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影を踏まれた女(かげをふまれたおんな)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-26 18:28:15 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


 それが大野屋の人々にもきこえて、伯母おば夫婦も心配した。とりわけて要次郎は気を痛めた。ことに二度目のときには自分が一緒に連れ立つてゐただけに、彼は一種の責任があるやうにも感じられた。
「おまへが傍に附いてゐながら、なぜ早くその犬を追つてしまはないのだねえ。」と、要次郎は自分の母からもしかられた。
 おせきが初めて自分の影を踏まれたのは九月の十三夜である。それからもう半年以上を過ぎて、おせきは十八、要次郎は廿歳はたちの春を迎へてゐる。前々からの約束で、今年はもう婿入りの相談をきめることになつてゐるのであるが、肝心の婿取り娘が半気ちがひのやうな、半病人のやうな形になつてゐるので、それもづそのまゝになつてゐるのを、おせきの親たちは勿論もちろん、伯母夫婦もしきりに心配してゐたのであるが、たゞ一通りの意見や説諭ぐらゐでは、うしてもおせきの病をなおすことは出来なかつた。
 なにしろこれは一種の病気であると認めて、近江屋でも嫌がる本人を連れ出して、二三人の医者に診てもらつたのであるが、どこの医者にもたしかな診断を下すことは出来ないで、おそらく年ごろの娘にありがち気鬱病きうつびようであらうかなどと云ふに過ぎなかつた。そのうちに大野屋の惣領息子そうりようむすこ、すなはち要次郎の兄がある人から下谷したやに偉い行者ぎようじやがあるといふことを聞いて来たが、要次郎はそれを信じなかつた。
「あれは狐使きつねつかひだと云ふことだ。あんなやつ祈祷きとうを頼むと、かえつて狐をけられる。」
「いや、その行者はそんなのではない。大抵たいていの気ちがひでも一度御祈祷をして貰へば癒るさうだ。」
 兄弟がしきりに云ひ争つてゐるのが母の耳にも這入はいつたので、かくもそれを近江屋の親たちに話して聞かせると、迷ひ悩んでゐる弥助夫婦は非常によろこんだ。しかしすぐに娘を連れて行くと云つても、きつと嫌がるに相違ないと思つたので、夫婦だけが先づその行者をたづねて、彼の意見を一応いて来ることにした。それは嘉永かえい二年六月のはじめで、今年の梅雨つゆのまだ明け切らない暗い日であつた。
 行者のうちは五条の天神てんじんの裏通りで、表構おもてがまへはほど広くもないが、奥行おくゆきのひどく深いうちであるので、この頃の雨の日には一層うす暗く感じられた。何の神か知らないが、それを祭つてある奥のには二本の蝋燭ろうそくともつてゐた。行者は六十以上かとも見える老人で、弥助夫婦からその娘のことを詳しく聴いたのちに、かれはしばらくをとぢて考へてゐた。
「自分で自分の影を恐れる――それは不思議のことでござる。では、兎も角もこの蝋燭をあげる。これを持つてお帰りなさるがよい。」
 行者は神前にかゞやいてゐる蝋燭の一本をつて出した。今夜のこく(午後十二時)にその蝋燭の火を照して、壁か又は障子しようじにうつし出される娘の影を見とゞけろと云ふのである。娘に何かの憑物つきものがしてゐるならば、その形は見えずともその影があり/\と映るはずである。その娘に狐が憑いてゐるならば、狐の影がうつるに相違ない。鬼が憑いてゐるならば鬼が映る。それを見とゞけて報告してくれゝば、わたしの方にも又相当の考へがあると云ふのであつた。かれはその蝋燭ろうそくを小さい白木しらきの箱に入れて、なにか呪文じゆもんのやうなことをとなへた上で、うや/\しく弥助にわたした。
「ありがたうござります。」
 夫婦は押頂おしいただいて帰つて来た。その日はゆふ方から雨が強くなつて、とき/″\にらいの音がきこえた。これで梅雨つゆも明けるのであらうと思つたが、今夜の弥助夫婦に取つては、雨の音、雷の音、それがなんとなく物すさまじいやうにも感じられた。
 前から話して置いては面倒だと思つたので、夫婦は娘にむかつて何事ももらさなかつた。四つ(午後十時)には店を閉めることになつてゐるので、今夜もいつもの通りにして家内の者を寝かせた。おせきは二階の三畳に寝た。胸に一物いちもつある夫婦はふりをして夜のふけるのを待つてゐると、やがてこくの鐘がひゞいた。それを合図に夫婦はそつと階子はしごをのぼつた。弥助は蝋燭ろうそくを持つてゐた。
 二階の三畳のふすまをあけてうかがふと、今夜のおせきは疲れたやうにすや/\と眠つてゐた。お由はしづかにり起して、半分は寐ぼけてゐるやうな若い娘を寝床の上に起き直らせると、かれの黒い影は一方の鼠壁ねずみかべに細く揺れて映つた。蝋燭を差出す父の手がすこしくふるへてゐるからであつた。
 夫婦は恐るゝやうに壁を見つめると、それに映つてゐるのはたしかに娘の影であつた。そこにはつののある鬼や、口のとがつてゐるきつねなどの影は決して見られなかつた。

        四

 夫婦は安心したやうにづほつとした。不思議さうにきよろきよろしてゐる娘を再びそつと寝かせて、ふたりは抜き足をして二階を降りて来た。
 あくる日は弥助ひとりで再び下谷の行者ぎようじやをたづねると、老いたる行者は又かんがへてゐた。
「それでは私にも祈祷きとうの仕様がない。」
 突き放されて、弥助も途方にくれた。
「では、どうしても御祈祷は願はれますまいか。」と、かれは嘆くやうに云つた。
「お気の毒だが、わたしの力には及ばない。しかし、折角せつかくたび/\お出でになつたのであるから、もう一度ためして御覧になるがよい。」と、行者は更に一本の蝋燭を渡した。「今夜すぐにこの火をもやすのではない。今から数へて百日目の夜、時刻はやはりこく、お忘れなさるな。」
 今から百日といふのでは、あまりに先が長いとも思つたが、弥助はこの行者の前で我儘わがままをいふほどの勇気はなかつた。かれは教へられたまゝに一本の蝋燭をいたゞいて帰つた。
 かういふ事情であるから、おせきの婿取りも当然延期されることになつた。あんな行者などを信仰するのは間違つてゐると、要次郎は蔭でしきりに憤慨してゐたが、周囲の力に圧せられて、彼はおめ/\それに服従するのほかは無かつた。
「夏のうちにどこかの滝にでも打たせたら好からう。」と、要次郎は云つた。かれは近江屋の夫婦を説いて、王子か目黒の滝へおせきを連れ出さうと企てたが、両親はかくも、本人のおせきが外出を堅くこばむので、それも結局実行されなかつた。
 ことしの夏の暑さは格別で、おせきの夏痩なつやせはいちじるしくに立つた。日の目を見ないやうな奥のにばかり閉籠とじこもつてゐるために、運動不足、それに伴ふ食慾不振がいよ/\彼女かれを疲らせて、さながら生きてゐる幽霊のやうになり果てた。訳を知らない人は癆症ろうしようであらうなどともうわさしてゐた。そのあひだに夏も過ぎ、秋も来て、旧暦では秋の終りといふ九月になつた。行者ぎようじやに教へられた百日目は九月十二日に相当するのであつた。
 それは今初めて知つたわけではない。行者に教へられた時、弥助夫婦はすぐに其日そのひつてみて、それが十三夜の前日に当ることをあらかじめ知つてゐたのである。おせきが初めて影を踏まれたのは去年の十三夜の前夜で、行者のいふ百日目があたかも満一年目の当日であるといふことが、彼女かれ父母ちちははの胸に一種の暗い影を投げた。今度こそはその蝋燭ろうそくのひかりが何かの不思議を照し出すのではないかともあやぶまれて、夫婦は一面に云ひ知れない不安をいだきながらも、いはゆる怖いもの見たさの好奇心も手伝つて、その日の早く来るのを待ちわびてゐた。
 その九月十二日がいよ/\来た。その夜の月は去年と同じやうに明るかつた。
 あくる十三日、けふも朝から晴れてゐた。ひる少し前に弱い地震があつた。つ頃(午後二時)に大野屋の伯母おばが近所まで来たと云つて、近江屋の店に立寄つた。呼ばれて、おせきは奥から出て来て、伯母にも一通りの挨拶あいさつをした。伯母が帰るときに、お由は表まで送つて出て、往来で小声でさゝやいた。
「おせきの百日目といふのは昨夜ゆうべだつたのですよ。」
「さう思つたからわたしも様子を見に来たのさ。」と伯母も声をひそめた。「そこで、何か変つたことでもあつて……。」
「それがね、姉さん。」と、お由はうしろを見かへりながら摺寄すりよつた。「ゆうべも九つ(午後十二時)を合図におせきの寝床へ忍んで行つて、ぼけてぼんやりしてゐるのを抱き起して、内の人が蝋燭をかざしてみると――壁には骸骨がいこつの影が映つて……。」
 お由の声はふるへてゐた。伯母も顔の色を変へた。
「え、骸骨の影が……。見違ひぢやあるまいね。」
「あんまり不思議ですから好く見つめてゐたんですけれど、たしかにそれが骸骨に相違ないので、わたしはだん/\に怖くなりました。わたしばかりでなく、内の人の眼にもさう見えたといふのですから、嘘ぢやありません。」
「まあ。」と、伯母は溜息ためいきをついた。「当人はそれを知らないのかえ。」
「ひどくねむがつてゐて、又すぐに寐てしまひましたから、何にも知らないらしいのです。それにしても、骸骨がいこつが映るなんて一体どうしたんでせう。」
「下谷へ行つていて見たの。」と、伯母おばは訊いた。
「内の人は今朝早くに下谷へ行つて、その話をしましたところが、行者様ぎようじやさまはたゞ黙つて考へてゐて、わたしにもよく判らないと云つたさうです。」と、お由は声を曇らせた。「ほんたうに判らないのか、判つてゐても云はないのか、どつちでせうね。」
「さあ。」
 判つてゐても云はないのであらうと、伯母は想像した。お由もさう思つてゐるらしかつた。もしさうならば、それは悪いことに相違ない。いことであれば隠すはずがないとは、誰でも考へられることである。二人の女は暗い顔をみあはせて、しばらく往来なかに突つ立つてゐると、その頭の上の青空には白い雲が高く流れてゐた。
 お由はやがて泣き出した。
「おせきは死ぬのでせうか。」
 伯母もなんと答へていゝか判らなかつた。かれも内心には十二分の恐れをいだきながら、かくも間にあはせの気休めを云つて置くのほかはなかつた。
 伯母はうちへ帰つてその話をすると、要次郎はまた怒つた。
「近江屋の叔父おじさんや叔母おばさんにも困るな。いつまできつねつかひの行者なんかを信仰してゐるのだらう。そんなことをして此方こつちをさん/″\おどかして置いて、お仕舞しまいに高い祈祷きとう料をせしめようとする魂胆こんたんに相違ないのだ。そのくらゐの事が判らないのかな。」
「そんなことを云つても、論より証拠で、丁度ちようど百日目の晩に怪しい影が映つたといふぢやないか。」と、兄は云つた。
「それは行者が狐を使ふのだ。」
 又もや兄弟喧嘩げんかがはじまつたが、大野屋の両親にもその裁判が付かなかつた。行者を信じる兄も、行者を信じない弟も、所詮しよせんは水かけ論に過ぎないので、ゆふ飯を境にしてその議論も自然物別れになつてしまつたが、要次郎の胸はまだ納まらなかつた。ゆふ飯をつてしまつて、近所の銭湯へ行つて帰つてくると、今夜の月はあざやかに昇つてゐた。
「好い十三夜だ。」と、近所の人たちも表に出た。中には手をあはせて拝んでゐるのもあつた。
 十三夜――それを考へると、要次郎はなんだかうちに落ついてゐられなかつた。彼はふら/\と店を出て、柴井町の近江屋をたづねた。
「おせきちやん、居ますか。」
「はあ。奥にゐますよ。」と、母のお由は答へた。
「呼んでれませんか。」と、要次郎は云つた。
「おせきや。要ちやんが来ましたよ。」
 母に呼ばれて、おせきは奥から出て来た。今夜のおせきはいつもよりも綺麗きれいに化粧してゐるのが、月のひかりの前に一層美しくみえた。
「月がいゝから表へ拝みに出ませんか。」と、要次郎は誘つた。
 おそらく断るかと思ひのほか、おせきは素直に表へ出て来たので、両親も不思議に思つた。要次郎もすこし案外に感じた。しかし彼はおせきを明るい月の前にひき出して、その光を恐れないやうな習慣を作らせようと決心して来たのであるから、それを丁度ちようど幸ひにして、ふたりは連れ立つて歩き出した。両親もよろこんで出してつた。
 若い男と女とは金杉かなすぎの方角にむかつて歩いてゆくと、つめたい秋の夜風がふたりのたもとをそよ/\と吹いた。月のひかりは昼のやうに明るかつた。
「おせきちやん。かういふ月夜の晩にあるくのは、好い心持だらう。」と、要次郎は云つた。
 おせきは黙つてゐた。
「いつかの晩も云つた通り、詰らないことを気にするからいけない。それだから気がふさいだり、からだが悪くなつたりして、おとつさんや阿母おつかさんも心配するやうになるのだ。そんなことを忘れてしまふために、今夜は遅くなるまで歩かうぢやないか。」
「えゝ。」と、おせきは低い声で答へた。
 ――影や道陸神どうろくじん、十三夜のぼたもち――
 子どものうたが又きこえた。それは近江屋の店先を離れてから一町ほども歩き出した頃であつた。
「子供が来ても構はない。平気で思ふさま踏ませてる方がいゝよ。」と、要次郎は励ますやうに云つた。
 子供の群は十人ばかりが一組になつて横町よこちようから出て来た。かれらは声をそろへて唄ひながら二人のそばへ近寄つたが、要次郎は片手でおせきの右の手をしつかりと握りながら、わざと平気で歩いてゐると、その影を踏まうとして近寄つたらしい子供は、なにを見たのか、急にわつと云つて一度に逃げ散つた。
「お化けだ、お化けだ。」
 かれらは口々に叫びながら逃げた。影を踏まうとして近寄つても、こつちが平気でゐるらしいので、更にそんなことを云つておどしたのであらうと思ひながら、要次郎は自分のうしろを見かへると、今までは南に向つて歩いてゐたので一向に気が付かなかつたが、斜めにうしろの地面に落ちてゐる二つの影――その一つは確かに自分の影であつたが、他の一つは骸骨がいこつの影であつたので、要次郎もあつと驚いた。行者ぎようじやきつねつかひなどとののしつてゐながらも、今やその影を実地に見せられて、かれはにわかに云ひ知れない恐怖に襲はれた。子供等がお化けだと叫んだのも嘘ではなかつた。
 要次郎は不意の恐れに前後の考へをうしなつて、今までしつかりと握りしめてゐたおせきの手を振放して、半分は夢中で柴井町の方へ引返ひつかえして逃げた。
 その注進におどろかされて、おせきの両親は要次郎と一緒にそこへけ着けてみると、おせきは右の肩から袈裟斬けさぎりられて往来のまん中に倒れてゐた。
 近所の人の話によると、要次郎が駈け出したあとへ一人の侍が通りかゝつて、いきなりに刀をぬいておせきを斬り倒して立去つたといふのであつた。宵の口といひ、この月夜に辻斬つじぎりでもあるまい。かの侍も地にうつる怪しい影をみて、たちまちに斬り倒してしまつたのかも知れない。
 おせきが自分の影を恐れてゐたのは、かういふことになる前兆であつたかと、近江屋の親たちは嘆いた。行者ぎようじややつきつねけてこんな不思議を見せたのだと、要次郎はいきどおつた。しかし誰にもたしかな説明の出来るはずはなかつた。ただこんな奇怪な出来事があつたとして、世間に伝へられたに過ぎなかつた。





底本:「日本幻想文学集成23 岡本綺堂 猿の眼 種村季弘編」国書刊行会
   1993(平成5)年9月20日初版第1刷発行
底本の親本:「綺堂読物集・三」春陽堂
   1926(大正15)年
入力:林田清明
校正:ちはる
2000年12月30日公開
2005年12月1日修正
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