日本幻想文学集成10 岡本かの子 |
国書刊行会 |
1992(平成4)年1月23日 |
1992(平成4)年1月23日第1刷 |
1992(平成4)年1月23日第1刷 |
岡本かの子全集 |
冬樹社 |
1974(昭和49)年発行 |
中年のおとうさんと、おかあさんと、二十歳前後のむすこと、むすめの旅でありました。 旅が、旅程の丁度半分程の処で宿をとつたのですがその国の都と、都から百五十里も離れた田舎との中間の或る湖畔の街の静なホテルです。 その国と云ひましたが、さあ、日本か、外国か、今か、昔かと、それを作者はどう極めませう。実は、日本でも外国でも、今でも昔でも関はないのです。この物語の真実や、真味は、さういふことに一向かまはないで作者の意図に登り、そして読者に語られようとしてゐます。だが挿画画家さんにお気の毒ですね。黒眼を描かうか碧眼を現はさうか縮毛か延髪か描き分けよう術もありませんでせうから。ですから具体的な人物でなくとも、草か木か鳥獣か花かで、この物語の読後の気持を現はして下さつても宜いのです。といつて私がこれ以上くどく画家さんに指図をしなくてもそれはその道の技量敏感で、どうしてでも筋や真実真味のけはひを現はして下さるでせうから、私は私の物語に遠慮なくは入らして頂きませう。 季節は秋です。夕方すこし烈しかつた風もすつかり落ちて、草木のけはひが風にもまれなかつた前の静なたゝずまひに返り、月が、余り明る過ぎない程の明るさで宵の山の端にかかりました。ホテルの窓からはほんの湖水の一端しか見えませんが、その一端の澄み上つた爽かさが広い全面の玲朗さを充分に想はせる効果をもつて四人の健康な清麗な親子の瞳に沁み入りました。そして、今、給仕人が引下げて行つたばかりの晩餐の幾つもの皿には、その湖水でとれた新らしい香の高い魚類が料理されてあつたのです。それらの皿と入れ違ひに、附近の山でとれたといふ採りたての無花果の実が、はじけ相な熟した果肉を漸く圧へた皮のいろも艶やかに、大きな鉢に入れられて濃いこうばしいお茶と一緒に運ばれました。
――おとうさん。今夜こそ、わたし達は私達の真実のことを、この子供達にお話しいたしませうね。
――ああ、それが好い。
これがおとうさんの返事です。
――さうよ、おかあさん。もう四五年前からのお約束ですもの。
――僕たちが二十位になつたら話してあげるつて仰つたことがありましたつけ。
歳も二十と十九の一つ違ひのむすこと、むすめが言ひました。
――まあ無花果をたくさん喰べてな、お茶もこうばしいぞ、月が半分も、あの山の端に傾いた頃から話し出さうよ。
おとうさんが、きつぱりと云ひますと、先に云ひ出したおかあさんがいそいそとしたなかにもすこし恥し相な赫らめた顔色を見せました。わが母乍ら美くしい愛らしいと、むすめはそれを眺めました。
おとうさんもおかあさんも、今度一族が出発して来た田舎の人ではありませんでした。実は今夜一晩保養の為に優勝の地として名高い此の湖畔で楽しいくつろぎをしてから更に明日出向いて行かうとする都の生れの人達なのでありました。 都でもと生れた人が百五十里もの遠い田舎の人となり、其処でむすことむすめを設け、土着の住民となつたからとてそれが別に大して珍らしいことでもむづかしいわけのものでもありません。けれど、このおとうさんと、おかあさんがさうなつた径路についてはそこにほかの人並とは違つた事情があつたのであります。 知る人ぞ知る。とでも云ひ度いところですが、さすがに百五十里はなれれば、そしてこのおとうさんやおかあさんのやうに自然すぎるほど落ついて土着して仕舞へば実際、あやしむ人はおろか、当のおとうさんおかあさん自身でさへ殆ど自分達の前身は忘れはてたやうなものでした。おそらく田舎暮らし何年間を他人事のやうに昔を思ひ隔てて仕舞つて居たにちがひありません。 昔四十何年か前に、おとうさんとおかあさんは非常に仲好しの女友達同志を母親として都の一隅の街に生れました。二人の母親はまた生憎揃ひも揃つて二人をお腹に持つて居た頃に未亡人になりました。丁度国の大戦の為にその国の丁年以上の男子が大方戦線へ出たその兵士の仲に当然交つて行つて仕舞ひ、その上間もなく二人の夫が二人とも戦死したからでありました。未亡人同志は、いよいよ仲好しになり、頼み合ひ、はげまし合ひ、何事も二人の合議で生活して行くやうになつたのです。 その合議のなかの一つの事件として不思議なことが取り行はれたのでした。おとうさんを生んだ母親は男のおとうさんを女に仕立て、おかあさんを生んだ母親は女のおかあさんを男育てに育てたのでした。よくたとへには、玉のやうな赤ん坊を生んだなどと云ひますが、ほんたうは生れたばかりの赤ん坊といふものは、赤くてくしや/\で女だか男だか一寸区別がつきかねるものです。前後して生んだ赤ん坊を真実の男とか女とか知つた人はいくらもないそのうちに二人の母親は都住居の人達によくあるあちらの街からこちらへと処々生活の都合で越して歩きました。 おかみへ届けるときにはどうなつてゐたのでせうか分りませんが、二人が自分の名を自分で覚える頃には二人ともその育つ姿や生活に相応する――即ちおとうさんは女にふさはしく、おかあさんは男らしい呼名に都合よくなつて居ました。越して行く先から先の近所の人達も当然それを怪しみもせず、おとうさんを女の児扱ひにし、おかあさんを男の児と見做して仕舞ひました。二人の母親は、二人ともつつましく行儀よく出来てゐる女同志で、自分の子たちもさういふしつけの宜い育て方をしましたので、二人の子達も子供らしい遊びもいたづらも相当に仕て居乍らよく子供に有がちな肉体的な暴露などはありませんでした。さうして育つて行くうちにも仲好しの母親同志は越す先々の家を成たけ近所同志にえらび、お互ひの生活を接近させてゐました。が、自分達の合議の上で女を男に、男を女に、と取換へつこに育て上げつつある自分達の世間はづれた事業が苦もなく成功して行くのを不思議がりもせず、別に得意にもしなかつたせゐか、しまひにはお互ひ同志ばかりがどんなに人と離れて接近し合つて居る場合でも、それを得意がつたりして談し合ふことも無い様子でした。否々、しまひには自分の男の児が女として育つて居り、自分の女の児が男として育つて居ることさへ追々忘れて仕舞つたかのやうでありました。 しかし、あらそはれないもので、そのうちに男の児になつて居る女の児の方に女のしるしが現はれるやうになりました。母親は、今更のやうにあわてふためき、男の児の母親の方へ相談にまで行きました。そして、自分達が合議のうへでめい/\の子供を男は女に、女は男に育てて居たことを子供達に打ち明けました。ただし、それをさうしたといふ訳==つまり何故その母親達が、女を男にして育て、男を女に仕立てて居たかといふわけを母親達は子供達に別に話しはしませんでした。故意か、無雑作にか、そして子供達もまたうつかりそれを問ひただすでもなく……世にはそれ程でも無いことを執念く探り立てする人々があると同時に、可成り重大な事でも極無雑作にかたをつけるあつさりした人達があるものです。この親子達は一面から見ればその後者の方に属する人達とも云へませうが、また一つの解釈からすれば、親はそれ程の重大な事を他人事のやうに簡単に語れ、子もまたそれを他人事のやうに聞ける位、長い間の自分達の現実的過誤に慣れ切つてしまつて居たのです。 では、その子供達はともかく作者はその母親達がそんな子供の育てかたを何故したかと読者はあるひは詰問なさりはしませんか。作者は実は、その解釈に苦しみます。さあ、どういふ原因が其処にあつたものか、ともかく女同志の親密な気持ちには時々はかり知れない神秘的なものが介在してゐるかと思へば極々つまらない迷信にも一大権威となつて働きかけられる場合もないではないぢやありませんか。 それはともかく、長い習慣といふものは妙なもので、親が子に明した事実は、ほんの其場の親子の間だけの現実に過ぎないものであつて、その後また何の不思議もなく前からの習慣である女の男育ち、男の女仕立てが続きました。当人達でさへそれですもの、世間がその子供達をどちらもほんたうの見かけどほりの男女だと思ふのは無理もありませんでした。
――おとうさんが女になつていらしつた時、どんな女でいらしつたでせう。
少し控へめではありましたが、むつつりと意味深さうに今までのいきさつを聞いてゐた兄より先に妹娘がおとうさんに問ひかけました。すると、おとうさんより先きにおかあさんがその問ひを取つて云ひました。
――それは美しい、そしてしとやかであでやかな娘さんでおありでした。
おかあさんが口を切つたのをしほにおとうさんはおかあさんに頼みました。
――おまへ、みんな私の事を知つて居る。私に代つて子供達に話してやつてお呉れ。
さういふおとうさんの顔をつい二人の子供はちらと見やつてしまひました。おとうさんは顎鬚のそりあとを艶やかに灯かげに照らして煙草のけむりを静に吐いてゐました。
――おとうさんが十六七歳になりなさつた頃、おとうさんの母親はある都の或る街に住みついて其処で小間物を商つて居られました。わづかな資本で始めた店でしたけれど非常に器用なその母親が飾り付けるとお店の商品は生々して造花なんぞまるで生花のやうに上手な照明で見えるのでした。それにお店に炊きこめてある何か大変好いかをりの匂ひものが人達をひきつけて思ひがけないやうな品の好いお客様も時々は見えるやうになりました。
――ははあ、それからあのS家のお姫様のおはなしになる段どりですな。
おとうさんが一寸なつかしさうなへうきんな調子の横槍をいれましたが却つておかあさんの息つぎにそれがなりました。
――おとうさんはお店を手伝はなければならなかつたので学校は十六七の歳でやめておしまひになりましたが、やはり本性は男で、どうしても建築学を研究する志でお店を手伝ひ乍らも独学で一生懸命店裏で本を読んだり暇を見ては方々の街の有名な建築を見て歩いたりしていらしつた。でもよくしたもので、世間の人達はおとうさんのさういつた独学の建築学研究なんか眼に這入らず、おとうさんが娘姿でお店を手伝ふあでやかな姿ばかりに気をとめて評判をするやうになりました。
――S家のお嬢さまがいらしつたといふのはいつでしたの。
――まあお待ちなさいよ。それはおとうさんのあでやかな娘姿がお店へ出てから半年もたつた頃、ある日そのお方がおしのびで侍女二三人程連れて街へ買物がてら散歩にお出になつたのですよ。その時、ふとお店におはひりになつたのが始まりで……さあお嬢さまは何がお気にいりで店へさうさいさいお出でになるやうになつたのでせう。それは小さい非常に感じの好い、まるで月のかくれ家のやうなお店がお気にいりになり大変匂ひの好い炊きものの香もおこのみに合つたのかも知れませんが結局はその店に居るしとやかな娘姿のおとうさんがお好きだつたからだとあとで仰つたさうな。
――お嬢様はおとうさんが男で娘になつて居ることをもちろん知らなかつたんでせうな。
と兄がませた口調で聞きました。
――ええ、もちろんですとも、そんなこと少しも御存じなくておとうさんをお好きになつたのだから、それは純粋なごひいき様におなりになつたわけなのだよ。
――そのお嬢様はお美しかつたの、おかあさん。
おかあさんは少し困つたやうに娘の問ひに答へました。
――お美しかつたとも、ねえおとうさん。お美しいお嬢様でしたともねえ。
――ああ、美しいお嬢様でした。
おとうさんの頬は何故か少し赫らみました。
――まあ、それはともかく、おとうさんはたうとうお嬢様に好かれ切つておしまひになり、S家へ来て欲しいとお嬢様から懇望されなさつた。始めはお嬢様のお相手などして折角の建築学の研究を止めなければならないのは厭だとお思ひになつた相だけれど、よくお考へなさるとそのS家といふのは都でも名だたる富豪で、本邸は云ふに及ばず広い屋敷内に実に珍らしい建築の亭や別荘をお持ちになつていらつしやることに気付き、とてもただではさういふ建築の内部など拝見出来ない、当分お嬢様のお相手がてらさういふ処の見学をなさるおつもりで承知なさつた。ただし、親一人子一人の淋しい母親を置いて行くのだからお風呂の日だけは実家へ戻して母親と会はせて呉れろといふ条件も直ぐ近所のお邸なので聞きとゞけられたのさ。やはり自然と他所で風呂になど男の女がは入り度くない気もちがおとうさんに働いたんですね。それから半年、一年と月日が流れおとうさんが十八の春にもなつた頃、おとうさんのお気持ちはとてもとても、苦しいものになつて居ました……。
お母さんは云ひ淀みました。むすことむすめも少し堅くなつておとうさんとおかあさんを見較べました。
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