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男女関係について(だんじょかんけいについて)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-26 7:07:30 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


         四

 野枝さん。
 保子に対する君の気持は、この三つの手紙によって、非常によく分った。ただ、最後のが、もう少しはっきり言い現せそうなものだとは思ったが、そして大体においては、君のこのまったく自発的な進みかたが、ごく自然な、かつごく聡明な、また僕自身にとっては感謝しなければならぬほどのものだと思う。本当によくそこまで進んで来てくれた。
 さらに、他の女に対する君の心持の進みかたを見ると、理想から漸次現実に引下って来た傾きがある。そしてこの傾きが、保子の他の女に対する、および神近の他の女に対する、心持の動きかたや進みかたと、自ずから異なるところがある。
 最初は、僕に他の女のあるということが、どうしても君には話すことができなかった。君には、排他的の厳重な一夫一婦という、一種の理想があった。そこで君は、しきりと僕に、他のいっさいの女を斥けることを迫った。しかし、僕には、それがまったく無意味のことであった。他の女に対する僕の愛は、それよりももっと深そうに見える君に対する愛が生じたからとて、なくなった訳でもなくまた格別減った訳でもない。また、他の女に対する愛がなくなりあるいは減って行って、君にその愛を移したという訳でもない。甲の女によって求め得べからざるものを乙の女によって、また乙の女によって求め得べからざるものを丙の女によって、得るということもあろう。さらにはまた、甲の女には与え得べからざるものを乙の女に、また乙の女には与え得べからざるものを丙の女に、与え得るということもあろう。しかし、こんな理屈を言い出せば際限がないからいい加減に切りあげるが、とにかく僕のこの事実とおよびそれに対する僕の(五字削除)とは、断乎として君の要求を斥けるに足るの力があったのだ。
 けれども君は、僕がかく君の要求を斥けながらも、なお君に対して深い愛を抱いていることを、認めない訳には行かなかった。また君自身としても、もし君の要求が容れられなければ僕との関係を絶つと決心したものの、なお僕に対して抱いている君の深い愛を、認めない訳には行かなかった。そして、この現実の方が君自身の真実ではあるまいかという考えが漸次に頭をもたげて来て、ついにはそこに君の全身を投ずるの冒険をあえてさせるまでに進んで来さえすれば、僕が他の女を棄てるかあるいは他の女が僕を去るか、いずれにせよ君に都合のいい何等かの事柄が起って来るだろうという、多少の予想があったけれども、君は、かくしてまったく僕に君の身を投じて来ると同時に、本当の現実の人となった。もしくは、まったく新しい現実の人となった。
 君は僕に保子のあることも、神近のあることも、僕に対する愛の幻惑やまたは仕様事なしのあきらめからではなく、君自身の深い反省と自覚とから、心の奥底から是認するようになった。だが、それと同時にまた、君はこの是認を再び理想化しようとした。少なくとも、保子と僕とのおよび保子と君との関係を、事実ありのままに見ないで、ただちに君と僕との関係をもって律しようとした。そして君からの最後の手紙は、君が再び現実に降って、それからさらに理想に起ち上がろうという、本当のところまで進んで来たことを示すものである。
 実際、君と保子とは、あるいは君と神近とは、もしその間に僕が介在していなければ、まったく没交渉の人として互いに済ましていられたのかも知れない。現に、君と僕とがこんな関係になるまでは互いにまったくあるいはほとんど相識りもせず、したがってほとんど何等の交渉もなかったんである。したがって諸君は、諸君の間の関係において、このありのままの事実から出発しなければならない筈だ。もし諸君が、互いに個人としての交際において、まったく相容れることのできない人々であるならば、その間に僕があるからといって、何でも強いて友人づきあいをするにも及ばない。これはちょうど、嫁や姑や小姑と親子もしくは姉妹の関係にはいらなければならないものと強いられるの馬鹿らしさと、同様のことである。ただここには、嫁と姑との間のごとき、一種の権力関係のないことが、しあわせである、ぐらいのことである。もっと適切な例を挙げれば、諸君の間の関係は、勿論、本妻と妾、もしくは妾同士が、あきらめや妙な粋から、本意なくも笑顔をつくり合っているようなものであってはならない。こんなことは、今ことに君に向って言う必要は少しもないのだが、世間の奴等は、とかく自分等の間の一般事実をもって、他の特殊の事実をも律しようとしたがるものだから、無駄なことまでも言わなければならない仕儀になる。
 無駄と言えば、今僕が書いて来たことの大部分は、すべて無駄なので、「一情婦に与えて女房に対する亭主の心情を語る文」と題しながらも、実はまったくそれに触れることなくして、そのいわゆる一情婦の男およびその女房や他の情婦に対する心持の紹介と註訳とに力を尽して来たのも、要するに世間という馬鹿な奴等がさせるのだ。
 君の心持は、君自身がやはりこの雑誌の本号に書くという、あるいは近く『大阪毎日』に連載するという、君の文章の中で、勿論もっと詳細にかつもっと正確に発表されることと思う、したがって僕のこの紹介や註釈は、君にとっては、余計な出しゃばりであるかも知れない。しかし、その出しゃばりが僕の好意そのものから出る大した悪くない癖でもあり、かつこの文章が君に宛てた手紙であるところから自然に君のことばかり頭に浮んで来ることをも察してくれれば、君としては許されないこともあるまい。もっとも、こんな書きかたをして、だいぶ僕自身のことを君に言わしたのは、ちょっと怪しからぬずるい遣りかたではあるがね。
 しかし、どうかすれば、もう五年か十年かすれば、こんなふうな内容の、もっとも形式にはいろいろ変りはあろうが、たとえば同じ自由恋愛でもあるいは一夫一婦の、あるいは一夫多婦のあるいは多夫多妻の種々なる形をとることができようが、男女関係は、大して珍らしいことでもなくなって、したがって一々その男や女の心持を公表しなければならないというような必要もなくなるのだろう。
 とにかく僕等は、今の僕等にとっては、というのは僕には最初からだが君や神近にはようやくこの頃になってからのことだから、きわめて平凡なことをやっているのだ。だから、少なくとも僕にとっては、もし世間の奴等さえぐずぐずと馬鹿なことを言わなければ、何にも自分から吹聴して歩くほどの一大事でもないのだ。また自由恋愛などという、もうカビの生えた古臭い議論を、今さらながらもったいらしく担ぎ出すこともないのだ。
 けれども、もし世間の奴等が、奴等の道徳を盾に着て、無知な群集の前に僕等を社会的に葬むり去ろうとでも試みようとならば、ご遠慮なく遣って見るがいい。僕等は、僕等自身の事実をますます健実にして奴等にいやというほど見せつけてやるとともに、いくらでもお相手になってやる。あるいは、かえってその方が、さきの五年か十年かすればという時期を、もっと早めてくれることになるかも知れない。
 (ここでちょっと読者諸君に広告して置くが、前に野枝さんの手紙に出ている、はなはだおやすくない、ただし定価のことでない、僕の論文集『生の闘争』の中の「羞恥と貞操」および『社会的個人主義』の中の「男女関係の進化」と「羞恥と貞操」とは、これらの問題についての僕の宿論を説いたものであるから、ぜひとも御一読を願います。)
 



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