愛よ、愛 |
メタローグ |
1999(平成11)年5月8日 |
1999(平成11)年5月8日第1刷 |
1999(平成11)年5月8日第1刷 |
セーヌの河波の上かわが、白ちゃけて来る。風が、うすら冷たくそのうえを上走り始める。中の島の岸杭がちょっと虫ばんだように腐ったところへ渡り鳥のふんらしい斑がぽっつり光る。柳が、気ぜわしそうにそのくせ淋しく揺れる。橋が、夏とは違ってもっとよそよそしく乾くと、靴より、日本のひより下駄をはいて歩く音の方がふさわしい感じである。巴里に秋が来たのだ。いつ来たのだろう、夏との袂別をいつしたとも見えないのに秋をひそかに巴里は迎えいれて、むしろ人達を惑わせる。そうなると、街路樹の葉が枯葉となって女や男の冬着の帽や服の肩へ落ち重なるのも間のない事だ。 ハンチングを横っちょにかむり、何か腹掛けのようなものを胸に当てたアイスクリーム屋のイタリー人が、いつか焼栗売りに変っている。とある街角などでばたばたと火を煽ぎながら、 ――は、いらはい、いらはい、早いこと! 早いこと! アイスクリームの寒帯から早く焼栗屋の熱帯へ……は、いらはい、いらはい。 空には今日も浮雲が四抹、五抹。そして流行着のマネキンを乗せたロンドン通いの飛行機が悠長に飛んで行く。 ――いよいよね。今月一ぱいで店を畳んで、はあ、ツール在の土となるまでの巣を見つけて買い取りましたよ。巴里にも三十年、まあ三十年もまめに働けばもう、楽に穴にもぐって行く時節が来たというものですよ。 パッシー通りで夫婦揃って食料品店で働き抜いた五十五、六の男の自然に枯れた声も秋風のなかにふさわしい。男は小金を貯めた。多くの巴里人のならわし通りこの男も老後を七、八十里巴里から離れた田舎へ恰好な家を見付けて買取り、コックに一人の女中ぐらい置いて夫婦の後年を閑居しようという人達だ。 ――店の跡を譲った人も素性はよし(もちろん売り渡したのだが)安心して引込めますよ。この秋は邸のまわりの栗の樹からうんと実もとれますし、来秋から邸についた葡萄畑で素敵な新酒を造りますよ。どうぞおひまを見てお訪ね下さい。 相手になっているのは、これも勤勉な隣街の大きな靴店のおやじだ。 ひるひとときはひっそりとする巴里。ひるのひとときが夜のひそけさになる巴里。秋は殊さらひそかになる昼だ。 何処か寂然として、瓢逸な街路便所や古塀の壁面にいつ誰が貼って行ったともしれないフラテリニ兄弟の喜劇座のビラなどが、少し捲れたビラじりを風に動かしていたりする。 ブーロウニュの森の一処をそっくり運んで来たようなショーウインドウを見る。枯れてまでどこ迄もデリカを失わない木の葉のなかへ、スマートな男女散策の人形を置いたりしている。オペラ通りなどで、そんなデリカなショーウインドウとは似てもつかないけばけばしいアメリカの金持ち女などが停ち止って覗いているのなどたまたま眼につく。キャフェのテラスに並んでうそ寒く肩をしぼめながら誂えたコーヒの色は一きわきめこまかに濃く色が沈んで、唇に当るグラスの親しみも余計しみじみと感ぜられる。店頭に出始めたぬれたカキのからのなかに弾力のある身が灯火に光って並んでいる。路傍の犬がだんだんおとなしくしおらしく見え出す。西洋の犬は日本の犬のように人を見ても吠えたりおどしたりしない、その犬たちが秋から冬はよけいにおとなしく人なつこくなる。 公園で子を遊ばしている子守達の会話がふと耳に入る。 十八、九なのが二つ三つ年上の編物を覗き込みながら、 ――あんた、まだそれっぽっち。 ――だってあのおいたさんを遊ばせながらだもの。 なるほど、傍で砂いじりしている子はおいたさんと呼ばれるほどの一くせありげないたずらっ子の男児だ。 ――だけど、その帽子の色好いね、ほんとに。あんた毛糸の色の見立てがうまいよ。 ――うん。 ――あら、やに無愛想だね。またあの兄んちゃんのことでも考えてるんだろ。 ――からかうにもさ、リヨン訛じゃ遣り切れないよ、このひと、いいかげんにパリジェンヌにおなりよ。 十八、九のは少し赧くなりながら、 ――大きなお世話さ。 ――だってさ、お前さんのあの人だって、いつまでもリヨン訛じゃやり切れまいさ。 ――大きなお世話さ。 十八、九のはてれ隠しに自分の守り児のかぼそい女の児を抱き上げて、 ――芝居季節が近づいたんでこの子のお母さん巴里へ帰って来るってさ。 ――あのスウィツルの女優かえ、又違ったお父さんの子でも連れて帰るんだろ。 夕ぐれ、めっきり水の細った秋の公園の噴水が霧のように淡い水量を吐き出している傍を子守達は子を乗せた乳母車を押しながら家路に帰って行く。
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