彼の初めの目的は伝説から来る超現実の美女の俤を心に夢み味ひしめることに在つたが、ある程度までの史実的存在の基礎は掴みたかつた。 彼は先づ小野家の系図から調べにかかつた。あの有名な遣唐使篁朝臣の子の良真の女として小町が記入されてゐるのもあり、無いのもある。 次に典拠になる考証を調べた。古来、名だたる学者が甲論乙駁して主張は数説に岐れてゐる。だが主流になる説は二説であつた。小町は近畿在住の小野家一族中に姫として出生し、直ちに宮中へ仕へたといふ説と、飽くまで伝説通り、良真が出羽守として赴任中妾腹に生れ、後京都に上つたといふ説とである。そして小町の古蹟と呼ばれてゐるものも近畿地方と出羽国との双方に多く割拠してゐる。 君助は強ひて真偽を定めなかつた。美人の素姓に於て、謎の深いことは魅惑の強いことにもなるからだ。 君助は楽しんで、伝説の小町の研究に入つて行つた。草紙洗小町、雨乞小町などといふいはゆる七小町の類から六歌仙の一人としての歌仙小町、それから人生の栄枯盛衰にかけてあはれ深く説きなした玉造小町、業平東下りの条の髑髏の小町などまで、およそ絶世の美女の上に空想される詩的構想を、あらゆる角度から伝説は充たしてゐる。そしてこれ等の空想の翼は、かなり小町の歌と世に通つてゐるものから飛翔してゐるのに気付いて、今度は彼女の歌の研究に入つて行つた。 小町集の全部はあてにならないにしても、これと古今、後撰などと照し合せて小町の歌らしいものを捕捉することが出来た。 ときには、男を揶揄するほどぴんとして気嵩なところがあり、ときには哀切胸も張り裂ける想ひが溢れ、それでゐて派手で濃密である。小町の美女としての人格がこれ等の歌の綜合感から出発してゐることを君助は初めて知つた。 研究の副産物として小町もときには恋愛し、ときには恋人に疎んぜられ恨みをのんだらしい形跡をも君助は見出した。従つて生涯無垢だといはれる巷間の噂話も、打消されるわけだが、なぜかこゝまで来ると彼の鋭い考察のメスはぴたりと止つた。そして頭を振つて言つた。 「小町は無垢の女だ。一生艶美な童女で暮した女だ」 友人はこれを聴いて、君助は孤独の寂しさから、少女病にかかつて、どの女も処女だと思ひ込むのだといつたが、君助はそれでもいゝ、結局男の望む理想の女はさうした女なのだと言ひ放つた。 書斎の研究はこの辺で一まづ打切つて、丁度季節も暖になつたので、君助は夢を事実に追ふやうな事蹟踏査に出たのであつた。 君助がゆつくり空やまはりの景色を見廻した眼を再び芍薬に戻すと、いつの間にか紫紅の焔のやうな花の群がりの向う側に一人の少女が立つて居た。 君助はあつと心に叫んで驚いた。それが幻ではあるまいかと疑つて、自分の眼を瞬いた。 少女はやゝ黄味がかつた銘仙の矢絣の着物を着てゐた。襟も袖口も帯も鴾色をつけて、同じく鴾色の覗く八つ口へ白い両手を突込んで佇つてゐた。憂ひが滴りさうなので蒼白い顔は却つてみづ/\しい。睫毛の長い煙つたやうな眼でじつと芍薬を見つめてゐた。 「お嬢さん! あなたはどちらのお子?」 君助は思はず訊いてしまつた。そして何といふ美しい娘だらうと険しくなる程無遠慮な眼ざしで瞠つた。 少女はまるで相手に関はぬ態度で、しかし、身体つきをちよつとかしげた顔に生れつき自然に持つ媚態とでもいつた和みを示し、ふくよかに答へた。 「あたくし、あすこのうちの者よ」 少女の指した神祠の茂みの蔭に、地方の豪家らしい邸宅の構へがほんの僅か覗いてゐた。 「おいくつ?」 「十六」 「名前は」 「釆女子」 問答は必要なことを応答するやうな緊密さで拍子よく運んだ。君助はこの幻のやうな美少女が現実の世界のものであることをやゝはつきり感じて来た。彼は渇いたものが癒されたときの深い満足の溜息を一つしてから 「学校へは行かないのですか」 「東京の学校へ行つてましたが、あんまり目立ち過ぎるつて、家へ帰されましたの。つまんないつてないの」 つまんないと云ふ少女の失望の表情が君助まで苦しめて、彼は怒を覚えて詰るやうに訊いた。 「目立ち過ぎるつて、何が目立ち過ぎるんです?」 少女は、くつくと笑つた。 「いへないわ」 君助はもうこの時、直感するものがあつて言ひ放つた。 「あなたがあんまり美しいので、学校でいろ/\な問題が起つて困る。それで帰されたのでせう」 すると少女はもう悪びれずに答へた。 「をぢさま、よくご存じでいらつしやるわ」 陽は琥珀色に輝いて、微風の中にゆらぐ芍薬と少女は、閃めいて浮き上りさうになつた。少女はもう何事も諦め、気を更へて、運命の浪の水沫を戯ぶ無邪気な妖女神のやうな顔つきになつてゐる。しなやかな指さきで芍薬の蕾の群れを分け、なかで咲き切つた花の茎を漁り、それを撮まうとしながら少女は言つた。 「をぢさま、この土地の伝説をご存じない?」 「知りません」 「この土地は小野の小町の出生地の由縁から、代々一人はきつと美しい女の子が生れるんですつて。けれどもその女の子は、小町の嫉みできつと夭死するんですつて」 「ほゝう!?」 少女は漸く、気に入つた開花を見付けて、ぢつと眺め入つてゐた。それから、また眼を上げて君助の顔を見た。下ぶくれの下半面についてゐる美事な唇に艶が増して来る。 「?」 「をぢさま、人間ていふものは、死ぬにしても何か一つなつかしいものをこの世に残して置き度がるものね。けども、あたしにはそれがないのよ」 然し、さういひながらも少女は情熱に迫られたやうに、矢庭に顔を芍薬に埋めて摘んだ花に唇を合せた。紫に光る黒髪がぶる/\慄へてゐる。君助は、そつと片唾をのんだ。 花から唇を離した少女の顔は青白く冴えてゐた。見るさへたゆげに肩を落し、後向くと夕風の吹く方向へ急に病気らしい咳をせき込みながら、白い踵をかへして消えるやうに神祠の森蔭へかくれて行つて仕舞つた。 失神したやうになつてゐた君助は、やがて気がつくと少女が口づけた芍薬の花を一輪折り取つた。彼は酔ひ疲れた人の縹渺たる足取りで駅へ引き返した。君助は東京へ帰つてから、かなり頭が悪くなつたといふ評判で、学界からも退き、しばらく下手な芍薬作りなどして遊んでゐるといふ噂だつたが、やがて行方不明になつた。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- 「くの字点」は「/\」で表しました。
- 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。
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