日本幻想文学集成10 岡本かの子 |
国書刊行会 |
1992(平成4)年1月23日 |
1992(平成4)年1月23日初版第1刷 |
1992(平成4)年1月23日初版第1刷 |
それはまだ、東京の町々に井戸のある時分のことであつた。 これらの井戸は多摩川から上水を木樋でひいたもので、その理由から釣瓶で鮎を汲むなどと都会の俳人の詩的な表現も生れたのであるが、鮎はゐなかつたが小鯉や鮒や金魚なら、井戸替へのとき、底水を浚ひ上げる桶の中によく発見された。これらは井の底にわく虫を食べさすために、わざと入れて置くさかなであつた。「ばけつ持つてお出で」井戸替への職人の親方はさう云つて、ずらりと顔を並べてゐる子供達の中で、特にお涌をめざして、それ等のさかなの中の小さい幾つかを呉れた。お涌は誰の目にもつきやすく親しまれるたちの女の子であつた。 夏の日暮れ前である。子供達は井戸替へ連中の帰るのを見すまし、まだ泥土でねば/\してゐる流し場を草履で踏み乍ら、井戸替への済んだばかりの井戸側のまはりに集つてなかを覗く。もう暗くてよく判らないが、吹き出る水が、ぴちよん、によん、によんといふやうに聞え、またその響きの勢ひによつて、全体の水が大きく廻りながら、少しづつ水嵩を増すその井戸の底に、何か一つの生々してゐてしかも落ちついた世界があるやうに、お涌には思はれた。
蝙蝠来い 簑着て来い 行燈の油に火を持つて来い ……………………
仲間の子供たちが声を揃へて喚き出したので、お涌も井戸端から離れた。 空は、西の屋根瓦の並びの上に、ひと幅日没後の青みを置き残しただけで、満天は、紗のやうな黒味の奥に浅い紺碧のいろを湛へ、夏の星が、強ひて在所を見つけようとすると却つて判らなくなる程かすかに瞬き始めてゐる。 この時、落葉ともつかず、煤の塊ともつかない影が、子供たちの眼に近い艶沢のある宵闇の空間に羽撃き始めた。その飛び方は、気まぐれのやうでもあり、舵がなくて飛びあへぬもののやうでもある。けれども迅い。ここに消えたかと思ふと、思はぬ軒先きに閃めいてゐる。いつかお涌も子供達に交つて「蝙蝠来い」と喚きながら今更めづらしく毎夜の空の友を目で追つてゐると、蝙蝠も今日の昼に水替へした井戸の上へ、ひら/\飛び近づき、井戸の口を覗き込んではまた斜に外れ上るやうに見える。お涌は蝙蝠が井戸の中の新しく湧いた水を甞めたがつてゐるのかとも思つた。ふと、今しがた自分が覗いた生々として落ちついた井の底の世界を、蝙蝠もまた、あこがれてゐるのではあるまいか―― 「かあいさうな、夕闇の動物」 お涌は、この小さい動物をいぢらしいものに感じた。 「捕つた/\」 といふ声がして、その方面へ子供が、わーつと喚き寄つて行つた。桶屋の小僧の平太郎が蝙蝠の一ぴきを竿でうち落して、両翅を抓み拡げ、友達のなかで得意顔をしてゐる。薄く照して来る荒物屋の店の灯かげでお涌がすかして見ると、小さい生きものは、小鼠のやうな耳のある頭を顔中口にして、右へ左へ必死に噛みつかうとしてゐる。細くて徹つたきいきいといふ鳴声を挙げる。「ほい畜生」と云つて平太郎は巧に操りながら、噛みつかれないやうに翅を延して避ける。ぴんと張り拡げられた薄墨いろの肉翅のまん中で、毛の胴は異様に蠢き、小鳥のやうな足は宙を蹴る。二つの眼は黒い南京玉のやうに小さくつぶらに輝いて、脅えてゐるのかと見ると嬉しさうにも見える。またきいきいと鳴く。その口の中は赤い。 お涌は、何か、肉体のうちを掠めるむづむづしたやうな電気を感じ、残忍な征服慾を覚え、早くこの不安なものの動作を揉み潰してしまひ度いやうな衝動にさへ駆られて、浴衣の両袂を握つたまゝ、しつかり腕を組み合せ、唇を噛んで見入つてゐた。 「お呉れよ、お呉れよ」 とまはりの子供達が強請む中に、平太郎はお涌を見つけると愛想笑ひをして 「お涌ちゃんに、これ、やらうね、さあ」 といつて、抓み方を教へ乍ら、お涌にこの小さい動物を指移しに渡した。 お涌は、不気味さに全身緊張させ、また抓んだ指さきの肉翅のあまり華奢で柔かい指触りの快いのに驚きながら、その小動物を自分の体からなるたけ離すやうにして、そろ/\自宅の方へ持ち運んで行つた。お涌に蝙蝠を取られた他の子供達がうしろから嫉妬の喚きを立てゝ囃した。 お涌が、自宅の煉瓦塀のところまで来ると、あとから息せき切つて馳けて来た日比野の家の女中が声をかけて 「お嬢さま、あなたが蝙蝠をお貰ひになつたのを、うちの坊ちやまが窓から御覧になつてまして、是非標本に欲しいから、頂いて来て呉れろと仰言いますので…………ほんたうに御無理なお願ひで済みませんが…………坊ちやまのお母さまもお願ひして来るように仰言いますので…………」 お涌は、大人の女中の使者らしい勿体振つた口上にどぎまぎして、蝙蝠も惜くはあるが遣らなければならないものと観念して、小さい声で 「ええ、あげますわ」 といつて女中の前に小動物を差出した。 「ほんとに、済みませんで御座います」 女中は礼を繰返しながら蝙蝠をお涌の手から抓み代へて受取らうとする。蝙蝠は口を開けてきいきい鳴き続ける。二三度試みて、たうとう指さきを臆させてしまつた女中は 「お嬢さま、まことに恐れ入りますが、とても私の手にはおへませんから、このまま蝙蝠を宅までお持ち願へませんか」 お涌は大人にこれほど叮嚀に頼まれる子供の侠気にそゝられて承知した。 日比野の家は、この町内で子供達が遊び場所にしてゐる井戸の外柵の真向ひで、井戸より五六軒距つたお涌の家からはざつと筋向うといへる位置にあつた。前に大溝の幅広い溝板が渡つてゐて、粋でがつしりした檜の柾の格子戸の嵌つた平家の入口と、それに並んでうすく照りのある土蔵とが並んでゐた。土蔵の裾を囲む駒寄せの中に、柳の大木が生えてゐる。枝に葉のある季節には、青い簾のやうにその枝が、土蔵の前を覆うてゐた。町内のどの家と交際してゐるといふこともなかつた。 土蔵には、鉄格子の組まれた窓があつた。その中が勉強部屋になつてゐるらしく、末息子の皆三の顔がよく見えた。 子供達のなかの誰もこの家のことをよく知らなかつた。富んでゐる無職業の旧家であることだけは判つたが、内部の家族の生活振りや程度のことなど、子供等の方から、てんで知り度い慾望もなかつたのである。ただ土蔵の窓から、体格のしつかりしてさうな眉目秀麗な子供の皆三が、しよつちゆう顔を見せてゐる癖に、決して外へ出て、みんなと一緒に遊ばない超然たるところを子供達は憎んだ。さういふ型違ひな子供のゐる日比野の家は、何か秘密がありさうな不思議な家と漠然と思つてゐるだけだつた。 子供達は、お涌も時に交つて、その土蔵の外の溝板に忍び寄り、俄かに足音を踏み立てて「ひとりぼつち――土蔵の皆三」と声を揃へて喚く。お涌もこの皆三の超然たるところを憎むことに於て、他の子供達に劣らなかつた。が、喚き立てる子供達の当て擦りの下卑た荒々しい言葉が、あの緊密相な男の子の神経にかなり深刻に響いて、彼をいかに焦立たせるかとはらはらして堪らない気もした。それでゐてお涌自身も、子供達と一しよにますます喚き立て度い不思議な衝動にいよ/\駆られるのであつた。お涌はさういふ気持ちで喚く時、脊筋を通る徹底した甘酸い気持ちに襲はれ頸筋を小慄ひさせた。 窓からは皆三の憤怒に歪んだ顔が現はれ 「ばか――」 と叫ぶのだが、その語尾はおろ/\声の筋をひいて彼自身の敗北を示してゐた。そのとき子供達はもう井戸の柵のところまで立退き凱歌を挙げてゐる。 さういふ時の皆三と、今、自分に蝙蝠を譲つて欲しいと女中にいはせに来た皆三とは、別人のやうにお涌には感じられたが、しかし、ともかくあの変つた男の子がゐて、そして町内の子どもが誰も見たことのない神秘の家へ自分ひとり入つて行くことは、お涌に取つて女中のために蝙蝠を運んで行つてやる侠気以上の張合ひであつた。 お涌の先に立つた女中が格子戸を開けた。眼の前にびつくりするやうな大きな切子燈籠が、長い紙の裾を垂らしてゐる。その紙を透して、油燈の灯かげと玄関の瓦斯の灯かげと――この時代には東京では、電気燈はなくて瓦斯燈を使つてゐた――との不思議な光線のフオーカスの中に、男の子の姿が見えた。仁王立ちになつてゐた。男の子は、女中ばかりでなくお涌が一しよなのに驚いた様子で、片足退つて身構へる様子だつたが、女中の説明を聞くうち、男の子はすつかり笑顔になつて、自分も手伝つてきいきいいふ小鳥のやうな動物を空いた鸚鵡籠の中へ首尾よく移した。籠の口で、お涌が指を蝙蝠の翅から離すときに、いかにも喰ひつかれるのを怖れるやうに、勢づけて引込ますと、男の子はくくくと、笑つた。その声には、いぢらしいものを愛し労はる響きがあつた。 お涌は、日頃遠くから軽蔑してゐた男の子の立派な格のある姿を眼の前にはつきりと視、思ひがけなくもその声からかういふ響きを聞くと、女が男に永遠に不憫がられ、縋らして貰ひ度い希望の本能のやうなものがにはかに胸に湧き上つた。お涌はにはかに赧くなつた。それが、お涌の少女の気もちに何か戸惑つたやうな口惜しささへ与へた。お涌は、つんと済して帰つて仕舞はうかとさへ思つたが、一たん胸に湧きあがつた本能が、ぐんぐん成長して、お涌の生意気を押へつけ、却つて可憐に媚びを帯びた態度をさへお涌につくらせてしまつた。 お涌の眼と見合ふと、男の子も少し赧くなつた。男の子はその顔を鸚鵡籠へ覗かして 「この蝙蝠、翅が折れてら」 とはじめて声を出して云つた。声は、金網越しに「ばか」と怒つたときの声に似てゐて、似てもつかぬ、しつかりした声だつた。だが、その声でややお涌に向いて落ちつかないもの云ひをするのだつた。するとお涌は却つて気丈になつて 「あ、ま、さうおう」 と少し誇張したいひ方をして、美しく眉を皺め、籠の中を覗き込んだ。 十二の男の子と、十一の少女とは、やや苦しく、しかも今までにまだ覚えたことのない仄明るいものを共通に感じつゝ、眼はうつろに、鸚鵡籠の底に、片翅折り畳めないでうづくまつてゐる小動物に向けてゐた。 その翌日、日比野の女中が、水引をかけた菓子折の箱を持つて、蝙蝠を貰つた礼を云ひにお涌の家へ来た。それから二日ばかり経つて日比野の母親から、お八つを差上げ度いからお涌に遊びに来るやうにと招きがあつた。 皆三が十七になり、お涌が十六になつた春、皆三は水産講習所に入つて、好きな水産動物の研究に従ふことになつた。皆三はよほど人並に高等学校から大学の道を通つて進まうと思つた。が、自分のはひつてゐる中学の理科の教師でTといふ老学士が水産講習所の講師を主職にしてゐるので、その縁に牽かれてそこへはひつた。皆三は、このT老学士には、中学校の師弟以上の親密な指導を受けてゐた。T老学士は、中学生にして稀に見る動物学といふやうな専門的な科学に好みを寄せる皆三を、努めて引立てた。 お涌は女学校の四年生であつた。お涌が十一の少女の時、皆三に与へた蝙蝠は、籠のなかでぢき死んで仕舞つたが、お涌は蝙蝠のとき以来、日比野の家と縁がついて、出入りするやうになつた。日比野の家の、何か物事を銜んで控へ目に暮してゐる空気がお涌にはなつかしまれた。それには豪華を消してゐるうすら冷たい感じがあつた。お涌自身の家は下町の洋服業組合の副頭取をしてゐて、家中が事務所のやうに開放され、忙しく機敏な人たちが、次々と来て笑ひ声や冗談を絶さなかつた。ときには大量の刷物の包みがお涌の勉強机の側まで雪崩れ込んだりした。 お涌は今では、日比野の家の格子戸を開けて入ると女中の出迎へも待たず玄関の間を通り中庭に面してゐる縁側へ出て、その突当りの土蔵の寒水石の石段に足をかける――「ゐるの」といふ。中から「ゐるよ」と機嫌のいい声がして「早くおはいりよ」と皆三のいふのが聞える。そのときおくれ馳せに女中が馳せつけて「失礼しました」と挨拶してお涌を土蔵の中に導き、なにかと斡旋して退く――といふやうな親しさになつてゐる。 薄暗いがよく整つた部屋で、華やかな絨氈の上に、西洋机や椅子が据ゑてあつた。周囲には家付のものらしい古絵の屏風や重厚な書棚や、西洋人のかいた油絵がかゝつてゐる。その間に皆三の好みらしい現代式の軽快な本箱が挟まつてゐた。しかし棚の上にはまた物々しい桐の道具箱が、油で煮たやうな色をして沢山並んでゐた。 皆三は、其処で顕微鏡を覗いてゐるか、昆虫の標本をいぢつてるかしてゐた。無口だが、人なつこい様子でお涌に向つた。額も頬もがつしりしてゐて、熱情家らしい黒目勝ちの大きい眼が絶えず慄へてゐるやうに見えた。沈鬱と焦躁が、ときどきこの少年に目立つて見えた。 お涌も皆三にむかつてゐると、あれほど気嵩で散漫だと思ふ自分がしつとり落付き、こまかく心が行届いて、無我と思へるほど自分には何にも無くなり、ひたすら皆三の身の囲りの面倒を見てやり度くなるのであつた。 「だらしがないわ皆三さん。着物の脊筋を、こんなに曲げて着てるつてないわ」 「まるで赤ン坊」 お涌は皆三の生活に対する不器用さを見て、いつもかういつて笑つた。しかし、その赤ん坊が自分にまともにむける眼には、最初皆三に逢つた晩に、彼の声が浸みさせたと同様な慈しみがある――お涌はそれに逢ふと、柔軟なリズムの線がひとりでに自分の体に生み出され、われとしもなくその線の一つを取上げて、自分の姿をそれに沿へる。それは自分でも涙の出るほど女らしくしほらしいものであつた。だがお涌はさういふ自分になるとき、宿命とかいふものに見込まれたやうな前途の自由な華やかな道を奪ひ去られたやうな、窮屈な寂しい気もちもあつた。 (これが、恋とか、愛とかいふものかしらん。いやそんなことは無い。)
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