呪いの極東
灰色の敵の巣窟に、これは又あまりにも似つかぬ極彩色の大図譜! 英才をもって聞えた帆村探偵も、この花鳥絢爛と入り乱れた一大図譜をどう解釈してよいやら、皆目見当がつかず呆然としてその前に立ち尽すばかりだった。――この壁掛図が、部屋飾りのために掛けてあるのでもなく、また偶然そこにあったというのでもないことは極めて明瞭だった。すると、 (――この大図譜こそは、×国間諜団の使命に密接な関係のあるものでなければならぬ!) 帆村はそれを確信した。 では、その図譜の持つ謎をどこに発見したものだろう。彼はいままでに、いろいろと複雑な暗号にぶつかったが、こんな種類のは始めてだった。尚身近くには油断のならない敵手「右足のない梟」がいて、ピストルに隙さえ見出せるならあべこべに彼の生命を脅かす位置に取代ろうと覘っている。しかもこの場所というのが、敵にとって便利この上もない巣窟にちがいない。この上どんな殺人的仕掛があるやら分らないし、またいつ危急を聞きつけて、決死的な新手の団員が殺到してくるか分らない。それを思うと、長居は頗る危険だった。 それにも拘らず、折角目の前に望みながら、どうにも手のつけようのない謎の大図譜! 流石の帆村探偵も、火葬炉の中に入れられたように、全身がジリジリと灼熱してくるのを覚えたのであった。 「さあ、――」と帆村は首領の背中を銃口で押して威嚇した。「この図譜が出て来たからには、もう観念してよいだろう。こいつの実行期は何日だ、それを云ってみたまえ」 帆村は、さも計画を熟知しているような顔をして、この機密に攀じのぼるための何かの足掛りを得たいつもりだった。 「はッはッはッ」と「右足のない梟」は太々しく笑って、「儂に聞くことはないでしょう。御覧のとおりですから、勝手にお読みになったがいいでしょう」 読めというのか。ではこの図譜の上に、すべてのことが書かれているのだ。――だが読めといっても、この花鳥乱れるの図を何と読んでいいのだろう。 「フフフフ、どうです。お分りかナ。――」 と首領は悪意を笑声に盛って投げつけた。それを聞くと帆村はもう耐えられなくなった。 「――分らなくて、どうするものか!」 と彼は叫んだ。自暴的な自殺的な言葉を吐くのが、彼のよくない病癖だったが、それを喚き散らすと、いつの場合も反射的に天来の霊感が浮んでくるのであった。今の場合もそうだった。 そうだもう一つの押釦があった。 その押釦を押しさえすればいいのだ。心配は押してみてから後でもよい! 帆村はつと手を伸べて、首領席についているもう一つの押釦をグイと押した。すると、果然その反応は起った。 図譜に向いあった壁面に、一つの穴のようなものがポカリと明くと、その中からサッと赤色の光線が迸ると見るより早く、かの大図譜の上に投げ掛った。 と。―― なんという不思議! 大図譜の上に乱れ飛んでいた花鳥がサッと姿を消して、その代りに図譜の上には大きな地図が現れた。地図! 地図! 青色の大地図だった。そして意外にも極東の大地図だった。日本を中心として、右には米大陸の西岸が見え、上には北氷洋が、西には印度の全体が、そして下には遥かに濠洲が見えている。その地図の上には、ところどころに太い青線で妙な標がついていた。――ああ矢張り密偵団の陰謀は、この大地図の上に印せられてあったのだ! 帆村の興奮は、その極に達した。 が、そこに恐ろしい危機があった。帆村の警戒の目がちょっと留守になったのだ。 ガチャーン――と、烈しい物音! ガラガラと硝子の壊れ落ちる響がしたと思うと、途端に赤い光線がサッと滅した。そして面妖にも、青色の極東を中心とする大地図が消え失せて、あとには始めにみた花鳥の図が、何事もなかったように壁間に掛っていた。―― 「やったナ」 と首領の方に気をくばる。―― もう遅かった。ガーンと帆村の頤を強襲した猛烈な打撃! 彼はウンと一声呻るとともに、意識を失ってしまった。
樽のある部屋
それから、どのくらい時間が経ったのか分らなかったが、兎に角帆村探偵は頸筋のあたりにヒヤリと冷いものを感じて、ハッと気がついた。 (おや、自分は何をしていたんだろう?) そのような疑惑が、すぐ頭の上にのぼってきた。 目を明いてみたが、なんだか薄暗くて、よくは分らない。 (一体ここは何処だろう?) と、不思議に思って、立ち上ろうとしたが途端にイヤというほど脳天をうちつけ、ズキンと頭部に割れるような痛みを感じた。 ガラガラガラ! 続いて、何か板のようなものが、床の上に落ちるような音がしたので、ハッとして飛びのこうと身を引く拍子に、 「呀ッ!」 と声をたてる遑もなく、 ガラガラガラ! と、足が引懸ったまま、その場に身体は横倒しになってしまった。そして顔の真正面から、なにか土か灰かのようなものをパーッと浴びてしまった。 プップッと、唾を吐きつつ彼は漸く立ち上った。そして薄暗がりの中ながら、彼は大きなセメント樽のようなものの中に入っていたことが分ってきたのである。 よく目を見定めると、そのセメント樽のようなものが、その外いくつも並んでいた。まるで工場の倉庫みたいな感じである。倉庫ではないが、而も異様の臭気が室内に充満していて、それがプーンと鼻をついたが、丁度塩鮭の俵が腐敗を始めているような臭いだった。ここは倉庫かなとは、そのとき既に思ったことだったが確かに先刻までいたあの大広間ではない。誰がこんなところへ連れてきたのか。 「うん、そうだ。こいつは『右足のない梟』の仕業に違いない。ここは地下室の底だな。それにしても……」 と、帆村は手近の一つの樽の方へ近づいて、彼が、さっき落したと同じ蓋を手で取払って内部を覗きこんだ。 「呀ッ、これは……」 帆村探偵は、内部を覗くと同時に思わず弾かれるように身を引いた。その樽の中には室内の異臭を作っている原因の一つがあったからである。 それは又、危く彼が陥りかけた恐ろしい運命を物語るものでもあった。実に樽の中には、何者とも知れぬ一個の屍体が入っていたのである。いや一個だけではない、探してみると都合四個の屍体を発見することが出来た。ああ、すると此の部屋は屍体置場にひとしいのであった。 彼は覚醒したことの幸運を感謝した。もうすこしで、彼自身でもって屍体を、もう一個殖やすところだったのである。まあよかったと思ったものの、その後で、すぐ大きな不安が押しかけて来た。 (この部屋には出口が明いているだろうか?) という心配だった。 帆村は樽の傍を離れて、三十坪あまりもある其の室内をグルグルと廻りあるき、出口と思うところを尋ねて歩いたその結果、彼の探しあてたものは頑丈なコンクリートの壁ばかりだった。出口は有る筈なのであるが、隠されて見えなかったし、もし見つかってもこれは押したぐらいでは明かないことがハッキリした。彼はすっかりこの屍室に閉じこめられてしまったことに漸く気がついた。 「生き埋めか? そいつはたまらん!」 と帆村は独言を呟いたが、彼はそれほど慌てているわけではなかった。彼はこの屍室にはもっと汚穢した空気が溜っていなければならぬのに、それほどではないのを不審に思った。すると――どこかに空気抜けが明いているに違いない。彼は薄暗い天井に眼を据え、綿密に観察していった。果然―― 「ああ、あそこに空気抜きがある!」 彼はとうとう部屋の一隅に求めるものを発見した。どうやら身体が抜けられるらしい。それが分ると、彼は急いで樽の明いているのを集めた。そしてそれを城のように積み重ねていった。遂にそれは天井に達した。彼は雀躍せんばかりに喜んで、その空気の抜ける孔の中に匍いこんだ。 孔の中は冷え冷えとしていた。そして彼の元気を盛りかえらせるような清浄な空気の流れがあった。彼は思わず深呼吸をくりかえしたが、それが済むと、ソロリソロリと真暗な孔の中を匍い始めるのだった。 空気孔は太い鉄管になっていて、帆村の身体を楽に呑みこんだ。ソロソロと横に匍ってゆくと、掌は鉄管のために冷え冷えと熱をとられ、そして靴が管壁に当ってたてる音がワンワンと反響して、まるで鬼が咆哮している洞穴に入りこんだような気がした。一体この空気管はどこへ抜けているのだろう。なにしろこう真暗では、何が何やら見当がつかない。 「おおそうだ。――僕は懐中電灯を持っていた筈だ」 帆村は重大なことを忘れていたので、思わず暗中で顔を赧らめた。慌てないつもりでいたが、やはり慌てていたのだ。もちろん生命の瀬戸際で軽業をしているような有様なのだから、慌てるのが当り前かも知れないが……。 「ああ、有ったぞ!」 帆村はいつも身嗜みとしていろんな小道具を持っていた。彼はチョッキのポケットから燐寸函ぐらいの懐中電灯をとりだした。カチリとスイッチをひねると、パッと光が点いた。有り難い、壊れていなかったのだ。眩しい光芒の中に異様な空気管の内部が浮びあがった。彼は元気をとりかえして、ゴソゴソと前進を開始した。 だが、その前進は永く続かなかった。なぜなれば、五メートルほどゆくとそこに円い鉄壁があって、もはや前進が許されなくなった。残念にも空気管はそこで端を閉じているのであった。 「行き停りか――」 帆村は吐きだすように云った。これではもう仕方がない、でも空気は冷え冷えと彼の頬を掠めている。それを思うと、まだ外に抜け道があるに違いない。彼は管の中に腹匍いになったまま、ソロリソロリと後退を始めた。そしてすこし下っては、左右上下の天井を懐中電灯で照らし注意深い観察をしては、またすこし身体を後退させていった。彼は次第次第に沈着さを取返してくるのを自覚した。すると遂に彼の予期したものにぶつかった。 「ああ、こんなところに、縦孔があった!」 縦孔! それはさっき通り過ぎたところに違いなかったのだけれども、その時は慌ててしまって、ついうかうかと通り過ぎたものらしかった。――天井に同じ位の大きさの丸い孔がポカリと開いているのを発見したのであった。 帆村はその天窓のような孔に顔を入れて、懐中電灯の光を上方に向けてみた。真黒な鉄管は煙突のようにズーッと上に抜けていた。 「こいつを登ってゆこう!」 と、咄嗟に彼は決心をした――が、どうして登るというのだ? そこは足場もない高い高い鉄管の中だった。ああ、折角の抜け道を発見しながらも、人間業では到底これを登り切ることはできないのか。いや、何事も慌ててはいけない! 「うん。――こうやってみるかナ」 彼はポンと膝を叩いた。彼の目についたのは、鉄管と鉄管との継ぎ目であった。それは合わせるために一方が内側へ少し折れこんでいて、その周囲にリベットが打ってあった。――そいつが足掛りになりはしないか。彼は靴を脱ぎ靴下を取って、跣足になった。そして靴下は、ポケットへ、靴は腰にぶら下げると、壁に高く手を伸ばして、そこらを探ると、幸いに指先に手がかりがあった。そこで十の爪に全身の重量を預けて、器械体操の要領でジワジワと身体を腕の力で引上げた。俄に強い自信が湧いてくるのを感じた。 全てが忍耐の結晶だった。 「ウーン、ウーン」 彼は功を急がなかった。ユルリユルリと鉄の管壁を攀じのぼっていった。だから、到頭二十メートルもある高所に登りついた。――そして、彼の頭はゴツンと硬い天井を突きあげたのだった。 「ああ、また行き停りか」 彼は失望のために気が遠くなりそうになりかけて、ハッと気がついた。こんなところで元気を落してはなるものかと唇をグッと噛み、右手をあげて天井を撫でまわした。すると指先にザラザラした粗い鉄格子が触れた。空気がその格子から抜けているのだった。 鉄格子ならば、これは後から嵌めたものに違いない。これは下から突くと明くのが普通だと思ったので、帆村は腕に力を籠めてグッと押しあげてみた。するとゴトリという音がして、その重い鉄格子が少しもち上った。帆村の元気は百倍した。下に落ちては大変だと気を配りながら、満身の力を奮って、鉄格子を押しあげた。格子は彼の想像どおり、ズルズルと横に滑っていった。
上一页 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] 下一页 尾页
|