それが大野屋の人々にもきこえて、伯母夫婦も心配した。とりわけて要次郎は気を痛めた。ことに二度目のときには自分が一緒に連れ立つてゐただけに、彼は一種の責任があるやうにも感じられた。 「おまへが傍に附いてゐながら、なぜ早くその犬を追つてしまはないのだねえ。」と、要次郎は自分の母からも叱られた。 おせきが初めて自分の影を踏まれたのは九月の十三夜である。それからもう半年以上を過ぎて、おせきは十八、要次郎は廿歳の春を迎へてゐる。前々からの約束で、今年はもう婿入りの相談をきめることになつてゐるのであるが、肝心の婿取り娘が半気ちがひのやうな、半病人のやうな形になつてゐるので、それも先づそのまゝになつてゐるのを、おせきの親たちは勿論、伯母夫婦もしきりに心配してゐたのであるが、たゞ一通りの意見や説諭ぐらゐでは、何うしてもおせきの病を癒すことは出来なかつた。 なにしろこれは一種の病気であると認めて、近江屋でも嫌がる本人を連れ出して、二三人の医者に診て貰つたのであるが、どこの医者にも確な診断を下すことは出来ないで、おそらく年ごろの娘にあり勝の気鬱病であらうかなどと云ふに過ぎなかつた。そのうちに大野屋の惣領息子、すなはち要次郎の兄が或人から下谷に偉い行者があるといふことを聞いて来たが、要次郎はそれを信じなかつた。 「あれは狐使ひだと云ふことだ。あんな奴に祈祷を頼むと、却つて狐を憑けられる。」 「いや、その行者はそんなのではない。大抵の気ちがひでも一度御祈祷をして貰へば癒るさうだ。」 兄弟が頻りに云ひ争つてゐるのが母の耳にも這入つたので、兎も角もそれを近江屋の親たちに話して聞かせると、迷ひ悩んでゐる弥助夫婦は非常によろこんだ。併しすぐに娘を連れて行くと云つても、きつと嫌がるに相違ないと思つたので、夫婦だけが先づその行者をたづねて、彼の意見を一応訊いて来ることにした。それは嘉永二年六月のはじめで、今年の梅雨のまだ明け切らない暗い日であつた。 行者の家は五条の天神の裏通りで、表構へは左ほど広くもないが、奥行のひどく深い家であるので、この頃の雨の日には一層うす暗く感じられた。何の神か知らないが、それを祭つてある奥の間には二本の蝋燭が点つてゐた。行者は六十以上かとも見える老人で、弥助夫婦からその娘のことを詳しく聴いた後に、かれはしばらく眼をとぢて考へてゐた。 「自分で自分の影を恐れる――それは不思議のことでござる。では、兎も角もこの蝋燭をあげる。これを持つてお帰りなさるがよい。」 行者は神前にかゞやいてゐる蝋燭の一本を把つて出した。今夜の子の刻(午後十二時)にその蝋燭の火を照して、壁か又は障子にうつし出される娘の影を見とゞけろと云ふのである。娘に何かの憑物がしてゐるならば、その形は見えずとも其影があり/\と映る筈である。その娘に狐が憑いてゐるならば、狐の影がうつるに相違ない。鬼が憑いてゐるならば鬼が映る。それを見とゞけて報告してくれゝば、わたしの方にも又相当の考へがあると云ふのであつた。かれはその蝋燭を小さい白木の箱に入れて、なにか呪文のやうなことを唱へた上で、うや/\しく弥助にわたした。 「ありがたうござります。」 夫婦は押頂いて帰つて来た。その日はゆふ方から雨が強くなつて、とき/″\に雷の音がきこえた。これで梅雨も明けるのであらうと思つたが、今夜の弥助夫婦に取つては、雨の音、雷の音、それがなんとなく物すさまじいやうにも感じられた。 前から話して置いては面倒だと思つたので、夫婦は娘にむかつて何事も洩さなかつた。四つ(午後十時)には店を閉めることになつてゐるので、今夜もいつもの通りにして家内の者を寝かせた。おせきは二階の三畳に寝た。胸に一物ある夫婦は寐た振をして夜のふけるのを待つてゐると、やがて子の刻の鐘がひゞいた。それを合図に夫婦はそつと階子をのぼつた。弥助は彼の蝋燭を持つてゐた。 二階の三畳の襖をあけて窺ふと、今夜のおせきは疲れたやうにすや/\と眠つてゐた。お由はしづかに揺り起して、半分は寐ぼけてゐるやうな若い娘を寝床の上に起き直らせると、かれの黒い影は一方の鼠壁に細く揺れて映つた。蝋燭を差出す父の手がすこしく顫へてゐるからであつた。 夫婦は恐るゝやうに壁を見つめると、それに映つてゐるのは確に娘の影であつた。そこには角のある鬼や、口の尖つてゐる狐などの影は決して見られなかつた。
四
夫婦は安心したやうに先づほつとした。不思議さうにきよろきよろしてゐる娘を再び窃と寝かせて、ふたりは抜き足をして二階を降りて来た。 あくる日は弥助ひとりで再び下谷の行者をたづねると、老いたる行者は又かんがへてゐた。 「それでは私にも祈祷の仕様がない。」 突き放されて、弥助も途方にくれた。 「では、どうしても御祈祷は願はれますまいか。」と、かれは嘆くやうに云つた。 「お気の毒だが、わたしの力には及ばない。しかし、折角たび/\お出でになつたのであるから、もう一度ためして御覧になるがよい。」と、行者は更に一本の蝋燭を渡した。「今夜すぐにこの火を燃すのではない。今から数へて百日目の夜、時刻はやはり子の刻、お忘れなさるな。」 今から百日といふのでは、あまりに先が長いとも思つたが、弥助はこの行者の前で我儘をいふほどの勇気はなかつた。かれは教へられたまゝに一本の蝋燭をいたゞいて帰つた。 かういふ事情であるから、おせきの婿取りも当然延期されることになつた。あんな行者などを信仰するのは間違つてゐると、要次郎は蔭でしきりに憤慨してゐたが、周囲の力に圧せられて、彼はおめ/\それに服従するのほかは無かつた。 「夏の中にどこかの滝にでも打たせたら好からう。」と、要次郎は云つた。かれは近江屋の夫婦を説いて、王子か目黒の滝へおせきを連れ出さうと企てたが、両親は兎も角も、本人のおせきが外出を堅く拒むので、それも結局実行されなかつた。 ことしの夏の暑さは格別で、おせきの夏痩せは著るしく眼に立つた。日の目を見ないやうな奥の間にばかり閉籠つてゐるために、運動不足、それに伴ふ食慾不振がいよ/\彼女を疲らせて、さながら生きてゐる幽霊のやうになり果てた。訳を知らない人は癆症であらうなどとも噂してゐた。そのあひだに夏も過ぎ、秋も来て、旧暦では秋の終りといふ九月になつた。行者に教へられた百日目は九月十二日に相当するのであつた。 それは今初めて知つたわけではない。行者に教へられた時、弥助夫婦はすぐに其日を繰つてみて、それが十三夜の前日に当ることをあらかじめ知つてゐたのである。おせきが初めて影を踏まれたのは去年の十三夜の前夜で、行者のいふ百日目が恰も満一年目の当日であるといふことが、彼女の父母の胸に一種の暗い影を投げた。今度こそはその蝋燭のひかりが何かの不思議を照し出すのではないかとも危まれて、夫婦は一面に云ひ知れない不安をいだきながらも、いはゆる怖いもの見たさの好奇心も手伝つて、その日の早く来るのを待ちわびてゐた。 その九月十二日がいよ/\来た。その夜の月は去年と同じやうに明るかつた。 あくる十三日、けふも朝から晴れてゐた。午少し前に弱い地震があつた。八つ頃(午後二時)に大野屋の伯母が近所まで来たと云つて、近江屋の店に立寄つた。呼ばれて、おせきは奥から出て来て、伯母にも一通りの挨拶をした。伯母が帰るときに、お由は表まで送つて出て、往来で小声でさゝやいた。 「おせきの百日目といふのは昨夜だつたのですよ。」 「さう思つたからわたしも様子を見に来たのさ。」と伯母も声をひそめた。「そこで、何か変つたことでもあつて……。」 「それがね、姉さん。」と、お由はうしろを見かへりながら摺寄つた。「ゆうべも九つ(午後十二時)を合図におせきの寝床へ忍んで行つて、寐ぼけてぼんやりしてゐるのを抱き起して、内の人が蝋燭をかざしてみると――壁には骸骨の影が映つて……。」 お由の声は顫へてゐた。伯母も顔の色を変へた。 「え、骸骨の影が……。見違ひぢやあるまいね。」 「あんまり不思議ですから好く見つめてゐたんですけれど、確にそれが骸骨に相違ないので、わたしはだん/\に怖くなりました。わたしばかりでなく、内の人の眼にもさう見えたといふのですから、嘘ぢやありません。」 「まあ。」と、伯母は溜息をついた。「当人はそれを知らないのかえ。」 「ひどく眠がつてゐて、又すぐに寐てしまひましたから、何にも知らないらしいのです。それにしても、骸骨が映るなんて一体どうしたんでせう。」 「下谷へ行つて訊いて見たの。」と、伯母は訊いた。 「内の人は今朝早くに下谷へ行つて、その話をしましたところが、行者様はたゞ黙つて考へてゐて、わたしにもよく判らないと云つたさうです。」と、お由は声を曇らせた。「ほんたうに判らないのか、判つてゐても云はないのか、どつちでせうね。」 「さあ。」 判つてゐても云はないのであらうと、伯母は想像した。お由もさう思つてゐるらしかつた。もしさうならば、それは悪いことに相違ない。善いことであれば隠す筈がないとは、誰でも考へられることである。二人の女は暗い顔をみあはせて、しばらく往来中に突つ立つてゐると、その頭の上の青空には白い雲が高く流れてゐた。 お由はやがて泣き出した。 「おせきは死ぬのでせうか。」 伯母もなんと答へていゝか判らなかつた。かれも内心には十二分の恐れをいだきながら、兎も角も間にあはせの気休めを云つて置くの外はなかつた。 伯母は家へ帰つてその話をすると、要次郎はまた怒つた。 「近江屋の叔父さんや叔母さんにも困るな。いつまで狐つかひの行者なんかを信仰してゐるのだらう。そんなことをして此方をさん/″\嚇かして置いて、お仕舞に高い祈祷料をせしめようとする魂胆に相違ないのだ。そのくらゐの事が判らないのかな。」 「そんなことを云つても、論より証拠で、丁度百日目の晩に怪しい影が映つたといふぢやないか。」と、兄は云つた。 「それは行者が狐を使ふのだ。」 又もや兄弟喧嘩がはじまつたが、大野屋の両親にもその裁判が付かなかつた。行者を信じる兄も、行者を信じない弟も、所詮は水かけ論に過ぎないので、ゆふ飯を境にしてその議論も自然物別れになつてしまつたが、要次郎の胸はまだ納まらなかつた。ゆふ飯を食つてしまつて、近所の銭湯へ行つて帰つてくると、今夜の月はあざやかに昇つてゐた。 「好い十三夜だ。」と、近所の人たちも表に出た。中には手をあはせて拝んでゐるのもあつた。 十三夜――それを考へると、要次郎はなんだか家に落ついてゐられなかつた。彼はふら/\と店を出て、柴井町の近江屋をたづねた。 「おせきちやん、居ますか。」 「はあ。奥にゐますよ。」と、母のお由は答へた。 「呼んで呉れませんか。」と、要次郎は云つた。 「おせきや。要ちやんが来ましたよ。」 母に呼ばれて、おせきは奥から出て来た。今夜のおせきはいつもよりも綺麗に化粧してゐるのが、月のひかりの前に一層美しくみえた。 「月がいゝから表へ拝みに出ませんか。」と、要次郎は誘つた。 おそらく断るかと思ひの外、おせきは素直に表へ出て来たので、両親も不思議に思つた。要次郎もすこし案外に感じた。併し彼はおせきを明るい月の前にひき出して、その光を恐れないやうな習慣を作らせようと決心して来たのであるから、それを丁度幸ひにして、ふたりは連れ立つて歩き出した。両親もよろこんで出して遣つた。 若い男と女とは金杉の方角にむかつて歩いてゆくと、冷い秋の夜風がふたりの袂をそよ/\と吹いた。月のひかりは昼のやうに明るかつた。 「おせきちやん。かういふ月夜の晩にあるくのは、好い心持だらう。」と、要次郎は云つた。 おせきは黙つてゐた。 「いつかの晩も云つた通り、詰らないことを気にするからいけない。それだから気が鬱いだり、からだが悪くなつたりして、お父さんや阿母さんも心配するやうになるのだ。そんなことを忘れてしまふために、今夜は遅くなるまで歩かうぢやないか。」 「えゝ。」と、おせきは低い声で答へた。 ――影や道陸神、十三夜のぼた餅―― 子どもの唄が又きこえた。それは近江屋の店先を離れてから一町ほども歩き出した頃であつた。 「子供が来ても構はない。平気で思ふさま踏ませて遣る方がいゝよ。」と、要次郎は励ますやうに云つた。 子供の群は十人ばかりが一組になつて横町から出て来た。かれらは声をそろへて唄ひながら二人のそばへ近寄つたが、要次郎は片手でおせきの右の手をしつかりと握りながら、わざと平気で歩いてゐると、その影を踏まうとして近寄つたらしい子供等は、なにを見たのか、急にわつと云つて一度に逃げ散つた。 「お化けだ、お化けだ。」 かれらは口々に叫びながら逃げた。影を踏まうとして近寄つても、こつちが平気でゐるらしいので、更にそんなことを云つて嚇したのであらうと思ひながら、要次郎は自分のうしろを見かへると、今までは南に向つて歩いてゐたので一向に気が付かなかつたが、斜めにうしろの地面に落ちてゐる二つの影――その一つは確かに自分の影であつたが、他の一つは骸骨の影であつたので、要次郎もあつと驚いた。行者を狐つかひなどと罵つてゐながらも、今やその影を実地に見せられて、かれは俄に云ひ知れない恐怖に襲はれた。子供等がお化けだと叫んだのも嘘ではなかつた。 要次郎は不意の恐れに前後の考へをうしなつて、今までしつかりと握りしめてゐたおせきの手を振放して、半分は夢中で柴井町の方へ引返して逃げた。 その注進におどろかされて、おせきの両親は要次郎と一緒にそこへ駈け着けてみると、おせきは右の肩から袈裟斬に斬られて往来のまん中に倒れてゐた。 近所の人の話によると、要次郎が駈け出したあとへ一人の侍が通りかゝつて、いきなりに刀をぬいておせきを斬り倒して立去つたといふのであつた。宵の口といひ、この月夜に辻斬でもあるまい。かの侍も地にうつる怪しい影をみて、たちまちに斬り倒してしまつたのかも知れない。 おせきが自分の影を恐れてゐたのは、かういふことになる前兆であつたかと、近江屋の親たちは嘆いた。行者の奴が狐を憑けてこんな不思議を見せたのだと、要次郎は憤つた。しかし誰にも確な説明の出来る筈はなかつた。唯こんな奇怪な出来事があつたとして、世間に伝へられたに過ぎなかつた。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- 「くの字点」は「/\」で、「濁点付きくの字点」は「/″\」で表しました。
- 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。
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