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獄中記(ごくちゅうき)

作者:未知 文章来源:青空文库 点击数 更新时间:2006-8-26 6:56:50 文章录入:贯通日本语 责任编辑:贯通日本语


 鬼界ヶ島の俊寛
 出て一カ月半ばかりして、こんどは堺や山川やその他三人の仲間と一緒に、例の屋上演説事件でまた入れられた。既決になると、その他三人というのが東京監獄に残されて、堺と山川と僕とが巣鴨へ送られた。
「やあ、また来たな。」
 と看守や獄友諸君は歓迎してくれる。
「またやられたよ。しかしこんどは、まだ碌に監獄の気の抜けないうちに来たのだから、万事に馴れていて好都合だ。」
 僕は当時われわれの機関であった『日本平民新聞』の編集者で、その後幸徳と一緒に死刑となった森近運平に宛てて、こんな冒頭の手紙を書いて送った。
 山口は何かの病気で病監にはいっていた。山川はたしかほかの建物へやられたように思う。石川、僕、堺という順で、相ならんでいた。
 堺はもう格子につかまって「ちょいとお髯の旦那」をやる当年の勇気も無くなっていたが、石川と僕とは盛んに隣り合っていたずらをした。運動の時にそとで釘を拾って来て、二人の室の間の壁に穴をあけた。本やノートに飽きるとその穴から呼び出しをかける。石川が話している間は僕は耳をあてている。僕が話をする間は石川が耳をあてる。ところがこれがなかなかうまく行かない。時々口をあて合ったり耳をあて合ったりすることがある。どうしたのかと思って、耳をはずしてのぞいて見ると、向うでも耳をあてて待っている。ちょっと議論めいたことになると、お互いに「こんどは俺がしゃべるんだからお前は聞け」と言い合って、小さな穴を通して唾を飛ばし合う。時とすると「しばらくそこで見ておれ」と言って、室の真ん中へ行って踊って見せたりする。
 こんなことをしてふざけながらも、石川は二千枚近い『西洋社会運動史』を書いていた。これは後に出版されて発売禁止になった。堺と僕とは当時堺の編集で『平民科学』という題で出していた叢書を翻訳していた。山川もやはりそれをやっていた。
 そしてちょうどこの翻訳が一冊ずつできあがった頃に堺と山川と僕とは満期になった。
「可哀想だがちょうど鬼界ヶ島の俊寛という格好だな。しかしもう少しだ。辛抱しろ。」
 堺と僕とは石川にこう言いながら、
「おい、俊寛、左様なら。」
 とからかってその建物を出た。

   千葉の巻

 うんと鰯が食えるぜ
 が、また半年も経つか経たぬ間に、こんどは例の赤旗事件で官吏抗拒治安警察法違犯という念入りの罪名で、その事件の現場から東京監獄へ送られた。同勢十二名、内女四名、堺、山川、荒畑なぞもこの中にいた。女では、巡査の証言のまずかったためにうまく無罪にはなったが、後幸徳と一緒に雑誌を創めて新聞紙法違犯に問われ、さらにまた幸徳等と一緒に死刑になった、かの菅野須賀子もいた。
 と同時に、二年前に保釈出獄した電車事件の連中も、一審で無罪になったのを検事控訴の二審でまた無罪になり、さらに検事の上告で大審院から仙台控訴院に再審を命ぜられ、そこで初めて有罪になったのをこんどはこちらから上告して大審院で審議中であったのだが、急に保釈を取消されてやはり東京監獄に入監された。この連中が西川、山口などの七、八名。僕はこの両方の事件に跨がっていた。
 東京監獄は仲間で大にぎやかになった。しかし、やがて女を除くみんなが有罪にきまった時、東京監獄ではこれだけの人数を一人一人独房に置くだけの余裕も設備もなかった。僕等は一種の悪性伝染病患者のようなもので、他の囚人と一緒に同居させることもできず、また仲間同士を一緒に置くことはさらにその病毒を猛烈にする恐れがある。そこでみんなは、最新式の建築と設備とをもって模範監獄の称のある、日本では唯一の独房制度の千葉監獄に移されることになった。
 千葉は東京に較べて冬は温度が五度高いというのに、監獄はその千葉の町よりももう五度高いというほどの、そして夏もそれに相応して冷しい、千葉北方郊外の高燥な好位置に建てられていた。
「あれがみんなの行くところなんだ。」
 汽車が千葉近くなった時、輸送指揮官の看守長が、ちょうど甥どもを初めて自分のうちへ連れて行く伯父さんのような調子で、(実際この看守長は最後まで僕等にはいい伯父さんだった)いろいろその自分のうちの自慢をしながら、左側の窓からそとを指さして言った。みんなは頸をのばして見た。遙か向うに、小春日和の秋の陽を受けて赤煉瓦の高い塀をまわりに燦然として輝く輪喚の美が見えた。何もかもあの着物と同じ柿色に塗りたてた建物の色彩は、雨の日や曇った日には妙に陰欝な感じを起させるが、陽を受けると鮮やかな軽快な心持を抱かせる。
「鰯がうんと食えるそうだぜ。」
 僕はすぐそばにいた荒畑に、きのう雑役の囚人から聞いたそのままを受け売りした。幾回かの入獄に、僕等はまだ、塩鱈と塩鮭との外の何等の魚類をも口にしたことがなかったのだ。で、この話を聞いた僕には、それが唯一の楽しい期待になっていたのだ。
「それやいいな。早く行って食いたいな。」
 荒畑も、そばにいた二、三人も、嬉しそうに微笑んだ。
 下駄の緒の心造り
 着いて見ると、なるほど建物は新築したばかりでてかてか光っている。室は四畳半敷くらいの、南向きの、明るい小綺麗な室だ。何よりもまず窓が低くて大きい。東京のちょっとした病院の室よりもよほど気持がいい。
 が、第一にまず役人の利口でないのに驚かされた。着くとすぐ、みんな一列にならべさせられて、受持の看守部長の訓示を受けた。
「こんどはみんな刑期が長いのだから、よく獄則を守って、二年のものは一年、一年のものは半年で出られるように、自分で心掛けるんだ。」
 というような意味のことを繰返し繰返し聞かされた。僕等はあざ笑った。こんなだましが僕等にきくと思っているんだ。また、よし本当に好意でそう言ってくれたものとしても、僕等に仮出獄なぞといういわゆる恩典があるものと思うのもあまりに間が抜けている。まるで僕等を知らないんだ。それだけならまだいい。この訓示が済んで、一行八人(電車事件の方は一足先きに来た)が別々に隣り合った室へ入れられた時、こんどは受持の看守が、
「つまらんことで大ぶ食ったもんだな。一度はいると大ぶ貰えるという話だが、こんどはみんな幾らずつ貰ったんだ。」
 という情けないお言葉だ。政党か何かの壮士扱いだ。さすがの堺を始めみんなは顔見合せて苦笑するの外はなかった。ただ、ふだんは神経質に爪ばかり噛っているように見えたのが、入獄以来その快活な半面をしきりに発揮し出した荒畑が、「アハハア」と大きな声を出して笑った。看守はけげんな顔をしていた。
 上典獄を始め下看守に至るまでが、ほとんどすべてこの調子なのだからやり切れない。
 それに、第一に期待していた例の鰯が、夕飯には菜っ葉の味噌汁、翌日の朝飯が同じく菜っ葉の味噌汁、昼飯が沢庵二た切と胡麻塩、と来たのだからますます堪らない。
 加うるにこんどは今までの禁錮と違って、懲役と言うのだから、一定の仕事を課せられる。しかもその仕事が、東京監獄ではごく楽で綺麗な経木あみであったのが、南京麻の堅いのをゴシゴシもんで柔らかくして、それで下駄の緒の心をなうのであった。手があれるだけならまだしも下手をやると赤むけになる。埃が出る。かなり骨が折れる。それを昼の間十時間くらいやって、その上にまた夜業を二、三時間やらされる。初めの一日でうんざりしてしまった。
 三度減食を食う
 三日目か四日目のことだ。毎日のこの仕事に疲れ果てて、少しでも仕事の手を休めていると、うとうとと眠ってしまう。坐りながら幾度か眠っては覚め、眠っては覚めしているうちに、とうとう例の胡麻塩の昼飯後の三十分か一時間かの休憩時間に、いつの間にか居眠りのまま横に倒れてしまった。
「こら、起きろ!」
 という声にびっくりして目を覚ますと、僕は自分のそばに畳んである布団の上に半身を横たえて寝ていた。
「横着な奴だ。はいる早々もう真っ昼間から寝たりなんぞしやがって、貴様は監獄の規則なんぞ何とも思ってないんだな。」
 看守は、貴様のような壮士が何だという腹を見せて、威丈高になって怒鳴りつづけた。
 しばらくして典獄室へ呼びつけられた。僕はみちみち、はなはだ意気地のないことだが馴れない仕事に疲れてつい、とありのままの弁解をするつもりで行った。ところが、典獄室にはいって一礼するかしないうちに、
「貴様は社会主義者だな。それで監獄の規則まで無視しようと言うんだろう。減食三日を仰せつける。以後獄則を犯して見ろ、減食ぐらいじゃないぞ。」
 と恐ろしい勢いで怒鳴りつけられた。
「ええ、何でもどうぞ。」
 と僕は、外国語学校の一学友の、海軍中将だとかいう親爺の、有名な気短か屋で怒鳴り屋だというのを思出しながら、(典獄はこの学友の親爺と言ってもいいくらいによく似ていた)そのせりふめいた怒鳴り方の可笑しさを噛み殺して答えた。
「何に!」
 と典獄は椅子の上に上半身をのばして正面を切ったが、こちらが黙って笑顔をしているので、
「もういいから連れて帰れ。」
 と、こんどは僕のうしろに不動の姿勢を取って突っ立っている看守に怒鳴りつけた。僕は幼年学校仕込みの「廻れ右」をわざと角々しくやって、典獄室を出た。これは幼年校時代の叱られる時のいつもの癖であったが、この時は皮肉でも何でもなく、思わずこの古い癖が出たのだった。

 幼年学校時代の癖と言えば、もう一つ、妙な癖をやはりこの監獄で発見した。
 これはその後よほど経ってからのことだが、やはり何か叱られて、看守長室へ呼ばれたことがあった。その看守長はせいの低い小太りで猫背の、濃い口髯の、そしていつも顔中髯だらけにしてその中から意地の悪そうな細い眼を光らしている男だった。僕等はこの男を「熊」と呼んでいた。
 はいると、いきなり、
「そこへ坐れ。」
 と顎で指さした。見ると、足元にはうすべりが二枚に折って敷かれている。僕は黙って知らん顔をしていた。煉瓦造りの西洋館の中で、椅子テーブルを置いて、しかも向うは靴をはいてその椅子に腰掛けながら、こちらには土下座をしろと言うのだ。僕はほとんどあきれ返った。
「なぜ坐らんか。」
「いやだから坐らない。」
「何がいやだ。」
「立っていたって話ができるじゃないか。」
「理窟は言わんでもいいから坐れ。」
「君も坐るんなら僕も坐ろう。」
 というような押問答の末に、さっきからその濃い眉をびくびくさせていた看守長は、決然として起ちあがった。
「命令だ! 坐れ!」
 僕はこの命令という声が僕の耳をつんざいた時に、その瞬間に、僕のからだ全体が「ハッ」と恐入る何ものかに打たれたことを感じた。そしてそれを感じると同時に、その瞬間の僕自身に対する反抗心がむらむらと起って来た。
「命令が何だ。坐らせるなら坐らせて見ろ。」
 さっきまでの冷笑的の態度が急に挑戦の態度に変った。そしてこの時もやはり、前の典獄室におけると同じように、そのまま自分の室へ帰された。叱られる筈のことには一言も及ばないうちに。
 この命令だという一言に縮みあがるのは、数千年の奴隷生活に馴れた遺伝のせいもあろうが、僕にはやはり大部分は幼年校時代の精神的遺物であろうと思われる。
 僕は元来ごく弱い人間だ。もし強そうに見えることがあれば、それは僕の見え坊から出る強がりからだ。自分の弱味を見せつけられるほど自分の見え坊を傷つけられることはない。傷つけられたとなると黙っちゃいられない。実力があろうとあるまいと、とにかくあるように他人にも自分にも見せたい。強がりたい。時とするとこの見え坊が僕自身の全部であるかのような気もする。
 こんど犯則があれば減食ぐらいでは済まんぞという筈のが、その後三日間と五日間との二度減食処分を受けた。一度は荒畑と運動場で話したのを見つかって二人ともやられた。もう一度のは何をしたのだったか今ちょっと思い出せない。
 荒畑も僕と同じようによく叱られていたが、ある晩あまり月がいいので窓下へ行って眺めていると、
「そんなところで何をぼんやりしている。……何に、月を見てるのだ? 月なんぞ見て何になる? 馬鹿!」
 とやられたと言って、あとでその話をして大笑いをしたことがあった。

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