に厳正を示すとともに、むしろ人好きのするようなふうであった。なぜというに、彼は検屍官である。彼がいま読んでいる書物を取り上げたのもその職権に因るもので、書物はこの事件を取り調べているうちに死人の小屋の中から発見されたのであった。審問は今この小屋で開かれている。 検屍官はその書物を読み終わって、それを自分のポケットに入れた。その時に入り口の戸が押しあけられて、一人の青年がはいって来た。彼は明らかにここらの山家に生まれた者ではなく、ここらに育った者でもなく、町に住んでいる人びとと同じような服装をしていた。しかも遠路を歩いて来たように、その着物は埃だらけになっていた。実際、彼は審問に応ずるために、馬を飛ばして急いで来たのであった。 それを見て、検屍官は会釈したが、ほかの者は誰も挨拶しなかった。 「あなたの見えるのを待っていました」と、検屍官は言った。「今夜のうちにこの事件を片付けてしまわなければなりません」 青年はほほえみながら答えた。 「お待たせ申して相済みません。私は外へ出ていました。……あなたの喚問を避けるためではなく、その話をするために、たぶん呼び返されるだろうと思われる事件を原稿に書いて、わたしの新聞社へ郵送するために出かけたのです」 検屍官も微笑した。 「あなたが自分の新聞社へ送ったという記事は、おそらくこれから宣誓の上でわれわれに話していただくこととは違いましょう」 「それはご随意に」と、相手はやや熱したように、その顔を紅くして言った。「わたしは複写紙を用いて、新聞社へ送った記事の写しを持って来ました。しかし、それが信用できないような事件であるので、普通の新聞記事のようには書いてありません、むしろ小説体に書いてあるのですが、宣誓の上でそれを私の証言の一部と認めていただいてよろしいのです」 「しかし、あなたは信用できないというではありませんか」 「いや、それはあなたに係り合いのないことで、わたしが本当だといって宣誓すればいいのでしょう」 検屍官はその眼を床の上に落として、しばらく黙っていると、小屋のなかにいる他の人びとは小声で何か話し始めたが、やはりその眼は死骸の上を離れなかった。検屍官はやがて眼をあげて宣告した。 「それではふたたび審問を開きます」 人びとは脱帽した。証人は宣誓した。 「あなたの名は……」と、検屍官は訊いた。 「ウィリアム・ハーカー」 「年齢は……」 「二十七歳」 「あなたは死人のヒュウ・モルガンを識っていますか」 「はい」 「モルガンの死んだ時、あなたも一緒にいましたか」 「そのそばにいました」 「あなたの見ている前でどんなことがありましたか。それをお訊ね申したいのです」 「わたくしは銃猟や魚釣りをするために、ここへモルガンを尋ねて来たのです。もっとも、そればかりでなく、わたくしは彼について、その寂しい山村生活を研究しようと思ったのです。彼は小説の人物としてはいいモデルのように見えました。わたくしは時どきに物語をかくのです」 「わたしも時どきに読みますよ」 「それはありがとうございます」 「いや、一般のストーリーを読むというので……。あなたのではありません」 陪審官のある者は笑い出した。陰惨なる背景に対して、ユーモアは非常に明かるい気分をつくるものである。戦闘中の軍人はよく笑い、死人の部屋における一つの冗談はよくおどろきに打ち勝つことがある。 「この人の死の状況を話してください」と、検屍官は言った。「あなたの随意に、筆記帳でも控え帳でもお使いなすってよろしい」 証人はその意を諒して、胸のポケットから原稿をとり出した。彼はそれを蝋燭の火に近寄せて、自分がこれから読もうとするところを見いだすまで、その幾枚を繰っていた。
二
――われらがこの家を出たる時、日はいまだ昇らざりき。われらは鶉を猟らんがために、手に手に散弾銃をたずさえて、ただ一頭の犬をひけり。 最もよき場所は畔を越えたるところに在り、とモルガンは指さして教えたれば、われらは低き槲の林をゆき過ぎて、草むらに沿うて行きぬ。路の片側にはやや平らかなる土地ありて、野生の燕麦をもって深く掩われたり。われらが林を出て、モルガンは五、六ヤードも前進せる時、やや前方に当たれる右側のすこしく隔たりたるところに、獣のたぐいが藪を突き進むがごときひびきを聞けり。その響きは突然に起こりて、草木のはげしく動揺するを見たり。 「われらは鹿を狩りいだしぬ。かくと知らば旋条銃を持ち来たるべかりしに……」と、われは言いぬ。 モルガンは歩みを停めて、動揺する林を注意深く窺いいたり。彼は何事をも語らざりき。しかも、その銃の打ち金をあげて、何物をか狙うがごとくに身構えせり。焦眉の急がにわかに迫れる時にも、彼は甚だ冷静なるをもって知られたるに、今や少しく興奮せる体を見て、われは驚けり。 「や、や」と、われは言いぬ。「鶉撃つ銃をもて鹿を撃つべくもあらず。君はそれをこころみんとするか」 彼はなお答えざりき。しかもわがかたへ少しく振り向きたる時、われはその顔色の励しきに甚だしくおびやかされたり。かくてわれは、容易ならざる仕事がわれらの目前に横たわれることを覚りぬ。おそらく灰色熊を狩り出したるにあらずやと、われはまず推量して、モルガンのほとりに進み寄り、おなじくわが銃の打ち金をあげたり。 藪のうちは今や鎮まりて、物の響きもやみたれど、モルガンは前のごとくにそこを窺いいるなり。 「何事にや。何物にや」と、われは問いぬ。 「妖物?」と、彼は見かえりもせずに答えぬ。その声は怪しくうら嗄れて、かれは明らかにおののけり。 彼は更に言わんとする時、近きあたりの燕麦がなんとも言い分け難き不思議のありさまにて狂い騒ぐを見たり。それは風の通路にあたりて動揺するがごとく、麦は押し曲げらるるのみならず、押し倒され、押し挫がれて、ふたたび起きも得ざりき。しかも、その風のごとき運動は徐じょにわがかたへも延長し来たれるなり。 この見馴れざる不可解の現象ほど、われに奇異の感を懐かしめたることはかつてなかりき。しかもわれはなお、それに対して恐怖の念を起こすにいたらざりき。われはかくの如くに記憶す。――たとえば、開かれたる窓より何心なしに表をながめたる時、目前にある小さき立ち木を遠方にある大木の林の一本と見誤まることあり。それは遠方の大木と同様の大きさに見ゆれど、しかもその量においても、その局部においても、後者とはまったく一致せざるはずなり。要するに、大気中における遠近錯覚に過ぎざるなれど、一時は人を驚かし、人を恐れしむることあり。われらは最も見馴れたる自然の法則の、最も普通なる運用を信頼し、そのあいだになんらかの疑うべきものあるを見れば、直ちにそれをもってわれらの安全をおびやかすか、あるいは不思議なる災厄の予報と認むるを常とす。されば、今や草むらが理由なくして動揺し、その動揺の一線が迷うことなくおもむろに進行し来たるをみれば、たとい恐怖を感ぜざるまでも、確かに不安を感ぜざるを得ざるなり。 わが同伴者は実際に恐怖を感じたるがごとく、あわやと見る間に、彼は突然その銃を肩のあたりに押し当てて、ざわめく穀物にむかって二発を射撃したり。その弾けむりの消えやらぬうちに、われは野獣の吼ゆるがごとき獰猛なる叫び声を高く聞けり。モルガンはその銃を地上に投げ捨てて、跳り上がって現場より走り退きぬ。それと同時に、われはある物の衝突によって地上に激しく投げ倒されたり。煙りにさえぎられて確かに見えざりしが、柔らかく、しかも重き物体が大いなる力をもってわれに衝突したりしと覚ゆ。 われは再び起きあがりて、わが手より取り落としたる銃を拾い上げんとする前に、モルガンが今や最期かとも思わるる苦痛の叫びをあぐるを聞けり。さらにまた、その叫び声にまじりて、闘える犬の唸るがごとき皺枯れたる凄まじき声をも聞けり。異常の恐怖に襲われて、われはあわてて跳ね起きつつモルガンの走り行きたる方角を打ち見やれば、ああ、二度とは見まじき怖ろしの有様なりしよ。三十ヤードとは隔てざる処に、わが友は片膝を突いてありき。その頭は甚だしき角度にまでのけぞりて、その長き髪はかき乱され、その全身は右へ左へ、前へうしろへ、激しく揺られつつあるなり。その右の腕は高く挙げられたれど、わが眼にはその手先はなきように見えたり。左の腕はまったく見えざりき。わが記憶によれば、この時われはその身体の一部を認めたるのみにて、他の部分はさながら暈されたるように見えしと言うのほかなかりき。やがてその位置の移動によりて、すべての姿は再び我が眼に入れり。 かく言えばとて、それらはわずかに数秒時間の出来事に過ぎず。そのあいだにもモルガンはおのれよりも優れたる重量と力量とに圧倒されんとする、決死の力者のごとき姿勢を保ちつつありき。しかも、彼のほかには何物をも認めず、彼の姿もまた折りおりには定かならざることありき。彼の叫びと呪いの声は絶えず聞こえたれど、その声は人とも獣とも分かぬ一種の兇暴獰悪の唸り声に圧せられんとしつつあるなり。 われは暫くなんの思案もなかりしが、やがてわが銃をなげ捨てて、わが友の応援に馳せむかいぬ。われはただ漠然と、彼はおそらく逆上せるか、あるいは痙攣を発せるならんと想像せるなり。しかもわが走り着く前に、彼は倒れて動かずなりぬ。すべての物音は鎮まりぬ。しかもこれらの出来事なくとも、われを恐れしむることありき。 われは今や再びかの不可解の運動を見たり。野生の燕麦は風なきに乱れ騒ぎて、眼にみえざる動揺の一線は俯伏しに倒れている人を越えて、踏み荒らされたる現場より森のはずれへ、しずかに真っ直ぐにすすみゆくなり。それが森へと行き着くを見おくり果てて、さらにわが同伴者に眼を移せば――彼はすでに死せり。
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