海野十三全集第1巻・遺言状放送 |
三一書房 |
1990(平成2)年10月15日 |
その早暁(そうぎょう)、まだ明けやらぬ上海(シャンハイ)の市街は、豆スープのように黄色く濁った濃霧の中に沈澱(ちんでん)していた。窓という窓の厚ぼったい板戸をしっかり下(おろ)した上に、隙間(すきま)隙間にはガーゼを詰めては置いたのだが、霧はどこからともなく流れこんできて廊下の曲り角の灯(あかり)が、夢のようにボンヤリ潤(うる)み、部屋のうちまで、上海の濃霧に特有な生臭(なまぐさ)い匂いが侵入していたのであった。 その日の午前五時には本部から特別の指令があるということを同志の林田(はやしだ)橋二(はしじ)からうけたので僕は早速(さっそく)、天井裏(てんじょううら)にもぐりこみ、秘密無線電信機の目盛盤(ダイヤル)を本部の印のところにまわしたところ、果して、一つの指令に接した。こんどの指令は近頃にない大物だ。
[#次の段落には、天地左右にオモテケイ囲み]
JI13ハ直チニ海龍(かいりゅう)倶楽部(クラブ)副首領「緑十八」ヲ殺害スベシ。但シ犯跡ヲ完全ニ抹殺スベキモノトス。本部JM4指令。
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この意味を、暗号電文の中(うち)から読みとったときには、常にも似ず、脳髄がひきしめられるような気がした。緑十八といえば、秘密結社海龍倶楽部の花形闘士の中でも、昨今中国第一の評ある策士。辣腕(らつわん)と剽悍(ひょうかん)との点においては近代これに比肩(ひけん)する者無しと嘆(たん)ぜられているひと。しかしいつも覆面しているので顔も判らず、又平生(へいぜい)は、どんな生活をしているひとなのだか、それも殆んど判っていない。一体、この海龍倶楽部は、表面は一秘密結社ではあるけれども、その背後には某大国の官憲の庇護(ひご)があり、上海の警視庁と直通しているといわれ、何のことはない、某大国と中国警察との共同変装のようなものである。だから、その海龍倶楽部の副首領を暗殺するということは、非常に困難なことであり、危険さから云っても自ら爆弾をいだいてこれに火を点(つ)けるようなものである。暗殺行為の片鱗(へんりん)が知られても、僕はこの上海から一歩も外に出ないうちに、銃丸(じゅうがん)を喰(く)らって鬼籍(きせき)に入らねばならない。 「おい井東(いとう)」と同志林田が、天井裏から青い顔をして降りてきた僕に、心配そうに呼びかけた。「こんどの指令は、大分(だいぶ)大物らしいね。僕は君のためにあらゆる援助をするようにと本部から指令されてきた。なんでもするよ」 僕は忠実なる同志の方に振り向こうともせず、無言の儘(まま)、寝椅子の上に腰を下した。五分か、十分か、それとも一時間か、時間は意識の歯車の上を外(はず)れて、空廻(からまわ)りをした。僕の脳髄は発振機のように、細かい数学的計算による陰謀の波動をシュッシュッと打ちだした。 計画は出来上った。林田を自分の寝椅子の方に手招(てまね)きすると、その耳に口をあてて、重要な援助事項を、簡潔に依頼した。林田の赤かった顔色が、見る見るうちに蒼醒(あおざ)めて、話が終ると、額(ひたい)のあたりに滲(にじ)み出(で)た油汗が、大きな滴(しずく)となってトロリと頬を斜(ななめ)に頤(あご)のあたりへ落ち下(さが)った。 「井東!」と林田が、また懐(なつか)しそうに僕の名を叫んだ。 「今度は所詮(しょせん)、お互に助かるまいな」 「……」僕は顔を静かにあげて微笑してみせた。 「うふふ」林田も笑った。「君はいつも自信のあるような顔をしているじゃないか。だが、この前のF鉱山事件といい、この間の松洞(しょうどう)事件といい、某大国や警視庁は、あの兇行(きょうこう)を君がやったことはよく知っているのだぜ。唯(ただ)、犯跡(はんせき)が明白にわからないのと、君が前から海龍倶楽部の一員として活躍し相当彼等のためにもなっているところから、たとえ間諜(スパイ)でも今殺すのは惜しいものだと躊躇(ちゅうちょ)しているのだよ。だが今度の暗殺事件が、ちょっとでも下手に行こうものなら、直(す)ぐ様(さま)、彼奴等(きゃつら)は、君の自由を奪ってしまうだろう。ところで、今度の大将は、中々したたかものだ。まず君は引導(いんどう)をわたされていると考えてよい。つまらない自信だが、僕も骨を曝(さら)すつもりでいるよ」 同志は大変悲観をしていた。が、悒欝(ゆううつ)ではない。僕達の特務(とくむ)も、このたびが仕納(しおさ)めだと思うと、湧きあがってくる感傷(かんしょう)をどうすることも出来ないのであろう。 だが僕は、呼吸(いき)の通(かよ)っている間は、常に大きな希望を持っているのだ。敵が青龍刀(せいりゅうとう)を僕の頭上にふりあげたとしても、僕はその刃(やいば)が落ちて来るまでの僅かな時間にまでも希望を継(つ)ぐことであろう。運さえ悪くなければ、そのとき誰かが窺(うかが)いよって、その敵の胴腹(どうばら)に銃弾(たま)をうちこんでくれるかも知れないのであるから……。 況(いわ)んや僕等には敵に対して、武器以上の武器がある。そいつは、科学(サイエンス)である。海龍倶楽部の団員やその背後にある政府筋(すじ)や某大国の黒幕連(くろまくれん)などは、政治手腕はあり、金や権力もあるであろうが、要するに彼等は科学的には失業者に過ぎない。僕等は生活様式や境遇は失業者に違いないが、一度(ひとたび)、ハンマーを握らせ、配電盤(スイッチ・ボード)の前に立たせ、試験管と薬品とを持たせるならば、彼等の度胆(どぎも)を奪うことなどは何でもない。彼等を征服するには、科学が武器である。科学(サイエンス)! 科学(サイエンス)! 彼等の恐怖の標的である科学を以てその心臓を突いてやれ! 僕はそこに見当をつけて、同志に指令を与えたのだ。扉(ドア)を押して帰って行く林田橋二の後姿が、人造人間(ロボット)のようにガッシリして見えた。
僕は午前九時になると、いつものように職工服に身を固め、亜細亜(アジア)製鉄所の門をくぐり、常の如く真紅(まっか)にたぎった熔鉄(ようてつ)を、インゴットの中に流しこむ仕事に従事した。焦熱(しょうねつ)地獄(じごく)のような工場の八時間は、僕のような変質者にとって、むしろ快い楽園(らくえん)であった。焼け鉄の酸(す)っぱい匂いにも、機械油の腐りかかった悪臭にも、僕は甘美(かんび)な興奮を唆(そそ)られるのであった。特務機関をつとめる僕にとっては、このカムフラージュの八時間の生活は、休憩時間として作用してくれる。 夕方の五時になると、製鉄所の門から押し出されて、隠れ家の方へ歩いて行った。一丁ほども行って、十八番館の煉瓦塀(れんがべい)について曲ろうとしたとき、いきなり僕の左腕(さわん)に、グッと重味がかかった。そしてこの頃ではもう嗅(か)ぎなれた妖気(ようき)麝香(じゃこう)のかおりが胸を縛るかのように流れてきた。次に耳元に生温(なまあたたか)い呼吸(いき)づかいがあった。 「井東さん。こんばんワ」 「こんばんは、劉(りゅう)夫人(ふじん)」 「劉夫人と仰有(おっしゃ)らないで……。いじわるサン。絹子(きぬこ)と、なぜ呼んでくださらないの!」 「劉夫人」僕は、顔をはじめて曲げて彼女の桜桃(さくらんぼ)のように上気した、まんまるな顔を一瞥(いちべつ)した。「僕は、あなたの餌食(えじき)になるには、あまりに骨ばっています。もっと若くて美しい騎士(ナイト)たちが沢山居ますから、その方を探してごらんになってはどうですか」 「貴方は、すこしも妾(わたし)の気持を察して下さらない。貴方と同じ国に生まれたこの妾の気持がどうして貴方に汲(く)んでもらえないのでしょうかしら。こんな遠い異国に来て、毎日泪(なみだ)で暮している妾を、可哀想だと思っては下さらないのですか。妾は恥を忍んでまで、祖国のためになることをしようと思っているのですのに」 「そいつは言わないのがいいでしょう。情痴(じょうち)の世界に、祖国も、名誉もありますまい」 「貴方は、今晩はどうしてそう不機嫌なのです。さあ機嫌を直して、今夜こそは、妾のうちへ来て下さい。主人は今朝、北の方へ立ちました。一週間はかえってきますまい。さあこれから行きましょう。ネ、いいでしょう井東(いとう)さん。絹子の命をかけてお願いしてよ」 このしつっこい色情(しきじょう)夫人(ふじん)には、もう三十日あまりも纏(まと)いつかれていた。僕のような肺病やみのどこがよくて誘われるのであろうかと不審にたえない。しかし神経的に考えてみれば思い当らぬところがないでもないので、それは多分色道(しきどう)の飽食者(ほうしょくしゃ)である夫人が僕の変質に興味を持っているのであるか、それとも、ひょっとすると、同志林田の指摘したように僕の身辺(しんぺん)を覘(ねら)う一派の傀儡(かいらい)で、古い手だが、色仕掛けというやつかも知れない。もしそうだとすると、この劉夫人は容易に僕から離れては呉(く)れないだろう。だが夫人にあまり附きまとわれては、こっちの仕事が一向にすすまなくなるわけだ。こいつは高飛車(たかびしゃ)に出て、一遍で夫人を追い払うのがいいと思った。幸(さいわ)い、今夜の海龍倶楽部の会議迄には一時間ほどの余裕があった。 「夫人、では一時間だけお伴をしましょう」 「えッ、行って下さる。まア嬉しいわ」夫人は少女のように雀躍(こおど)りしてよろこんだ。「そこに自動車が待たせてありますの、さあ、早く行きましょう」 夫人が左手をあげて相図(あいず)をすると、路傍に眠っていた真黒なパッカードが、ゆらゆらとこちらへ近付いて来た。僕たちの乗った自動車は、真暗な商館街にヘッド・ライトを撒きちらしつつ走って行った。二十五番街へさしかかったとき、警告もなく、もう一台の自動車が、後から追いついて来て、いきなり窓と窓とを向いあわせて並列(へいれつ)疾走(しっそう)をはじめた。僕は腰のあたりに爆弾をうちつけられたような無気味(ぶきみ)な寒気に襲われた。もう三十秒これがつづいたならば僕は運転手を射殺しても、この車から外へ飛び出そうと決心した。 「劉夫人!」 僕は夫人の両手を執(と)って、ひきよせた。恋の抱擁(ほうよう)と見せかけて、夫人をこの危急の際の仮の防禦物(ぼうぎょぶつ)にしなければならなかった。十秒十五秒――。向い合った自動車の窓がスルリと開く。 「呀(あ)ッ」 叫んだのは劉夫人である。夫人は僕からとびのいて背後(うしろ)に隠れようとした。――その窓から現われ出た奇怪な顔。眼も唇も、額も頬もすべて真黒な顔。黒人か、さにあらず、構成派の彫像(ちょうぞう)のような顔の持主は、人間ではなくて、霊魂(れいこん)のない怪物のような感じがした。そのとき夫人の右手が、のびると見る間に、硝子(ガラス)窓越しに、短銃(ピストル)が怪物に向ってうち放された。怪物は真正面から射撃されて、その顔面(がんめん)を粉砕(ふんさい)されたと思いきや、平気な顔をつき出して、 「三十番街を左に曲れ」 と流暢(りゅうちょう)な中国語を発し、驚く僕たちを尻眼にかけて、背後(うしろ)の方へ下って行った。
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