桂子は自分の講習所の開所五周年記念の大会が、十日ほど先の花の盛りの時分に、Q――芸館で開かれることになつてゐたので、桂子は同業への補助出品の依頼やら、挨拶やら、自分と弟子達の作品の仕掛けの工夫やらで、眼も廻るほど忙しかつた。 桂子からして疑へば、このQ――芸館を借りることに就いて、既に約定されてゐたものを反対側の連中の策謀と思はれる力で、貸すとか貸さぬとか、開会ももう十日程の目睫に迫つて、故障が持ち上つた。理由はこの芸館で、まだ生花の会をやつたことはないといふのであつた。それから今までやつた美術品にしても工芸品にしても、一流の定評のあるものばかりで、多分に冒険性を含んだ野心家の「試み」をやられては、折角築き上げて来た芸館の一流品展観所としての貫禄を少からず損ずると、支配人が急に主張し出したといふことも仲介者は伝へた。 講習所五周年記念の大会とはいへ、実は新華道界に於ける桂子のデビユーにも等しいものであつた。普通に使ふアマリヽスとか、チユーリツプ、カーネーシヨン、ダリヤといふやうな洋花以外の、まだ滅多に使つた例しのない奇矯な南洋の花や珍しい寒帯の花、枯れた草木の枝葉などを独創的に使ひ慣らして、華道の伝統感覚の模倣を破つた新興美術的手法の効果を示さうとした。その自信と成績を、桂子が世の中に問うてみる最初の企てなのである。 どちらからいつても、桂子はこのまゝ引込んで仕舞ふわけにはゆかない意気に燃え上つて仕舞つた。だが結局Q――芸館借入れは不調に終つた。それに対する悩みや華会中止の不面目やが身に喰ひ入り、しんに疲れが浸みたのか、桂子はこの頃珍しく昼寝をするやうになつた。 いつの間にやら花も散つて、自分の焦る心より先に季節が先走りするのが、ひし/\と桂子に感じられた。 今日も茶室の小座敷で襖に留金を掛け籠枕を頬に当てゝ横になると、桂子は多少、自分の世界を取り戻した気持になる。せん子を小布施のところへ遣つてから、手廻りは何事も不如意で、代つてして呉れる内弟子のカリフオルニヤ生れの桑子はビジネスライクに過ぎて、気持にそぐはないところが多い。それから姪のせん子でなければ、して貰へないこともある。寝室の壁の隠し棚に入れて置く夜壺、たとへこれがペルシヤ模様の清楚華麗な品であるにしても、この始末など、いくら内弟子でも桑子にはさせられない。自分でしなければならない。だが、年頃になるまで外国で育つた桑子のすることには、日本の習慣に馴れない一種の愛嬌があつて慰むこともある。生花の師には弟子から何かと贈物があつた。ある日下町の割烹家から鰹の土佐焼を美しい祥瑞模しの皿に盛つて送つて来た。その鰹の肉片が片側藁火に焙られて、不透明な焼肉の色から急速に生身の石竹色に暈けてゐるのをまじ/\と見詰めながら、桑子は師匠に云つた。「先生、このお刺身は腐つてゐません?」さういふときには、桂子は男の子を一人持つたやうな愛感が熱く身に沁み出るのを覚える。かの女は先づ桑子に握手してやるのであつた。それからいふ。 「桑子! まあ、いゝから/\!」 これも桑子のやり過ぎた仕業の一つとして、椽側の金魚の硝子箱は綺麗に掃除され、折角青みどろの溜つた水は、截りたての晒木綿のやうな生の水に代へられてあつた。しかし、桂子はこれも夏向きの季節柄悪くはないと思つた。そして暫く忙しくて眼にとめてゐられなかつた庭や椽先の光景を、しんみりと眺めた。 庭一面にぐんと射当てゝ、ぐんと射返す初夏の陽光は、椽側にも登り、金魚の硝子箱を横から照らして、底の玉石と共に水を虫入り水晶のやうに凝らしてゐる。眩しがる二尾のキヤリコの金魚は、多少怪訝の動作を鰭の角々のそよぎに示しながら、急に代つた水の爽快さを楽しむらしかつた。 キヤリコは白紗のやうな鰭に五彩の豹紋を撒いた体を、花と紊し房に紋つてゐる[#「紋つてゐる」はママ]。縞馬は相変らず硝子箱の外側に口を触れて、琥珀の眼を円らにしてゐる。蓋の上の花瓶には青一束ねの麦の穂が挿してある。 眠くても眠り切れない興奮と困憊の異様な混濁の上に、まだ/\先に困難を控へてゐるのを予覚すると、こゝろが却つて生々として来て愉しくないこともない。私は一体どういふ女なのだらう。闘志にさへ時にうづく快感を覚えるなんて……。そのうち桂子はだん/\半睡半眠にひき入れられて行つた。瞳孔が弛緩し、目蓋が重く垂れて来るのを、そのまゝにしてゐると、とき/″\反射的にこれを撥ね返す神経があつて、その度に蛍いろに光る桂子の意識の眼に、庭の花が逞しく触れて来た。 庭には葉桜を背景にして、大和国分尼寺の遠州系の庭を縮模した、女性的で温雅な池泉が望まれる。目の前のすぐ椽先に大きな花壇がしつらはれ、教へ子や出入りの花屋が、根付きのものを持つて来たり、温室仕立ての鉢の咲き越したのを埋めて行つたりして、それが季節を違へたり、または季節を守つて四季ともに、撩雑に咲く。教へ子たちは、「花の姨捨山」とも、「花の百軒店」ともいつてゐるが、やはり初夏が一ばん花の盛りである。 桂子がうつら/\と夢に入り夢を出るすれ/\の境に、ポツピー、ルピナス、小判草、躑躅、アスター、スヰートピー、アイリス、鈴蘭、金魚草、アネモネ、ヒヤシンス、山吹、薔薇、金雀児、チユーリツプ、花菱草、シヤスター、デージー、松葉菊、王不留行、ベチユニヤなど――そしてこれ等の花々は白、紅、紫、橙いろ、その他おの/\の色と色との氈動を起して混り合ひ触れ合つて、一つの巨大な花輪となる――すると幾百本、幾千本とも数知れない茎や葉や幹は、また合して巨大の茎となり葉となり幹となつて、一つの大花輪の支へとなる。 其処に力声が発する。 「吽! 吽!」 白玉の汗が音もなく滴り落ちて大地に散り浸む。大地はいつの間にか透けて、地中で白玉の数本の根枝に纒められて、地上のものを、また支へてゐる巨根がカツーン映画の影像のやうに明かに覗かれる。其処から力声が出る。 「吽! 吽!」 これは人類に機械的神秘性の体系を立てようとしたジユールロマンの旧いユナニミズムの精舎の姿かと、桂子は夢との境の半意識の裡に想ふ。 「――」 これは詩人クローデルが大胆不敵にいひ除けた、「主は現代の停車場にも、劇場にもある」といつた、韻致カソリシズムの象徴かと桂子は想ふ。 その他、「何々」「何々」 「――」「――」 桂子が芸術に携はつてからの生涯の折々に、かの女の息を詰める程に感銘させ、すぐまた急ぎ足に去つて行つたいくつかの思想、――それはどんなすさまじい意気のものであらうが、不思議なことには、みな優しい女を労る女性尊重の天鵞絨のやうな触手を持つてゐた。それらが、いま桂子の夢の意識のなかに歴訪する。 「――」「――」 花は一つも頷かない。 たゞ、「吽! 吽!」と力声を出して、白玉の汗をきらり/\滴らしてゐる。 ひよつとしたら花は思想以前のものであらうか、実感上に蟠る、無始無終、美の一大事因縁なのではあるまいか。一大因縁なるがゆゑに、誰人もこの美をどうすることも出来ない。とすれば、それは既に地上の重大な力でもあるか。 高雅で馥郁として爽かにも物錆びた匂ひがする。稽古所の方で教へ子たちが水上げをよくするため、切花の芍薬の根を焼いてゐるのだと、うつら/\夢から覚め際の桂子は想ふ。桂子の心はしめやかに全意識を恢復して来る。すると、夢のなかの巨大な花は、徐ろに現実の一つ一つの花壇の花となつて一つの巨輪から分裂し、もとの花壇のめい/\の位置に戻つた。
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