世界怪談名作集 上 |
河出文庫、河出書房新社 |
1987(昭和62)年9月4日 |
2002(平成14)年6月20日新装版初版 |
2002(平成14)年6月20日新装版初版 |
世界怪談名作集
貸家
リットン Edward George Earle Bulwer-Lytton
岡本綺堂訳
一
わたしの友達――著述家で哲学者である男が、ある日、冗談と真面目と半分まじりな調子で、わたしに話した。 「われわれは最近思いもつかないことに出逢ったよ。ロンドンのまんなかに化け物屋敷を見つけたぜ」 「ほんとうか。何が出る。……幽霊か」 「さあ、たしかな返事はできないが、僕の知っているのはまずこれだけのことだ。六週間以前に、家内と僕とが二人連れで、家具付きのアパートメントをさがしに出て、ある閑静な町をとおると、窓に家具付き貸間という札が貼ってある家を見つけたのだ。場所もわれわれに適当であると思ったので、はいってみると部屋も気に入った。そこでまず一週間の約束で借りる約束をしたのだが……。三日目に立ちのいてしまった。誰がどう言ったって、家内はもうその家にいるのは忌だという。それも無理はないのだ」 「君は何か見たのか」 「別にいろいろの不思議を見たり聞いたりしたわけでもないのだが、家具のないある部屋の前を通ると、なんとも説明することの出来ない一種の凄気にうたれるのだ。但し、その部屋で何も見えたのではなし、聞こえたのでもないが……。そこで、僕は四日目の朝、その家の番をしている女を呼んで、あの部屋は何分われわれに適当しないから、約束の一週間の終わるまでここにいることは出来ないと言い聞かせると、女は平気でこう言うのだ。 〈わたしはその訳を知っています。それでもあなたがたはほかの人たちよりも長くいたほうです。ふた晩辛抱する人さえ少ないくらいで、三晩泊まっていたのはあなたがたが初めてです。それも恐らくあの連中があなたがたに好意を持ったせいでしょう〉 なんだかおかしな返事だから、僕は笑いながら〈あの連中とはなんだ〉と訊いてみると、女はまたこう言うのだ。 〈なんだか知りませんが、ここの家に執り着いている者です。わたしは遠い昔からあの連中を識っています。その頃わたしは奉公人ではなしに、ここの家に住んでいたことがあるのです。あの連中はいずれ私を殺すだろうと思っていますが、そんなことは構いません。わたしはこの通りの年寄りですから、どの道やがて死ぬからだです。死ねばあの連中と一緒になって、やはりこの家に住んでいることが出来るのです〉 いや、どうも驚いたね。女はそんなことを実に怖ろしいほど平気で話しているのだ。僕は薄気味が悪くなって、もう何も話す元気がなくなったので、早そうに立ち去ってしまった。もちろん約束通りに一週間分の間代を払って来たが、そのくらいのことで逃げ出せれば廉いものさ」 「不思議だね」と、わたしは言った。「そう聞くと、僕はぜひその化け物屋敷に寝てみたいよ。君が不名誉の退却をしたという、その家のありかを後生だから教えてくれないか」 友達はそのありかを教えてくれた。彼に別れたのち、わたしはまっすぐにかの化け物屋敷だという家へたずねて行くと、その家はオックスフォード・ストリートの北側で、陰気ではあるが家並の悪くない抜け道にあったが、家はまったく閉め切って、窓に貸間の札もみえない。戸を叩いても返事がない。仕方がなしに引っ返そうとすると、となりの空地にビールの配達が白い金属の鑵をあつめていて、わたしのほうを見かえりながら声をかけた。 「あなたはそこの家で誰かをお尋ねなさるんですか」 「むむ。貸家があるということを聞いたので……」 「貸家ですか。そこはJさんが雇い婆さんに一週間一ポンドずつやって、窓の開け閉てをさせていたんですがね。もういけませんよ」 「いけない。なぜだね」 「その家は何かに祟られているんですよ。雇い婆さんは眼を大きくあいたままで、寝床のなかに死んでいたんです。世間の評判じゃあ、化け物に絞め殺されたんだと言いますが……」 「ふむう。そのJさんというのは、この家の持ち主かね」 「そうです」 「どこに住んでいるね」 「G町です」と、配達はその番地をも教えてくれた。 わたしは彼にいくらかの心付けをやって、それから教えられた所へたずねて行くと、主人のJ氏は都合よく在宅であった。J氏はもう初老を過ぎた人で、理智に富んでいるらしい風貌と、人好きのするような態度をそなえていた。 正直に自分の姓名と職業とを明かした上で、わたしはかの貸間の家に何かの祟りがあるらしく思われるということを話した。そうして、わたしはぜひその家を探険してみたいから、ひと晩でもいいからどうぞ貸してくれまいか。それを承知してくれれば、お望み通りの金を払うと言った。 J氏はそれに対して、非常に丁寧に答えた。 「よろしゅうございます。あなたのご用の済むまでお貸し申しましょう。家賃などはどうでもかまいません。あの婆さんは宿なしの貧乏人で養育院にいたのを、わたしが引き取って来たのです。あの婆さんは子供の時にわたしの家族のある者と知り合いであったと言いますし、またその以前は都合がよくって、わたしの叔父からあの家を借りて住んでいたこともあるというので、それらの関係からわたしが引き取って番人に雇っておいたのですが、可哀そうに三週間前に死んでしまいました。あの婆さんは高等の教育もあり、気性もしっかりした女で、わたしが今まで連れて来た番人のうちで無事にあの家に踏みとどまっていたのは、あの女ばかりでした。それが今度死んで、しかも突然に死んだものですから、検視が来るなどという騒ぎになって、近所でもいろいろの忌な噂を立てます。したがって、そのかわりの番人を見つけるのも困難ですし、もちろん借り手もあるまいと思いますから、今後一年間はその人がすべての税金さえ納めてくれればいいという約束で、無代で誰にでも貸そうと考えているのです」 「いったい、いつごろからそんな評判が立つようになったのです」 「それは確かには申されませんが、もうよほど以前からのことです。唯今お話し申した婆さんが借りていた時、すなわち三十年前から四十年前のあいだだそうですが、すでにそのころから怪しいことがあったといいます。わたしが覚えてからでも、あの家に三日とつづけて住んでいた人はありません。その怪談はいろいろですから、いちいちにそのお話をすることは出来ませんし、また、そのお話をしてあなたに何かの予覚をあたえるよりも、あなた自身があの家へ入り込んで直接にご判断なさるほうがよろしかろうと思います。ただ、なにかしら見えるかもしれない、聞こえるかもしれないというお覚悟で、あなたがご随意に警戒をなさればよろしいのです」 「あなたはあの家に、一夜を明かそうというような好奇心をお持ちになったことはありませんか」 「一夜を明かしたことはありませんが、真っ昼間に三時間ほど、たった一人であの家のなかにいたことがあります。わたしの好奇心は満足されませんでしたが、その好奇心も消滅して、ふたたび経験を新たにする気も出なくなりました。と申したら、なぜ十分に探究しないかとおっしゃるかもしれませんが、それにはまた訳があるのです。そこで、あなたもこの一件について非常に興味を持ち、また、あなたの神経が非常に強いというのであれば格別、さもなければあの家で一夜を明かすということは、まあ、お考えになったほうがよろしくはないかと思います」 「いや、わたしは非常の興味を持っているのです」と、私は言った。「臆病者はともかくも、わたしの神経はいかなる危険にも馴れています。化け物屋敷でも驚きません」 J氏も深くは言わないで、用箪笥から鍵をとり出して私に渡してくれた。その腹蔵のない態度にわたしは衷心から感謝し、また、わたしの希望に対して紳士的の許可をあたえてくれたことをも感謝して、わたしは自分の望むものを手に入れることになった。そうなると気が急くので、わたしはひとまず我が家へ戻るやいなや、日ごろ自分が信用しているFという雇い人を呼んだ。彼は年も若いし、快活で、物を恐れぬ性質で、わたしの知っている中では最も迷信的の偏見などを持っていない人間であった。 「おい、おまえも覚えているだろう」と、わたしは言った。「ドイツにいるときに、古い城のなかへ首のない化け物が出るというので、その幽霊を見つけに行ったところが、何事もないので失望したことがある。ところが、今度はお望み通り、ロンドンの市中で確かに化け物の出る家のあることを聞いたのだ。おれは今夜そこへ泊まりに行くつもりだ。おれの聞いたところによると、そこの家には確かに何かが見えるか聞こえるかするのだ。その何かがすこぶる怖ろしい物らしい。そこで、おまえが一緒に行ってくれれば、何事が起こっても非常に気丈夫だと思うのだが、どうだろう」 「よろしい、旦那。わたくしをお連れください」と、彼は歯をむき出して愉快そうに笑った。 「では、ここにその家の鍵がある。これがその所在地だ。これを持ってすぐに行って、おまえのいいと思う部屋へおれの寝床を用意しておいてくれ。それから幾週間も空家になっていたのだから、ストーブの火をよくおこしてくれ。寝床へも空気を入れるようにしてくれ。もちろん、そこに蝋燭や焚き物があるかどうだか見てくれ。おれの短銃と匕首も持って行ってくれ。おれの武器はそれでたくさんだ。おまえも同じように武装して行け。たとい一ダースの幽霊が出て来たからといって、それと勝負をすることが出来ないようでは、英国人のつらよごしだぞ」 しかし、私は非常に差し迫った仕事をかかえているので、その日の残りの時間は専らその仕事についやさなければならなかった。わたしは自分の名誉を賭けたる今夜の冒険について、あまり多く考える暇を持たないほどに忙しく働いた。わたしは甚だ遅くなってから、ただひとりで夕飯を食った。食うあいだに何か読むのが私の習慣であるので、わたしはマコーレーの論文の一冊を取り出した。そうして、今夜はこの書物をたずさえて行こうと思った。マコーレーの作は、その文章も健全であり、その主題も実生活に触れているので、今夜のような場合には、迷信的空想に対する一種の解毒剤の役を勤めるであろうと考えたからである。 午後九時半頃に、かの書物をポケットへ押し込んで、わたしは化け物屋敷の方へぶらぶらと歩いて行った。わたしはほかに一匹の犬を連れていた。それは敏捷で、大胆で、勇猛なるブルテリア種の犬で、鼠をさがすために薄気味のわるい路の隅や、暗い小径などを夜歩きするのが大好きであった。かれは幽霊狩りなどには最も適当の犬であった。 時は夏であったが、身にしむように冷えびえする夜で、空はやや暗く曇っていた。それでも月は出ているのである。たといその光りが弱く曇っていても、やはり月には相違ないのであるから、夜半を過ぎて雲が散れぱ、明かるくなるであろうと思われた。 かの家にゆき着いて戸をたたくと、わたしの雇い人は愉快らしい微笑を含んで主人を迎えた。 「支度は万事できています。すこぶる上等です」 それを聞いて、わたしはむしろ失望した。 「何か注意すべきようなことを、見も聞きもしなかったか」 「なんだか変な音を聞きましたよ」 「どんなことだ、どんなことだ」 「わたくしのうしろをぱたぱた通るような跫音を聞きました。それから、わたくしの耳のそばで何かささやくような声が一度か二度……。そのほかには何事もありませんでした」 「怖くなかったか」 「ちっとも……」 こう言う彼の大胆な顔をみて、何事が起こっても彼はわたしを見捨てて逃げるような男でないということが、いよいよ確かめられた。 わたしたちは広間へ通った。往来にむかった窓はしまっている。わたしの注意は今やかの犬の方へ向けられたのである。犬もはじめのうちは非常に威勢よく駈け廻っていたが、やがてドアの方へしりごみして、しきりに外へ出ようとして引っ掻いたり、泣くような声をして唸ったりしているので、私はしずかにその頭をたたいたりして勇気をつけてやると、犬もようよう落ち着いたらしく、私とFのあとについて来たが、いつもは見識らない場所へ来るとまっさきに立って駈け出すにもかかわらず、今夜はわたしの靴の踵にこすりついて来るのであった。 私たちはまず地下室や台所を見まわった。そうして、穴蔵に二、三本の葡萄酒の罎がころがっているのを見つけた。その罎には蜘蛛の巣が一面にかかっていて、多年そのままにしてあったことが明らかに察せられると同時に、ここに棲む幽霊が酒好きでないことも確かにわかったが、そのほかには別に私たちの興味をひくような物も発見されなかった。外には薄暗い小さな裏庭があって、高い塀にかこまれている。この庭の敷石はひどくしめっているので、その湿気とほこりと煤煙とのために、わたしたちが歩くたびに薄い足跡が残った。 わたしは今や初めて、この不思議なる借家において第一の不思議を見たのである。 わたしはあたかも自分の前に一つの足跡を見つけたので、急に立ちどまってFに指さして注意した。一つの足跡がまたたちまち二つになったのを、わたしたちふたりは同時に見た。ふたりはあわててその場所を検査すると、わたしの方へむかって来たその足跡はすこぶる小さく、それは子供の足であった。その印象はすこぶる薄いもので、その形を明らかに判断するのは困難であったが、それが跣足の跡であるということは私たちにも認められた。 この現象は私たちが向うの塀にゆき着いたときに消えてしまって、帰る時にはそれを繰り返すようなこともなかった。階段を昇って一階へ出ると、そこには食堂と小さい控室がある。またそのうしろには更に小さい部屋がある。この第三の部屋は下男の居間であったらしい。それから座敷へ通ると、ここは新しくて綺麗であった。そこへはいって、わたしは肘かけ椅子に倚ると、Fは蝋燭立てをテーブルの上に置いた。わたしにドアをしめろと言いつけられて、彼が振りむいて行ったときに、わたしの正面にある一脚の椅子が急速に、しかもなんの音もせずに壁の方から動き出して、わたしの方から一ヤードほどの所へ来て、にわかに向きを変えて止まった。 「ははあ、これはテーブル廻しよりもおもしろいな」と、わたしは半分笑いながら言った。 そうして、わたしがほんとうに笑い出したときに、わたしの犬はその頭をあとへひいて吠えた。 Fはドアをしめて戻って来たが、椅子の一件には気がつかないらしく、吠える犬をしきりに鎮めていた。わたしはいつまでもかの椅子を見つめていると、そこに青白い靄のようなものが現われた。その輪郭は人間の形のようであるが、わたしは自分の眼を疑うほどにきわめて朦朧たるものであった。犬はもうおとなしくなっていた。 「その椅子を片付けてくれ。むこうの壁の方へ戻して置いてくれ」と、わたしは言った。 Fはその通りにしたが、急に振りむいて言った。 「あなたですか。そんなことをしたのは……」 「わたしが……。何をしたというのだ」 「でも、何かがわたくしをぶちました。肩のところを強くぶちました。ちょうどここの所を……」 「わたしではない。しかし、おれたちの前には魔術師どもがいるからな。その手妻はまだ見つけ出さないが、あいつらがおれたちをおどかす前に、こっちがあいつらを取っつかまえてやるぞ」 しかし、私たちはこの座敷に長居することはできなかった。実際どの部屋も湿っぽくて寒いので、わたしは二階の火のある所へ行きたくなったのである。私たちは警戒のために座敷のドアに錠をおろして出た。今まで見まわった下の部屋もみなそうして来たのであった。 Fがわたしのためにえらんでおいてくれた寝室は、二階じゅうでは最もよい部屋で、往来にむかって二つの窓を持っている大きい一室であった。規則正しい四脚の寝台が火にむかって据えられて、ストーブの火は美しくさかんに燃えていた。その寝台と窓とのあいだの壁の左寄りにドアがあって、そこからFの居間になっている部屋へ通ずるようになっていた。 次にソファー・ベッドの付いている小さい部屋があって、それは階段の昇り場になんの交通もなく、わたしの寝室に通ずるただ一つのドアがあるだけであった。 寝室の火のそばには、衣裳戸棚が壁とおなじ平面に立っていて、それには錠をおろさずに、にぶい鳶色の紙をもっておおわれていた。試みにその戸棚をあらためたが、そこには女の着物をかける掛け釘があるばかりで、ほかには何物もなかった。さらに壁を叩いてみたが、それは確かに固形体で、外は建物の壁になっていた。 これでまず家じゅうの見分を終わって、わたしはしばらく火に暖まりながらシガーをくゆらした。この時まで私のそばについていたFは、さらにわたしの探査を十分ならしめるために出て行くと、昇り口の部屋のドアが堅くしまっていた。 「旦那」と、彼は驚いたように言った。「わたくしはこのドアに錠をおろした覚えはないのです。このドアは内から錠をおろすことは出来ないようになっているのですから……」 その言葉のまだ終わらないうちに、そのドアは誰も手を触れないにもかかわらず、また自然にしずかにあいたので、私たちはしばらく黙って眼を見あわせた。化け物ではない、何か人間の働きがここで発見されるであろうという考えが、同時に二人の胸に浮かんだので、わたしはまずその部屋へ駈け込むと、Fもつづいた。 そこは家具もない、なんの装飾もない、小さい部屋で、少しばかりの空き箱と籠のたぐいが片隅にころがっているばかりであった。小さい窓の鎧戸はとじられて、火を焚くところもなく、私たちが今はいって来た入り口のほかには、ドアもなかった。床には敷物もなく、その床も非常に古くむしばまれて、そこにもここにも手入れをした継ぎ木の跡が白くみえた。しかもそこに生きているらしい物はなんにも見えないばかりか、生きている物の隠れているような場所も見いだされなかった。 私たちが突っ立って、そこらを見まわしているうちに、いったんあいたドアはまたしずかにしまった。二人はここに閉じこめられてしまったのである。
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