「今晩は」 襖(ふすま)が開いて閉って、そこに絢爛(けんらん)な一つくね[#「一つくね」に傍点]の絹布(きぬぎ)れがひれ伏した。紅紫と卵黄の色彩の喰(は)み合いはまだ何の模様とも判らない。大きく結んだ背中の帯と、両方へ捌(さば)き拡(ひろ)げた両袖(りょうそで)とが、ちょっと三番叟(さんばそう)の形に似ているなと思う途端に、むくりと、その色彩の喰み合いの中から操り人形のそれのように大桃割れに結って白い顔が擡(もた)げ上げられた。そして、左の手を膝(ひざ)にしゃんと立て、小さい右の手を前方へ突き出して恰(あたか)も相手に掌の中を検め見さすようなモーションをつけると同時に男の声に擬して言った。 「やあ、君、失敬」 眼を細眼に開けてはいるが、何か眩(まぶ)しいように眼瞼(まぶた)を震わせ、瞳(ひとみ)の焦点は座敷を抜けて遥(はる)か池か彼方の水先に放っている。それは小娘ながらも臆(おく)した人の偽りをいうときの眼の遣(や)り所に肖(に)ている。かの女はこの所作を終えると、自分のしたことを自分で興がるように、また抹殺するように、きゃらきゃらと笑って立上った。きゃらきゃらと笑い続けて逸作の傍の食卓の角へ来て、ぺたりと坐(すわ)った。 「お酌しましょうよ」 わたくしはこの間に、ほんの四つ五つの型だけで全身を覆うほどの大矢羽根が紅紫の鹿の子模様で埋り、余地の卵黄色も赤白の鹿の子模様で埋まっているのを見て、この雛妓の所作のどこやら場末臭いもののあるのに比して、案外着物には抱え主は念を入れているなと見詰めていた。 雛妓はわたくしたちの卓上が既に果ものの食順にまで運んでいるのを見て、 「あら、もうお果ものなの。お早いのね。では、お楊子(ようじ)」 と言って、とき色の鹿の子絞りの帯上げの間からやはり鹿の子模様の入っている小楊子入れを出し、扇形に開いてわたくしたちに勧めた。 「お手拭(てふ)きなら、ここよ」 「なんて、ませ[#「ませ」に傍点]たやつだ」 座敷へ入って来てから、ここまでの所作を片肘(かたひじ)つき、頬(ほお)を支えて、ちょうどモデルでも観察するように眼を眇(すが)めて見ていた逸作は、こう言うと、身体を揺り上げるようにして笑った。 雛妓は、逆らいもせず、にこりと媚(こ)びの笑いを逸作に送って、 「でしょう」といった。 わたくしはまた雛妓に向って「きれいな衣裳(いしょう)ね」と言った。 逸作は身体を揺り上げながら笑っている間に画家らしく、雛妓の顔かたちを悉皆(しっかい)観察して取ったらしく、わたくしに向って、 「名前ばかりでなく、顔もなんだかお前に肖てるぜ。こりゃ不思議だ」と言った。 着物の美しさに見惚(みほ)れている間にもわたくしもわたくしのどこかの一部で、これは誰やらに、そしてどこやらが肖ていると頻(しき)りに思い当てることをせつく[#「せつく」に傍点]ものがあった。そしてやっと逸作の言葉でわたくしのその疑いは助け出された。 「まあ、ほんとに」 わたくしの気持は茲(ここ)でちょっと呆(あき)れ返り、何故か一度、悄気(しょげ)返りさえしているうちに、もうわたくしの小さい同姓に対する慈しみはぐんぐん雛妓に浸み向って行った。わたくしは雛妓に言った。 「かの子さん。今夜は、もう何のお勤めもしなくていいのよ。ただ、遊んで行けばいいのよ」 先程からわたくしたち二人の話の遣(や)り取りを眼を大きく見開いてピンポンの球の行き交いのように注意していた雛妓は「あら」と言って、逸作の側を離れて立上り、今度はわたくしの傍へ来て、手早くお叩儀(じぎ)をした。 「知ってますわ。かの子夫人でいらっしゃるんでしょう。歌のお上手な」 そして、世間に自分と同名な名流歌人がいることをお座敷でも聴かされたことがあったし、雑誌の口絵で見たことがあると言った。 「一度お目にかかり度(た)いと思ってたのに、お目にかかれて」 ここで今までの雛妓らしい所作から離れてまるで生娘のように技巧を取り払った顔付になり、わたくしを長谷の観音のように恭々(うやうや)しげに高く見上げた。 「想像よりは少し肥(ふと)っていらっしゃるのね」 わたくしは笑いながら、 「そうお、そんなにすらりとした女に思ってたの」と言うときわたくしの親しみの手はひとりでに雛妓の肩にかかっていた。 「お座敷辛いんでしょう。お客さまは骨が折れるんでしょう。夜遅くなって眠かなくって」 それはまるでわたくしの胸のうちに用意されでもしていた聯句のように、すらすらと述べ出された。すると雛妓は再び幼い商売女の顔になって、 「あら、ちっともそんなことなくてよ。面白いわ。――」 とまで言ったが、それではあまり同情者に対してまとも[#「まとも」に傍点]に弾(は)ね返し過ぎるとでも思ったのか、 「なんだか知らないけど、あたし、まだ子供でしょう。だから大概のことはみなさんから大目に見て頂けるらしい気がしますのよ。それに、姐(ねえ)さんたちも、もしまじめに考えたら、この商売は出来ないっていうし――」 雛妓は両手でわたくしのあいた方の手を取り、自分の掌を合せて見て、僅(わず)かしかない大きさの差を珍らしがったり、何歳になってもわたくしの手の甲に出来ている子供らしいおちょぼ[#「おちょぼ」に傍点]の窪(くぼ)みを押したり、何か言うことのませ方[#「ませ方」に傍点]と、することの無邪気さとの間にちぐはぐ[#「ちぐはぐ」に傍点]なところを見せていたが、ふと気がついたように逸作の方へ向いた。 「おにいさん――」 しかしその言葉はわたくしに対して懸念がありと見て取るとかの女は「ほい」といって直(す)ぐ、先生と言い改めた。 「先生。何か踊らなくてもいいの。踊るんなら、誰か、うちで遊んでる姐さんを聘(よ)んで欲しいわ」 そう言ってつかつかと逸作の方へ立って行った。煙草(たばこ)を喫(す)いながらわたくしと雛妓との対談を食卓越しに微笑して傍観していた逸作は、こう言われて、 「このお嬢さんは、売れ残りのうちの姐さんのためにだいぶ斡旋(あっせん)するね」 と言葉で逃げたが、雛妓はなかなか許さなかった。逸作のそばに坐ったかの女は、身体を「く」の字や「つ」の字に曲げ、「ねえ、先生、よってば」「いいでしょう、先生」と腕に取り縋(すが)ったり髪の毛の中に指を突き入れたりした。だがその所作よりも、大きな帯や大きな袖に覆われてはいるものの、流石(さすが)に年頃まえの小娘の肩から胴、脇(わき)、腰へかけて、若やいだ円味と潤いと生々しさが陽炎(かげろう)のように立騰(たちのぼ)り、立騰っては逸作へ向けてときめき縺(もつ)れるのをわたくしは見逃すわけにはゆかなかった。わたしは幾分息を張り詰めた。 逸作の少年時代は、この上野谷中切っての美少年だった。だが、鑿(う)ち出しものの壺(つぼ)のように外側ばかり鮮かで、中はうつろに感じられる少年だった。少年は自分でもそのうつろに堪えないで、この界隈(かいわい)を酒を飲み歩いた。女たちは少年の心のうつろを見過ごしてただ形の美しさだけを寵(ちょう)した。逸作は世間態にはまず充分な放蕩児(ほうとうじ)だった。逸作とわたくしは幼友達ではあるが、それはほんのちょっとの間で、双方年頃近くになり、この上野の森の辺で初対面のように知り合いになったときは、逸作はその桜色の顔に似合わず[#「似合わず」は底本では「似わず」と誤植]市井老人のようなこころになっていた。わたくしが、あんまり青年にしては晒(さら)され過ぎてると言うと、彼は薩摩絣(さつまがすり)の着物に片手を内懐に入れて、「十四より酒飲み慣れてきょうの月です」と、それが談林の句であるとまでは知らないらしく、ただこの句の捨(な)げ遣(や)りのような感慨を愛して空を仰いで言った。 結婚から逸作の放蕩(ほうとう)時代の清算、次の魔界の一ときが過ぎて、わたくしたちは、息も絶え絶えのところから蘇生(そせい)の面持で立上った顔を見合した。それから逸作はびび[#「びび」に傍点]として笑いを含みながら画作に向う人となった。「俺は元来うつろの人間で人から充(み)たされる性分だ。おまえは中身だけの人間で、人を充たすように出来てる。やっと判った」とその当時言った。 それから十余年の歳月はしずかに流れた。逸作は四十二の厄歳も滞りなく越え、画作に油が乗りかけている。「おとなしい男、あたくしのために何もかも尽して呉(く)れる男――」だのにわたくしは、何をしてやっただろう。小取り廻(まわ)しの利かないわたくしは、何の所作もなく、ただ魂をば、愛をば体当りにぶつけるよりしかたなかった。例えそれを逸作は「俺がしたいと思って出来ないことを、おまえが代ってして呉れるだけだ」と悦ぶにしても、ときには世の常の良人(おっと)が世の常の妻にサービスされるあのまめまめしさを、逸作の中にある世の常の男の性は欲していないだろうか。わたくしはときどきそんなことを思った。 酒をやめてから容貌(ようぼう)も温厚となり、あの青年時代のきらびやかな美しさは艶消(つやけ)しとなった代りに、今では中年の威がついて、髪には一筋二筋の白髪も光りはじめて来ている。 わたくしは、その逸作に、雛妓(おしゃく)が頻(しき)りにときめかけ、縺(もつ)れかけている小娘の肉体の陽炎(かげろう)を感ずると、今までの愁いの雲はいつの間にか押し払われ、わたくしの心にも若やぎ華やぐ気持の蕾(つぼみ)がちらほら見えはじめた。それは嫉妬(しっと)とか競争心とかいう激しい女の情焔(じょうえん)を燃えさすには到らなかった。相手があまりにあどけなかったからだ。そしてこちらからうち見たところ多少腕白だったと言われるわたくしの幼な姿にも似通える節のある雛妓の腕働きでもある。それが逸作に縺れている。わたくしはこれを眺めて、ほんのり新茶の香りにでも酔った気持で笑いながら見ている。雛妓は、どうしてもうんと言わない逸作に向って、首筋の中へ手を突込んだり、横に引倒しかけたりする。遂(つい)に煩しさに堪え兼ねた逸作は、雛妓を弾(は)ねのけて居ずまいを直しながらきっぱり言った。 「何と言っても今夜は駄目だ。踊ったり謡ったりすることは出来ない。僕たちはいま父親の忌中なのだから」 その言い方が相当に厳粛だったので、雛妓も諦(あきら)めて逸作のそばを離れると今度はわたくしのところへ来て、そしてわたくしの膝(ひざ)へ手をかけ、 「奥さんにお願いしますわ。今度また、ぜひ聘(よ)んでね。そして、そのときは屹度(きっと)うちの姐(ねえ)さんもぜひ聘んでね」 と言った。わたくしは憫(あわ)れを覚えて、「えーえー、いいですよ」と約束の言葉を番(つが)えた。 すると安心したもののように雛妓はしばらくぽかんとそこに坐(すわ)っていたが急に腕を組んで首をかしげひとり言のように、 「これじゃ、あんまりお雛妓さんの仕事がなさ過ぎるわ。お雛妓さん失業だわ」 と、わたくしたちを笑わせて置いてから、小さい手で膝をちょんと叩(たた)いた。 「いいことがある。あたし按摩(あんま)上手よ。よく年寄のお客さんで揉(も)んで呉れって方があるのよ。奥さん、いかがですの」 といってわたくしの後へ廻った。わたくしは興を催し、「まあまあ先生から」といって雛妓を逸作の方へ押しやった。 十時の鐘は少し冴(さ)え返って聞えた。逸作は懐手をして雛妓に肩を叩(たた)いて貰いながら眼を眠そうにうっとりしている。わたくしはそれを眺めながら、ついに例の癖の、息子の一郎に早くこのくらいの年頃の娘を貰って置いて、嫁に仕込んでみたら――そして、その娘が親孝行をして父親の肩を叩く図はおよそこんなものではあるまいかなぞ勝手な想像を働かせていた。 わたくしたちが帰りかけると、雛妓は店先の敷台まで女中に混って送って出て、そこで、朧夜(おぼろよ)になった月の夜影を踏んで遠ざかり行くわたくしたちの影に向って呼んだ。 「奥さまのかの子さーん」 わたくしも何だか懐かしく呼んだ。 「お雛妓さんのかの子さーん」 松影に声は距(へだ)てられながらもまだ、 「奥さまのかの子さーん」 「お雛妓さんのかの子さーん」 ついに、 「かの子さーん」 「かの子さーん」 わたくしは嘗(かつ)て自分の名を他人にして呼んだ経験はない。いま呼んでみて、それは思いの外なつかしいものである。身のうちが竦(すく)むような恥かしさと同時に、何だか自分の中に今まで隠れていた本性のようなものが呼出されそうな気強い作用がある。まして、そう呼ばせる相手はわたくしに肖(に)て而(し)かも小娘の若き姿である。 声もかすかに呼びつれ呼び交すうちに、ふとわたくしはあのお雛妓のかの子さんの若さになりかける。ああ、わたくしは父の死によって神経を疲労さしているためであろうか。
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