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恋愛といふもの(れんあいというもの)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-26 8:17:26 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语

底本: 日本の名随筆29 恋
出版社: 作品社
初版発行日: 1985(昭和60)年3月25日
入力に使用: 1991(平成3)年10月20日第16刷

 

恋愛は詩、ロマンチツクな詩、しかも決して非現実的な詩ではないのであります。恋愛にも種々あります、幼時の初恋、青年期中年期の恋、その何れもが大部分自分の意識する処は、詩的感激、ロマンチツクな精神慾ではありますが、意識無意識にかゝはらず、その底には厳として、肉体的意慾が横はり、それが流露を遂げさせんとの自然の意志が実に緊密に加勢せられてあります。ゆゑに、恋愛に於いて当事者の意識する処は大部分ロマンチツクな詩的な精神的部分でありながら、実は人類の根本義に深く根ざし最も確実な現実性を有する最も現実的人生行路のところどころに置かれたる詩篇なのであります。
 さて、私はすでに、恋愛の根底に、厳として性慾の横はれるを云ひました。では、恋愛の一分野たる精神意慾、ロマンチツクな詩的感激は必ず肉体慾にのみ支配されてあるべきものであらうか、否、その見解もまた当つたものではない、結局は霊肉一致、それをくりかへして云ふならば、最もロマンチツクなしかも最も現実に即した人生行路の途上に於ける詩篇なのであります。
 また、一見解よりすれば、恋愛はその当事者にのみ恵まれたる性慾の撰択権なのであります。恋愛が一定の対者を追及するのは、とりもなほさずその時期に於ける性慾撰択権内に於ける一つの事業であります。撰択慾を賞揚し追及性を讃美する見地よりすれば、恋愛も一種の人間至上性の発露であります。
 しかし斯う云ひ去り書き終つたならば、非常に簡単な恋愛解釈をもつて尽きることになりますが、以上は根本の概括を一粒子に搾縮した言論の具象に過ぎません。この根本よりして幾多の複雑、異端、多種、多様の実例が生ずるのであります。
 幾多の生きたる実例、または、歴史的の例証は、もはや筆者を俟たれずとも読者諸氏に於いて充分知悉せらるるを信じます。筆者も今年初夏頃の某誌にもはや充分意を尽したつもりの恋愛論を発表しました故、論筆として諸氏に見える余裕のものを多く持ちません。或ひは諸氏にとつて常凡市井の一例ならんも筆者が最近逢遭した或る恋愛者心理を掲げてこの稿をふさぐことにいたします。

 男と女の恋が成り立つてから半年程のちでした。男が朝鮮へ行かなければならなくなりましたのは、男女の哀別離苦の情、目もあてられぬほどのものでありました。しかし、その悲哀にも男女おのづからの差はありました。
 男は、女が男の遠く去つたあとの寂寞、男が遠隔の地で長の月日(男は三ヶ年行つて居なければなりませんでした。)を過す間に、自分に対する恋の心がうすらいで、他に心を移すやうな場合さへ想像しての純粋な慟哭であるのにくらべて、男は、女の純粋な貞操にふかくたのむ処を持ち、ましてその朝鮮行は、男女周囲の圧迫による止むなき結果ではありましたが、男の事業慾の発露の一端にその朝鮮行はふれて居たものでありましたから悲哀のなかにも一縷の希望を持つて居た処に、男の悲哀は女に較べてその程度の差異はかなりあつたかもしれません。
 しかしとにかく二人ははたで見る目も無惨な哀別離苦のかぎりをつくし、かたく再会を約して別れました。
 三年は経過しました。
 男は無事、かなりな貯金と、事業の端緒を得て女を迎へに日本の東京へかへりました。
 諸氏は男が女の許へ帰るが否や、どんなにか二人の間に劇的な、再会のよろこびが叙されたかを想像することでせう。
 しかし、決して、それは大変な予想違ひでありました。これは、当事者の男女に於ても殆んどその瞬間まで、夢にも想像し得られなかつた事実だつたさうです。否な当事者はまして読者諸氏にいかほどか優つた二人の激越が徐々にそのクライマックスに近づきつつあるのを感得しつつ、久々の対面の機を待ちかまへて居たか知れませんでした。
 三年ぶりの対面の夜――その時間が来ました。
 或る旅館の一室。
 女が先へ行つて待つて居たのでした。
 男が這入つて来ました。
 女は男の顔を見て、小声乍らあつと叫んで男の方へ立ちそびれました
 男も女の顔を見て、あつと同時に同じやうに云ひました。そして女に近づかうとしたばかりで立ちどまりました。
 敵! と男の顔を見た女は即座に感じました。三年の間、待ち焦れ、恋ひ慕ひ、あらゆる寂寞と閨怨とによつて刺戟しつくした揚句、今また息も詰るやうな歓喜の圧迫によつてこの自分を苦しめさいなまんとする、敵よ! 退け。これが女の感じた本当の所でした。
 男は、さうした女の気持ちの反映を直ぐに直覚しました、と同時に三年前の自分の記憶に残つて居た女とは似もつかぬ、やつれて老いた女の俤を一目見て、あらゆる歓喜と期待の心が打ち破られました。自分の為め、自分を恋ひ慕ふの情にさいなまれたその結果、斯うやつれ果てたといふ憐憫の意識は、直ぐその後に頭に登つては来ましたが、いぢわるく一瞥の時の悪感につきまとはれてどうすることも出来ませんでした。
 他に一分も心を寄せ合はなかつた相愛の男女が、三年目の再会後、間もなく永遠の破綻を来らしめました。


 この一例など至極不思議のやうでもあり、またつい平凡なやうにも考へられます。
 恋といふものを尊重すべきものか通常視すべきものか私にも分らなくなりました。始めの書き出しにはロマンチツクなしかも現実に即した人生行路の処々に置かれてある、眼に見ましく手にとらまほしき一篇の詩のやうには書き出しはしましたが…………。





底本:「日本の名随筆29 恋」作品社
   1985(昭和60)年3月25日第1刷発行
   1991(平成3)年10月20日第16刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:渡邉つよし
校正:菅野朋子
2000年7月11日公開
2005年6月24日修正
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