世界紀行文学全集 第二巻 フランス編2[#「2」はローマ数字、1-13-22] |
修道社 |
1959(昭和34)年2月20日 |
1959(昭和34)年2月20日 |
1959(昭和34)年2月20日 |
彼等の決議
市会議員のムッシュウ・ドュフランははやり唄は嫌いだ。聴いていると馬鹿らしくなる。あんな無意味なものを唄い歩いてよくも生活が出来るものだ。本当に生活が出来るのかしら――こう疑い始めたのが縁で却ってだんだん唄うたいの仲間と馴染が出来てしまった。それに彼の生来の世話好きが手伝って彼はとうとう唄うたいの仲間の世話役になってしまった。 いま巴里には町の唄うたいが三百人ばかりいる。彼等は時々サン・ドニの門の裏町のキャフェに寄る。そこへははやり唄の作者や唄本の発行者も集って来て本の取引かたがた町のはやり唄に対する気受の具合を話し合う。それが次のはやり唄を作る作者の参考にもなる。彼等は繩張のことで血腥い喧嘩もよくする。 はやり唄は場末の家の建壊しの跡などへ手風琴鳴しを一人連れて風の吹き曝しに向って唄い出す。また高いアパルトマンの間の谷底のような狭い露路について忍び込んで来て、其処をわずかにのぞく空の雲行を眺めながらも唄う。幾つものアパルトマンの窓から、女や男や子供がのぞく、覗かないで窓の中でしんと仕事をしながら聴いていて手だけ窓から出し、小銭を投げてやる者もある。別に好い声という訳ではない。むしろ灰汁のある癖の多い声が向く、それに哀愁もいくらか交る。そしてもしその唄が時の巴里の物足りなく思っている感情の欠陥へこつりと嵌まり込めばたちまち巴里じゅうの口から口へ移されて三日目の晩にはもうアンピールあたりの一流の俗謡の唄い手がいろいろな替唄までこしらえて唄い流行らしてくれるし譜本は飛ぶように売れ始まる。 スウ・レ・トアド・パリの唄から“C'est pour mon papa”の唄へ――巴里の感情は最近これらのはやり唄の推移によってスイートソロから陽気な揶揄の諧調へ弾み上ったことが証拠立てられた。このとき他の国の財政の慌てふためきをよそにフランスへは億に次ぐ億の金塊がぐんぐん流れ込んでいた。 だが、やがてこの国にも不況が来た。冬を感ずるのは一番先に小鳥であるように、巴里の不景気を感じたのはまず町の唄うたいだった。 無意味なことで彼等は暮らしていると思っていることの上に一種の愛感を持ってこれまで世話して来たムッシュウ・ドュフランは彼等の急にしょげた様子を見てこれが当り前だとも思い、それ見たことかとも思わぬでもなかったが、兎に角今は自分の世話子達である。困惑はもっと迫っていた。 或日、例のサン・ドニの門の裏町のキャフェで彼等の集りがあった。ムッシュウ・ドュフランは司会のはじめにいった。 「どうだ、この不景気に乗るような唄をこしらえて見ては。節はなるたけ陰気なのがいい。たとえば、ラ――ラ――ラ――とこんな調子にやったならば。」 彼等はげらげら笑った。市会議員の舌の鳴物入りの忠言なんかはこの道で苦労している彼等には真面目に対手になってはいられなかった。中にはドュフランの調子外れのラ――ラ――ラ――を口真似するものさえあった。 「駄目かね、それじゃどうするのだ。」 ドュフランは少しむっとした。 喋り好きの彼等が長時間討議し合ってやっと一つの決議が纒った。それははやり唄うたいを巴里の表通へも流して出られるようドュフランにその筋へ運動して貰うことだった。今まで町で流すことは交通整理上彼等に禁じられている。ドュフランは官署へ出かけて行って警視長官チアベと向い合った。 「わしの子鳥達がこういうんです――」 ドュフランはいつも彼の世話子達をこういう言葉で呼んだ。 「あなたの子供達にこれだけの規則違犯があるのですよ。」 警視長官は笑いながら先手を打って唄うたいの反則事件の調書を見せようとした。ドュフランはそれをまあまあと押えて唄うたいの窮状をくわしく述べ、終りに嘆願の筋を申出た。警視長官は市会議員に対する儀礼としてちょっと熟考の形を取ったが肚は決っていた。 「どう考えて見ましてもこのお申出についてはあなたのお顔を立てかねますな。但、御陳情によりまして以後、唄うたいの新出願者は決して許可しないことにいたしましょう。つまり、巴里の唄うたいの数を現状の三百人より増さんように。」 ドュフランは自分の考えた第二策を今度は持ち出した。 「御厚意を謝します、しかし今一度お考え直しを願いたいことは――もしあれ等がフランス固有の唄も混ぜて唄うとしたらどうでしょう。日々にフランスの国風が頽廃して行くのはお互い識者たるものの嘆じているところです。町の唄うたいが揃ってフランスの歴史的の唄をうたって歩いたらこれあずいぶんこの国の首都に好い感化を与えますぞ。」 警視長官は面白くもない昔の唄を町の唄うたいが義務で唄う表情を想像して笑いたくなったが我慢して穏かに断った。 ムッシュウ・ドュフランはサン・ドニのキャフェへ帰って行った。審議は仕直された。第二の決議が出来た。すこぶる激越の調子を帯びた決議文が成文された。 「われ等はラジオの拡声器を職業の敵と認める。われらは拡声器に対し戦いを宣す。」 この決議文を握らされてムッシュウ・ドュフランはキャフェを押出された。どこへ持って行ってよいのか聴き返す余裕を興奮した世話子達は許さなかった。ムッシュウ・ドュフランは呆れた顔をして夕暮の明るいイタリー街へ出た。店々では食事時の囃し唄を町の通へ賑やかに明け放っていた。ムッシュウ・ドュフランはしばらく立止って聴いていたやがて自分も口惜しくなって町へ向って叫んだ。 「ばか! ラジオの馬鹿!」
ダミア
うめき出す、というのがダミアの唄い方の本当の感じであろう。そして彼女はうめくべく唄の一句毎の前には必らず鼻と咽喉の間へ「フン」といった自嘲風な力声を突上げる。「フン」「セ・モン・ジゴロ……」である。 これに不思議な魅力がある。運命に叩き伏せられたその絶望を支えにしてじりじり下から逆に扱き上げて行くもはや斬っても斬れない情熱の力を感じさせる。その情熱の温度も少し疲れて人間の血と同温である。 彼女の売出しごろには舞台の背景に巴里の場末の魔窟を使い相手役はジゴロ(パリの遊び女の情人)に扮した俳優を使い彼女自身も赤い肩巻に格子縞の Basque という私窩子型通りの服装をして彼女の唄の内容を芝居がかりで補ったものだが、このごろは小唄専門のルウロップ館あたりへ出る場合にはその必要は無い。黒一色の夜会服に静まっても彼女の空気が作れるようになった。 女に娘時代から年増の風格を備えているものがある。ダミアはそれだ。しかもダミアは今は年齢からいっても大年増だ、牛のような大年増だ。頬骨の張った顔。つり合うがっしりした顎。鼻は目立たない。その鼻の位置を狙って両側から皺み込む底の深い鼻唇線は彼女の顔の中央に髑髏の凄惨な感じを与える。だが、眼はこれ等すべてを裏切る憂欝な大きな眼だ。よく見るとごく軽微に眇になっている。その瞳が動くとき娘の情痴のような可憐ななまめきがちらつく。瞳の上を覆う角膜はいつも涙をためたように光っている。決して大年増の莫蓮を荷って行ける逞しさもまた知恵も備えた眼ではない。所詮は矛盾の多い性格の持主で彼女はあるだろう。(矛盾は巴里それ自身の性格でもあるように)何か内へ腐り込まれた毒素があって、たといそれが肉体的のものにしろ精神的のものにしろそれに抗素する女のいのちのうめきが彼女の唄になるのであろう。彼女に正統な音楽の素養は無かったはずだ。町辻でうめき酒場でうめきしているそのうめき声にひとりで節が乗ってとうとう人間のうめきの全幅の諧調を会得するようになったのだ。人間にあってうめかずにいられないところのものこそ彼女の生涯の唄の師である。 彼女が唄うところのものはジゴロ、マクロの小意気さである。私窩子のやるせない憂さ晴しである。あざれた恋の火傷の痕である。死と戯れの凄惨である。暗い場末の横町がそこに哀しくなすり出される。燐花のように無気味な青い瓦斯の洩れ灯が投げられる。凍る深夜の白い息吐きが――そしてたちまちはげしい自棄の嘆きが荒く飛んで聴衆はほとんど腸を露出するまでに彼女の唄の句切りに切りさいなまれると、其処に抉出される人々の心のうずきはうら寂びた巴里の裏街の割栗石の上へ引き廻され、恥かしめられ、おもちゃにされる。だが「幸福」だといって朱い唇でヒステリカルに笑いもする。そして最後はあまくしなやかに唄い和めてくれるのだ。ダミアの唄は嬲殺しと按撫とを一つにしたようなものなのだ。 彼女はもちろん巴里の芸人の大立物だ。しかし彼女の芸質がルンペン性を通じて人間を把握しているものだけに彼女の顧客の範囲は割合に狭い。狭いが深い。 ミスタンゲットを取り去ってもミスタンゲットの顧客は他に慰む手段もあろう。ダミアを取り去るときダミアの顧客に慰む術は無い。同じ意味からいって彼女の芸は巴里の哀れさ寂しさをしみじみ秘めた小さいもろけた小屋ほど適する。ルウロップ館ではまだ晴やかで広すぎる。矢張りモンパルナス裏のしょんぼりした寄席のボビノで開くべきであろう。これを誤算したフランスの一映画会社が彼女をスターにして大仕掛けのフィルム一巻をこしらえた。しかしダミアはどうにも栄えなかった。
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