二
「おかげさまでだいぶ暖かくなりました。」と、旅人は言った。「まだ九月の末だというのに、ここらはなかなか冷えますね。」 「夜になると冷えて来ますよ。なにしろ駒ヶ嶽では八月に凍え死んだ人があるくらいですから。」と、重兵衛は焚火に木の枝をくべながら答えた。 それを聞いただけでも薄ら寒くなったように、旅人は洋服の襟をすくめながらうなずいた。 この人が来てからおよそ半時間ほどにもなろうが、そのあいだにかの太吉は、子供に追いつめられた石蟹のように、隅の方に小さくなったままで身動きもしなかった。が、彼はいつまでも隠れているわけにはいかなかった。彼はとうとう自分の怖れている人に見付けられてしまった。 「おお、子供衆がいるんですね。うす暗いので、さっきからちっとも気がつきませんでした。そんならここにいいものがあります。」 かれは首にかけた雑嚢の口をあけて、新聞紙につつんだ竹の皮包みを取出した。中には海苔巻のすしがたくさんにはいっていた。 「山越しをするには腹が減るといけないと思って、食い物をたくさん買い込んで来たのですが、そうも食えないもので……。御覧なさい。まだこっちにもこんな物があるんです。」 もう一つの竹の皮包みには、食い残りの握り飯と刻みするめのようなものがはいっていた。 「まあ、これを子供衆にあげてください。」 ここらに年じゅう住んでいる者では、海苔巻のすしでもなかなか珍らしい。重兵衛は喜んでその贈り物を受取った。 「おい、太吉。お客人がこんないいものを下すったぞ。早く来てお礼をいえ。」 いつもならば、にこにこして飛び出してくる太吉が、今夜はなぜか振り向いても見なかった。彼は眼にみえない怖ろしい手に掴まれたように、固くなったままで竦んでいた。さっきからの一件もあり、かつは客人の手前もあり、重兵衛はどうしても叱言をいわないわけにはいかなかった。 「やい、何をぐずぐずしているんだ。早く来い。こっちへ出て来い。」 「あい。」と、太吉はかすかに答えた。 「あいじゃあねえ。早く来い。」と、父は呶鳴った。「お客人に失礼だぞ。早く来い。来ねえか。」 気の短い父はあり合う生木の枝を取って、わが子の背にたたきつけた。 「あ、あぶない。怪我でもするといけない。」と、旅人はあわてて遮った。 「なに、言うことをきかない時には、いつでも引っぱたくんです。さあ、野郎、来い。」 もうこうなっては仕方がない。太吉は穴から出る蛇のように、小さい体をいよいよ小さくして、父のうしろへそっと這い寄って来た。重兵衛はその眼先へ竹の皮包みを開いて突きつけると、紅い生姜は青黒い海苔をいろどって、子供の眼にはさも旨そうにみえた。 「それみろ、旨そうだろう。お礼をいって、早く食え。」 太吉は父のうしろに隠れたままで、やはり黙っていた。 「早くおあがんなさい。」と、旅人も笑いながら勧めた。 その声を聞くと、太吉はまた顫えた。さながら物に襲われたように、父の背中にひしとしがみ付いて、しばらくは息もしなかった。彼はなぜそんなにこの旅人を恐れるのであろう。小児にはあり勝ちのひとみしりかとも思われるが、太吉は平生そんなに弱い小児ではなかった。ことに人里の遠いところに育ったので、非常に人を恋しがる方であった。樵夫でも猟師でも、あるいは見知らぬ旅人でも、一度この小屋へ足を入れた者は、みんな小さい太吉の友達であった。どんな人に出逢っても、太吉はなれなれしく小父さんと呼んでいた。それが今夜にかぎって、普通の不人相を通り越して、ひどくその人を嫌って恐れているらしい。相手が子供であるから、旅人は別に気にも留めないらしかったが、その平生を知っている父は一種の不思議を感じないわけにはいかなかった。 「なぜ食わない。折角うまい物を下すったのに、なぜ早く頂かない。馬鹿な奴だ。」 「いや、そうお叱りなさるな。小児というものは、その時の調子でひょいと拗れることがあるもんですよ。まあ、あとで食べさせたらいいでしょう。」と、旅人は笑いを含んでなだめるように言った。 「お前が食べなければ、お父さんがみんな食べてしまうぞ。いいか。」 父が見返ってたずねると、太吉はわずかにうなずいた。重兵衛はそばの切株の上に皮包みをひろげて、錆びた鉄の棒のような海苔巻のすしを、またたく間に五、六本も頬張ってしまった。それから薬罐のあつい湯をついで、客にもすすめ、自分も、がぶがぶ飲んだ。 「時にどうです。お前さんはお酒を飲みますかね。」と、旅人は笑いながらまた訊いた。 「酒ですか。飲みますとも……。大好きですが、こういう世の中にいちゃ不自由ですよ。」 「それじゃあ、ここにこんなものがあります。」 旅人は雑嚢をあけて、大きい壜詰の酒を出してみせた。 「あ、酒ですね。」と、重兵衛の口からは涎が出た。 「どうです。寒さしのぎに一杯やったら……。」 「結構です。すぐに燗をしましょう。ええ、邪魔だ。退かねえか。」 自分の背中にこすり付いているわが子をつきのけて、重兵衛はかたわらの棚から忙がしそうに徳利をとり出した。それから焚火に枝を加えて、壜の酒を徳利に移した。父にふり放された太吉は猿曳きに捨てられた小猿のようにうろうろしていたが、煙りのあいだから旅人の顔を見ると、またたちまち顫えあがって、むしろの上に俯伏したままで再び顔をあげなかった。 「今晩は……。重兵衛どん、いるかね。」 外から声をかけた者がある。重兵衛とおなじ年頃の猟師で、大きい黒い犬をひいていた。 「弥七どんか。はいるがいいよ。」と、重兵衛は燗の支度をしながら答えた。 「誰か客人がいるようだね。」と、弥七は肩にした鉄砲をおろして、小屋へひと足踏み込もうとすると、黒い犬は何を見たのか俄かに唸りはじめた。 「なんだ、なんだ。ここはおなじみの重兵衛どんの家だぞ。ははははは。」 弥七は笑いながら叱ったが、犬はなかなか鎮まりそうにもなかった。四足の爪を土に食い入るように踏ん張って、耳を立て眼を瞋らせて、しきりにすさまじい唸り声をあげていた。 「黒め。なにを吠えるんだ。叱っ、叱っ。」と、重兵衛も内から叱った。 弥七は焚火の前に寄って来て、旅人に挨拶した。犬は相変らず小屋の外に唸っていた。 「お前いいところへ来たよ。実は今このお客人にこういうものをもらっての。」と、重兵衛は自慢らしくかの徳利を振ってみせた。 「やあ、酒の御馳走があるのか。なるほど運がいいのう、旦那、どうも有難うごぜえます。」 「いや、お礼を言われるほどにたくさんもないのですが、まあ寒さしのぎに飲んでください。食い残りで失礼ですけれど、これでも肴にして……。」 旅人は包みの握り飯と刻みするめとを出した。海苔巻もまだ幾つか残っている。酒に眼のない重兵衛と弥七とは遠慮なしに飲んで食った。まだ宵ながら山奥の夜は静寂で、ただ折りおりに峰を渡る山風が大浪の打ち寄せるように聞えるばかりであった。 酒はさのみの上酒というでもなかったが、地酒を飲み馴れているこの二人には、上々の甘露であった。自分たちばかりが飲んでいるのもさすがにきまりが悪いので、おりおりには旅人にも茶碗をさしたが、相手はいつも笑って頭を振っていた。小屋の外では犬が待ちかねているように吠え続けていた。 「騒々しい奴だのう。」と、弥七はつぶやいた。「奴め、腹がへっているのだろう。この握り飯を一つ分けてやろうか。」 彼は握り飯をとって軽く投げると、戸の外までは転げ出さないで、入口の土間に落ちて止まった。犬は食い物をみて入口へ首を突っ込んだが、旅人の顔を見るやいなや、にわかに狂うように吠えたけって、鋭い牙をむき出して飛びかかろうとした。 「叱っ、叱っ。」 重兵衛も弥七も叱って追いのけようとしたが、犬は憑き物でもしたようにいよいよ狂い立って、焚火の前に跳り込んで来た。旅人はやはり黙って睨んでいた。 「怖いよう。」と、太吉は泣き出した。 犬はますます吠え狂った。子供は泣く、犬は吠える、狭い小屋のなかは乱脈である。客人の手前、あまり気の毒になって来たので、無頓着の重兵衛もすこし顔をしかめた。 「仕様がねえ。弥七、お前はもう犬を引っ張って帰れよう。」 「むむ、長居をするとかえってお邪魔だ。」 弥七は旅人に幾たびか礼をいって、早々に犬を追い立てて出た。と思うと、かれは小戻りをして重兵衛を表へ呼び出した。 「どうも不思議なことがある。」と、彼は重兵衛にささやいた。「今夜の客人は怪物じゃねえかしら。」 「馬鹿をいえ。えてものが酒やすしを振舞ってくれるものか。」と、重兵衛はあざ笑った。 「それもそうだが……。」と、弥七はまだ首をひねっていた。「おれ達の眼にはなんにも見えねえが、この黒めの眼には何かおかしい物が見えるんじゃねえかしら。こいつ、人間よりよっぽど利口な奴だからの。」 弥七のひいている熊のような黒犬がすぐれて利口なことは、重兵衛もふだんからよく知っていた。この春も大猿がこの小屋へうかがって来たのを、黒は焚火のそばに転がっていながらすぐにさとって追いかけて、とうとうかれを咬み殺したこともある。その黒が今夜の客にむかって激しく吠えかかるのは何か子細があるかも知れない。わが子がしきりにかの旅人を恐れていることも思い合されて、重兵衛もなんだかいやな心持になった。 「だって、あれがまさかにえてものじゃあるめえ。」 「おれもそう思うがの。」と、弥七はまだ腑に落ちないような顔をしていた。「どう考えても黒めが無暗にあの客人に吠えつくのがおかしい。どうも徒事でねえように思われる。試しに一つぶっ放してみようか。」 そう言いながら彼は鉄砲を取り直して、空にむけて一発撃った。その筒音はあたりにこだまして、森の寝鳥がおどろいて起った。重兵衛はそっと引っ返して中をのぞくと、旅人はちっとも形を崩さないで、やはり焚火の煙りの前におとなしく坐っていた。 「どうもしねえか。」と、弥七は小声で訊いた。「おかしいのう。じゃ、まあ仕方がねえ。おれはこれで帰るから、あとを気をつけるがいいぜ。」 まだ吠えやまない犬を追い立てて、弥七は麓の方へくだって行った。
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